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紀州漆器とは

庶民に愛された実用の器の歴史と特徴

紀州漆器の基本情報

紀州漆器とは和歌山県海南市黒江で、室町時代からつくられる漆器。

黒江に移住した近江(現在の滋賀県)の木地師(木材を用いて、椀や盆などをつくる職人)らが、紀州(現在の和歌山県)の豊富な材木で渋地椀(しぶぢわん。柿渋に木炭の粉をまぜたものを、下地とした椀)をつくり始めたのが起源とされる。その地名から「黒江塗」とも呼ばれている。

一般的な漆器では下地にも漆を用いるのだが、紀州漆器では下地は主に柿渋や膠(にかわ)を用いてシンプルかつ丈夫に仕上げられる。また、江戸時代の中期ごろには分業制が敷かれ、品質を保ちつつ大量生産できる体勢が整えられてきた。これらは庶民の「実用の器」として、手頃な価格に抑えるためだという。

明治維新の廃藩置県で藩の保護を失い、一時は衰退しかけた紀州漆器であるが、明治には沈金の技術の導入や、蒔絵の図案の改良、昭和には天流塗や錦光塗、シルク塗りなどの考案、と逆境をバネに技術を発展させてきた。

また、今日では漆ならではの風合いを残しつつ近代的なかたちや色合いを調和させた商品が開発されるなど、紀州漆器の新たな需要の開拓も進められている。



  • 工芸のジャンル

    漆器

  • 主な産地

    和歌山海南市、紀美野町

室町時代から和歌山県海南市黒江でつくられてきた「紀州漆器」。

シンプルで丈夫なつくり、そして漆器としては手に取りやすい価格帯で、普段使いしやすい「実用の器」として庶民に親しまれてきました。

今回は、「日本三大漆器」にも数えられる、紀州漆器の歴史と特徴をご紹介します。

谷岡公美子氏 絵付風景(提供:紀州漆器協同組合)

ここに注目 福島の会津塗、石川の山中塗・輪島塗と並ぶ三大漆器

紀州漆器は福島県の「会津塗」、石川県の「山中塗」や「輪島塗」とならび、日本における「三大漆器」のひとつに数えられる。

江戸時代には紀州徳川藩の保護のもと発展。「木地師」や「下地師」、「塗師」と徹底した分業制をしいてきたこともあり、黒江は漆器関係の従事者およそ1,200軒が軒を連ねる一大産地として栄えていたという。

紀州漆器の始まり・根来塗とは?

紀州漆器はもともと「根来塗」という漆器に起源を持つという説もある。なお、根来塗とは根来寺(和歌山県岩出市の寺)の僧侶たちにより、什器(じゅうき。日常の器のこと)としてつくられていたものだ。

根来塗りは椀や膳などの木地に、中塗りは黒漆、上塗りは朱漆で仕上げられる。当時の僧侶はあくまで素人であったため塗りにはムラがあり、使うほどに朱漆が剥がれて、ところどころ黒漆が露出していた。しかし、それがかえって趣あるものとして評価され、のちにはあえて朱漆を剥がした製品もつくられたという。

林克彦氏作 根来塗ひょうたん盃(提供:紀州漆器協同組合)
林克彦氏作 根来塗の椀(提供:紀州漆器協同組合)

紀州漆器の使い方、洗い方、保管方法

飯碗や汁椀といった日常の器から、重箱や屠蘇器(とそき。祝い酒を飲むための酒器)のように特別な器まで、漆器は暮らしのハレとケ、どちらにも欠かせない。

紀州漆器の歴史

紀州漆器の始まりはお寺から

紀州漆器は室町時代の初期、1400年ごろに近江から木地師たちが黒江に移住し、紀州の豊富な材木を用いて渋地椀をつくり始めたのが起源とされる。

また、1585年(天正13年)に豊富秀吉の兵火で消失した根来寺の僧侶たちが、自らの什器として椀や膳、盆などをつくった「根来塗り」を始まりとする考えもある。

1688年(元禄元年)の書物「毛吹草」では紀州漆器のことを「紀伊黒江渋地椀」と紹介しており、1712年(正徳2年)の書物「和漢三才図会」では紀伊の名産として取り上げており、これらがもっとも古い記録として残されている。

江戸期、紀州漆器の隆盛

江戸時代以前の黒江は商人が少なく、諸国への流通はあまりされていなかったという。それが江戸時代の中期ごろになると紀州徳川藩の保護を受け、さらに分業化が進められたことで安価かつ大量生産が実現される。このころには専業の漆器商人や漆器買次商が登場し、黒江で塗物の流通は活性化していった。

なお、始めのころの紀州漆器は、吸物椀や八十椀などの「椀物」が中心で、重箱や盆など多様なものがつくられるようになったのは1800年代から。さらに、1826年(文政9年)に小川屋長兵衛という工人が堅地板物の製作に成功、天保年間(1830年〜1844年)には金粉や銀粉を用いた蒔絵が導入、長崎や神戸を訪れる外国商人を相手に直売を開始、と黒江は渋地椀の一大産地として栄えていく。

明治以降、国外輸出へ切り替える

明治維新の廃藩置県で紀州漆器は藩の保護を失い、一時は衰退しかけるものの、1870年(明治3年)ごろから本格的な海外貿易が開始されたことで回復。1883年(明治16年)には輸出される漆器のうち、57%が紀州産であった。

1879年(明治12年)には漆面を彫ったのちに、金箔などを埋めて模様をつける「沈金」が導入。また、1898年(明治31年)には蒔絵師を京都から招いて蒔絵の図案の改良がされるなど、紀州漆器は新たな技術が開発されていった。

しかし、輸出額は明治時代の中頃をピークに減少していくこととなる。

林克彦氏作 棗(抹茶をいれる茶器)のセット(提供:紀州漆器協同組合)
林克彦氏 絵付風景(提供:紀州漆器協同組合)

現代における紀州漆器

大正前期から昭和前期にかけて、産地で天流塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案される。また、昭和30年代前半にはハードボード、後半にはプラスチック素材など新素地材が導入されるようになる。

そして、1949年(昭和24年)に黒江は「重要漆工業団地」に、1978年(昭和53年)に紀州漆器は国の「伝統的工芸品」に指定された。現在、漆芸家の林克彦氏、谷岡敏史氏、谷岡公美子氏の3名が、紀州漆器の「伝統工芸士」に認定されている。

消費者のライフスタイルの変化とともに漆器は需要が減少している今日、紀州漆器では職人の高齢化も深刻化しており、若い技術者の育成が課題とされる。

ここで買えます、見学できます

紀州漆器伝統産業会館(うるわし館)

うるわし館(提供:紀州漆器協同組合)

紀州漆器の里「黒江」のシンボル的な存在。館内には漆器づくりの道具や資料、作品が展示され、紀州漆器づくりの工程や、歴史を知ることができる。また、常設の販売所があり、土・日曜には蒔絵体験(要予約)も可能。紀州漆器について楽しみながら学べる施設となっている。

紀州漆器まつり

紀州漆器まつり(提供:紀州漆器協同組合)

毎年11月の第1土・日曜に、海南市黒江で開催される祭り。のこぎり刃状の町並みが印象的な「川端通り」にはおよそ30軒もの漆器問屋が軒を連ね、まつりの間、椀や盆などの漆製品をお得に買うことができる。また、美味しいグルメがいただける「うまいもの横丁」や、蒔絵体験なども開催。毎年、県内外からおよそ6万人もの来場者がある、紀州漆器の一大イベントだ。

関連する工芸品

漆とは。漆器とは。歴史と現在の姿

https://sunchi.jp/sunchilist/craft/109680

紀州漆器のおさらい

木製品の主な工程

古くから徹底した分業制がしかれた紀州漆器。その工程は大きく4つに分けられる。

木地師

完成品にゆがみが生じないよう数年かけて乾燥させた木材を、ノコやカンナなどを用いて椀や盆などのかたちとする。

下地師

粗さの目立つ木地に、漆と砥の粉をまぜたものを塗ることで整える。

塗師

水漏れの防止や仕上がりを美しくするために、漆を下塗りと中塗り、上塗りの3つ工程に分けて幾重にも塗り重ねる。

加飾師

できた漆器は、蒔絵や沈金などを用いて絵や模様の装飾が施される。

谷岡敏史氏 塗り風景(提供:紀州漆器協同組合)

主な変り塗

紀州漆器の変り塗の主な技法として天流塗、錦光塗、シルク塗がある。

天流塗

錦光塗など紀州漆器における、いくつかの変り塗の考案に影響を与えた技法。木柄に三味線の糸を巻いて、漆を流したものが主流とされる。

錦光塗

天流塗から着想を得て考案された技法。天流塗のように同方向に漆を流すのではなく、遠心力を利用して漆を周囲に放射させるように流す。

シルク塗

亜鉛引鉄板を透漆で塗装したときの光彩から着想を得て考案された技法。様々な技術課題を解決して、1935年(昭和10年)に完成された。

数字で見る紀州漆器

・誕生:室町時代ごろ

・出荷額:およそ46億円

・従事者(社)数:事業所は112軒(2020年8月時点)

・取扱商品:盆類が50%、室内装飾品類が15%、食器等その他が35%

・1987年(昭和53年)に国の伝統的工芸品に指定

関連の読みもの

参考

・『和歌山県の伝統工芸品 紀の工芸 紀州漆器』和歌山県情報館(2013年)
・和歌山県漆器商工業協同組合/創立100周年記念誌編集委員会 編『紀州漆器のあゆみ』和歌山県漆器商工業協同組合(1986年)
紀州漆器協同組合「紀州漆器の里から うるわし漆」
京都女子大学生活デザイン研究所「紀州漆器 庶民に愛された漆器」
海南市「紀州漆器」

(以上サイトアクセス日:2020年07月23日)