茶筅を軸に未来を描く。高山の若き茶筅師 有山正貴さんの挑戦

昨今、世界で空前のブームが起き、日本の抹茶に注目が集まっています。

マグカップなど好みのうつわで気軽に抹茶や抹茶ラテを楽しむ人が増える中で、美味しい抹茶を点てるために代替が難しい道具が、茶筅です。

国内の茶筅でトップシェアを誇るのが、奈良県生駒市高山町で作られる「高山茶筌」。国指定の伝統的工芸品としても知られ、そのシェアは実に99%にものぼります。

室町時代から500年の歴史を持つ高山町の茶筅作りは、かつて一子相伝、口伝によってのみ受け継がれていました。

時代の移り変わりとともに、門外不出という側面は薄れてきたものの、外部からやってきて茶筅師になる人はまだまだ少なく、現在では職人の高齢化や後継者不足という大きな課題に直面しているのが現状です。

今回は、そんな世界に自ら飛び込んでいったひとりの若者を紹介します。

自分のルーツに深く関わる「茶筅師」への思い

有山正貴さん

今回の主役は、茶筅の町 高山出身の若き茶筅師・有山正貴(ありやま・まさき)さん。

有山さんのお祖父様が創業し、20年以上前に一度は廃業してしまった茶筅師の屋号「明竹園」を令和の時代に復活させ、高山の地で修業と製作を続けています。

「20代の頃は、自分と言えばこれ!という何かをずっと探していた気がします」と話す有山さん。

大学生の頃には国際交流団体の立ち上げや運営をおこなったり、その後自分のやりたいことを模索しながらバックパッカーとして海外を旅したり、妻が経営するカフェの立ち上げをサポートしたりと、さまざまなことに熱中していました。

そして30代になり、あらためて自分は何者なのかと考えていたある日、茶筅師だった祖父の思い出が残る実家の部屋でふと、「茶筅、やってみよう」と思い立ちます。

祖父が使っていた道具も残っていた

故郷の町を代表する伝統工芸でもあり、祖父が人生をかけた仕事でもある。自身のルーツと深く関係する茶筅師の仕事を突き詰めていけば、「自分はこれなんだ」と胸をはって言えるのではないか。

そんな思いを抱いた有山さんは持ち前の行動力を発揮し、茶筅師への道を歩み始めました。

茶筅師・谷村丹後さんとの出会い

まずは知ることから始めようと、茶筅作りの実演見学と糸掛け体験講座に参加。そこで出会ったのが、のちに師事することとなる和北堂20代目当主・谷村丹後(たにむら・たんご)さんでした。

谷村丹後さん

丹後さんの技を目の当たりにした有山さん。体験後、たまたま丹後さんと1対1で話せる時間があり、そこで茶筅師になりたい、弟子にしてほしいという思いを打ち明けます。

初めて糸掛け体験をした茶筅。勢いあまって、通常は3重のところを4重に糸を掛けてしまったのだとか

「弟子はとっていない」と、一度は断られたものの諦めきれず、コンタクトを取り続けた有山さん。その姿勢に感心した丹後さんは、「じゃあ一回、作った茶筅を見せて」と返事をします。

そこから、定期的に課題を与えられてはそれに応えていく関係性が築かれていきました。

出した課題に対して、「こちらの想像を超える仕上がり」に驚いたと言う丹後さん。それならばと次の課題を出してみると、またクリアしてくる。その筋の良さを見て、「面白いな」と感じたそうです。

「師弟というか、そんなきっちりとした関係ではないんです。なりゆきで」

丹後さんは、有山さんとの関係をこう表現します。

それは拒絶でも、突き放すことでもなく、同じ土地で茶筅作りに携わる仲間として「持ってきた茶筅を見て、思ったことを伝えているだけ」なのだと。

有山さんが持ってきた茶筅を手に取り、「これはやや硬めやな。こっちは前と比べたら全然良いね」などと伝える丹後さん
課題に熱心に取り組み、そのたび大きく成長する有山さんに「大したもんや」と丹後さんも賛辞を送ります

ハマれば超集中。茶筅作りの全工程に向き合い続けた日々

茶筅作りを始めた最初の3ヶ月は当時住んでいた東大阪で。2025年の8月からは家族で高山町の実家に移り住み、ひたすら茶筅を作り続け、1〜2週間に1度は丹後さんの元へ通う日々を送ります。

この1年余りで作った茶筅は、100本をゆうに超えているのだとか。

幸い、竹を割るための道具も、削るための包丁も、お祖父様たちが使っていたものが残っていました。幼いころ、遊んでほしくて茶筅を作る祖父母の隣でずっと待っていた作業部屋。今、その場所で同じように茶筅を作る有山さんの姿に、「きっと、おじいちゃん、おばあちゃんも喜んでくれていると思う」と、話します。

難しいとされる「味削り」の工程。狙った薄さに削るのは感覚が頼り
有山さんの茶筅作りをきっかけに、「一緒にやってみようかな」と、廃業以来20年近くぶりに道具を手にしたというお父様。茶筅作りを復興していく息子の姿を、静かに、けれど嬉しそうに見守っています

茶筅は通常、専門の工程ごとに分かれた分業で作られます。

かつての有山家でも、例えばお父様は穂先を薄く削る「味削り」という工程、お祖母様は外穂を織りあげ糸で編む「編みかけ」、そしてお祖父様は最後に形を美しく整える「仕上げ」というように、家族や近所に住む職人たちが、それぞれの工程を分業で担っていました。

茶筅の基本工程見本(お祖父様の作)

有山さんは今、ひとりですべての工程に向き合っています。

「やるなら全部やりたいし、全工程が楽しいんです」

一子相伝として守られてきた技を丸ごと引き受けたい、そこには、有山さんらしいまっすぐな好奇心がにじみます。

穂先の硬さを確認する有山さん、最適解を感覚でさぐる

「前後の工程がそれぞれにどう影響するか、分かっていることが本当はベスト」

と、自身もすべての工程を習得している丹後さんも有山さんの姿勢を後押しします。多くの職人は自分が担当する工程には精通していても、それが前後の工程にどう影響しているかまでは、正しく理解できていないのだとか。

「背景を語ることもできるし、すべての工程をパフォーマンスとして見せることもできる。非常に貴重な存在じゃないかなと思うんです」と、有山さんを評する丹後さん

最後の仕上げがやりにくいと感じた時、「なぜだろう」と振り返ってみる。すると、小割の工程がうまくいってなかったことに気づく。すべての工程を自分で経験しているからこそ、そのつながりが見えてくる。

すべてをひとりでやることは、分業が当たり前になった今の高山では、極めて稀な学び方なのだと、丹後さんは感心していました。

一人前の職人になるには5年、10年とかかる。そんなイメージを覆すように、わずか1年余りでひと通りの工程をこなす有山さん。

有山さんの茶筅を実際に使用している茶論*の店長からも、その成長の速さについて驚く声が聞こえてきます。

(*茶論(さろん):中川政七商店が運営する「茶道文化の入り口」を広げることを目的とした茶道ブランド)

「有山さんの茶筅について、点て具合や穂の折れ具合などの経過をお伝えしたら、次の納品ではそれが全部改善されていて。その吸収具合がすごいんです」(茶論 奈良町店 店長・西)

仕上げの工程

特に難しい仕上げの工程についても、「この数か月で段違いに精度が上がった」と太鼓判を押されています。

「器用とは言われますけど、それ以上に好きになったことにはドハマりするんです。ただただ、ひたすら作るのみですね」(有山さん)

とシンプルに力強く答える姿が印象的でした。

高山にとっても「初」となる挑戦

「一番売れていたのは、お茶やお花が花嫁修業だった時代ですね」

そんな風に振り返るのは、長年、高山茶筅を見守ってきた奈良県高山茶筅生産協同組合 所長の吉川和博(よしかわ・かずひろ)さん。

日本一の茶筅の産地として500年以上の歴史をもつ高山ですが、時代とともに茶道人口が減少する中、茶筅作りも縮小していきました。後継者不足から廃業する工房も少なくありません。

吉川和博(よしかわ・かずひろ)さん
生駒市が運営する高山竹林園

今、抹茶ブームが来て、これまでの流れを変える追い風が吹いています。しかしその一方で、人手不足と作り手の高齢化によって生産能力を上げることができないジレンマも抱えています。

茶筅組合に加入している茶筅師は、最盛期で40軒以上あったものの、今では16軒まで減少。このうち「後継者が決まっている家は、4〜5軒ほど」なのだそうです。

茶の湯の広がりとともに、たくさんの流派が生まれ、茶筅の種類も増えていった
材料となる竹の不足という課題にも直面している

そんな状況の中、一度は廃業した家の息子が、故郷へ戻り茶筅作りを再開する。そんなケースは、「有山さんが、初めてだと思います」と吉川さん。そのひと言には、産地の未来への希望がにじんでいました。

この日、有山さんは最初の茶筅として知られる「高穂」に興味を持ち、ほかの種類との違いや竹の割り方による穂の本数の話などに耳を傾けながら、「そうか、そういうことか」と、吉川さんから新しい知識を吸収し、理解を深めていました。

作りながら学び、知りながらまた作る。その姿は、500年続いてきた産地にとっても新しい風なのかもしれません。

始まりの茶筅とされる「高穂」
流派により竹の種類や穂先の形状が決まっている茶の湯の世界

自らの挑戦が高山町にとってどんな意味を持つのか。

有山さん自身は、「僕は自分がやりたいからやってるだけやけど、それが高山の役に立ってたら、嬉しいですね」と、照れくさそうに話してくれました。

一人の「やってみたい」という好奇心から始まった挑戦は、いつの間にか、地域の未来にもつながる一歩になり始めています。

高山竹林園に資料館を整備し、「茶筅の里」として茶筅作りの歴史や技術を広く発信するPR活動も行われている
茶筅作りの実演やお茶会が定期的に開かれ、外国人観光客の姿も少なくない
高山竹林園にある本格茶室「竹生庵」。竹と生駒市から命名

茶筅を手に、海の向こうへ

「小学校の時、この部屋の世界地図を見ながら、おじいちゃんにこの国に行きたいって、よく言うてたんです」

大学生時代の留学や、バックパッカーとして世界を旅した経験。有山さんの海外への憧れは幼い頃からのものでした。

茶筅師という技術を身につけた今、「何もなしのバックパッカーで行くのと、茶筅師として行くのとは全然違う」と、目を輝かせます。

丹後さんも、スタンフォードとロサンゼルスでの講演や実演を経て、海外での茶の湯文化への関心の高さを実感しています。

自身でも海外への発信を広げていきたいと話す丹後さん

いずれ高山を拠点にしながら海外へ茶筅を届けたいという思いを抱く有山さんに対して、「半製品をバックパックに詰めていって、旅先で仕上げてその場で売ったらええよ」と、笑いながら話す丹後さん。

冗談のようでいて、伝統を守るだけでなく、自ら動いて新しい場所へ届けていく、丹後さんらしい自由な発想がありました。

「作り手の顔が見えるということは非常にいいこと。私たちは茶筅を売っているけれど、同時に自分自身も売っている部分がある。SNSがこれだけ活用されている時代だからこそ、自分という職人のスタイルやバックグラウンドも合わせて発信していくことが大切」とも語ります。

実際、今年に入ってからSNSを通じて有山さんに依頼があり、自身が作った茶筅をシンガポール、そしてオーストラリアへ発送したのだとか。その時も丹後さんは「どんどん出していこう」と、有山さんらしいつながりを快く見守り、その背中を押してくれたのだとか。

「丹後さんのおかげはもちろん、両親やご先祖さん、高山で茶筅を守り続けてきた先人の方々、茶筅を発明した方、自然(竹)の、おかげだと感じています」

そう話す有山さん。その言葉の一方で、人との縁をつなぎ、やると決めたらまずは動いてみる。その人懐っこさと行動力こそが、茶筅師としての新しい道を切り拓いているようにも感じます。

竹藪の管理も始めた有山さん。手入れ方法を学びながら若い竹を残し、太くなった竹を切る。数年後には、自ら育てた竹で茶筅を作ることも楽しみのひとつ

血のつながりを超えて、次の世代へ

田んぼの再生にも着手したという有山さん。茶筅を作ること、竹を育てること、田んぼを守ること。別々に見えるこれらの行動は、有山さんの中でひとつの軸でつながっている

 有山さんは、この夏、茶論で茶筅作りのワークショップにも初挑戦します。

「恐れることはない。一回やってみて、反省して、また次に生かしたらいい」。

丹後さんの言葉には、長年積み重ねてきた経験と、若き茶筅師への信頼がにじんでいました。

それでも、「卒業はないんですよ。私は父が唯一の師匠ですが、その父が85歳の時点で『まだ修行中』だと言っていました」と丹後さん。

竹は一本一本違い、その年の気候によっても表情が変わる。同じように作っても、同じものは二つとできません。だから職人は、生涯をかけて竹と向き合い続ける。

「いつでも来てくれたらいい。その時の仕事を見て、思ったことを伝えるだけ。それだけでも意味があると思う」

年齢は違っても、同じものづくりに携わる者同士だからこそ交わせる言葉、わかりあえる感覚があります。

丹後さんには実の息子さんもいます。もし将来、その子が茶筅師になりたいと言った時、「自分が教えられる状態でなければ、有山くんが教えてやって欲しい」。そんな思いも語ってくれました。

有山さんも、「それが、丹後さんへの唯一の恩返しかもしれない」と話します。

高山で受け継がれてきた茶筅作りは、今、親から子へという継承だけでなく、使い手から作り手へ。そして作り手から次の世代へと、人と人の間を行き交いながら未来へ向かおうとしています。

師弟というより、同じ方向を見る同業者として。

そこには高山茶筅の新しい可能性が広がっていました。

文:石田多美
写真:黒田タカシ

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