尾道の今はこの人に聞く。“負の遺産”を人気のカフェや宿に再生する「尾道空き家再生プロジェクト」豊田雅子さんが語る町の魅力
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尾道といえば‥‥千光寺に尾道ラーメンだけとは限りません。新しくなった尾道駅、長い長い商店街には昔ながらの商店と新店が混在。
例えば、長屋をリノベーションしたゲストハウス「あなごのねどこ」、深夜に開店する古本屋「弐拾dB」。
昭和のアパートを工房やギャラリー、カフェとして再生させた「三軒家アパートメント」、築約100年の古民家を再生した宿「みはらし亭」など、新しいのにどこか懐かしい、ユニークな見所が増えています。
そうしたスポットの多くに共通するのが、現地の空き家や空き店舗を活用していること、移住してきた人が営んでいることです。
尾道に新しい風を起こしてきた立役者を訪ねました。NPO法人尾道空き家再生プロジェクト、通称「空きP」代表の豊田雅子さんです。
豊田さん達が手掛けた最新の再生物件「松翠園大広間」を案内してもらいました。
昭和の意匠を残す旅館の大広間をよみがえらせる
JRの線路を挟んで北の山側に住宅街、海側に商店街が広がる尾道の町。
その日待ち合わせた豊田さんはJR尾道駅北口からすぐ、住宅街の間にある石段を上へ上へとあがっていきます。
さすが“坂の町”の住人、手慣れたもので、斜面を登る速度も早い。
息を切らして、たどりついた先は、大きなお屋敷でした。かつて「松翠園」という旅館の離れとして、宴会や冠婚葬祭に利用されていた場所なのだとか。
玄関から渡り廊下を進むと、眼下には尾道駅周辺の町並みが広がり、室内に目を向けると60畳もの大広間が。60センチ四方に区切られた格天井、老松を描いた小上がりの舞台は往時をしのばせ、圧倒的なスケールです。
縁側は一枚ものの松の床板でできていて、長さ16メートル。
大広間の舞台対面にある床の間は二間 (約360センチ) の幅があり、松皮菱と瓢箪の透かしが施された凝った意匠。
「ここは戦後間もなく建てられたので築70年余り。手の込んだ造りの建物がずっと放置されていて、欄間などは勝手に外され、売り飛ばされたりして‥‥」
「二度と再現できない貴重な建物も、使わなければ傷んでいくばかりです。
ここは2016年から有志を募って再生作業を続け、2019年10月に完成しました」と豊田さんが建物内部と再生の経緯を説明してくれます。
25年も放置されていたガウディハウスで見たものは
空きPが手がけた再生物件は、この「松翠園大広間」を含め、18件にのぼります。中でも空きP発足のきっかけとなったのが通称「ガウディハウス」こと、旧和泉家別邸。
尾道駅裏の狭い斜面地に建つ、必要以上に装飾が施された、洋風建築に近い和洋折衷型の住宅です。
特異な外観もさることながら、細工や工夫を凝らした内部を初めて目にした豊田さんは、尾道の地域遺産としてここを残さなければ、と直感。
25年間空き家として放置され、部屋の随所に損傷のある建物の再生を決意し、2007年に空きPを立ち上げたのです。
「長く放置するほど手がつけられなくなるんです。だから、早く手をつけ再生していかないと」
斜面にひしめくように建つ住宅の多くは、一度壊すと次に家を建てられないばかりか、人しか通れない細い道では駐車場にもできない。
畑か花壇にするしか使い道がなく、解体にも費用がかかるため、地元の不動産業者からも「負の遺産」として敬遠されるそう。
ガウディハウスの再生に着手後、「待ってました」とばかりに空きPに相談が相次ぎ、その数100件近くにのぼりました。
空き家を持て余している持ち主がいる反面、住まいを探す移住者もいたのです。
「持ち主と移住者、双方のニーズはあるのに、それが情報化されてないことを目の当たりにしました」
豊田さん自身も2000年に尾道に帰郷した際には家探しに苦労し、自力で空き家を再生した経験がありました。
空き家は負の遺産?それとも宝の山?
車も入れず下水工事もままならない斜面では、トイレは汲み取り式のままの古い住宅群。
しかし、斜面の限られた土地に建てられた住宅や別荘は、戦災や大きな災害を受けず現存し、人の知恵と工夫、職人の技術を今に伝え、坂の町ならではの景観をつくりだしているのも事実。
負の遺産と言われる空き家も、見方を変えれば、尾道を特徴づける宝の山。再生して息を吹き返せば、町の財産となります。
「不便さを人の知恵と助け合いで乗り越えてきたのが尾道のスタイルだと思うんですよね」と豊田さん。
不便でも災害時には強い。
2018年の西日本豪雨で尾道が2週間の断水に見舞われた際も、汲み取り式のトイレは通常通り使え、町中に400か所ある井戸から給水もできたことから、ライフラインの全面ストップという事態を免れ、避難所へ行かずともなんとか自宅で生活できたのです。
空き家も増えるが、広島県内外からの移住者も
結成して13年目を迎える空き家再生プロジェクト。活動当初、2日に1人のペースだった空き家バンクの登録者も、今ではひと月に10人程度に落ち着きました。
それでも現在、空き家の登録は140軒、利用登録は1000人を超えます。
後継者がいなかったり、入居者が移転したりで、10年もするとまた新たな空き家が発生する一方で、広島県内外からの移住者は年々増えており、ひと月に10組の相談があることも。市内2キロ圏内のエリアで、1年に15人が出生した年もあるそう。
30代の家族連れを中心とする若い移住者が店舗や飲食店を始めると、訪れる人も自然と若い層が増え、観光客もバス旅行の団体客から電車で移動する個人客へと変化。
年齢層も若返ってきているのを感じると豊田さん。
1回きりで終わる観光地ではなく、リピートして訪れ、町に馴染み、そぞろ歩きを楽しめる場所へと変わってきたということでもあります。
大型のショッピングモールやテーマパークを目的とする米国型の旅行先には、地形的にも向かない尾道。
すり鉢状の地形でコンパクトな市街は、商店街やマルシェを楽しむヨーロッパ型の旅行に向く地と、添乗員として海外の観光地を見てきた豊田さんは分析します。
「土地が狭いので大型店が建ちにくく、開港850年の歴史のある港町の尾道は、人の気質がオープンで排他的でない分、地産地消で地元の人や物に還元して、皆で町を良くしていこう、良くなっていこうという意識が強いんです」
「だから、一人勝ちとか、自分さえ儲かればよいという商売をしていると、はやらない。
商店街には創業100年を超える商店が30軒以上もあり、伝統とプライドを守り、地元意識も強いです」
「人のつながりを大切にしている土地柄だから、老舗と新店が混在し、新旧世代が入り混じっているところが尾道らしさなのかも」
生活者として尾道に根を下ろすために
空きP発足当初は、手弁当の有志やボランティアの力で手掛けてきた空き家再生も、工期が長期に及ぶ物件を扱うようになるとまとまった資金も必要となります。人材を雇用し、法人として組織を整え、活動内容も年々充実してきました。
「ただ、初期からかかわってくれているコアメンバーは変わってません。学生で参加していたスタッフが社会人になり、結婚し、子どもが生まれ家庭を持つようになる。
そうやって、スタッフも尾道で暮らし、仕事をし、生活者として町に根を下ろしながら活動を続けています」
豊田さん自身も双子のお子さんを育てながら、空きPの運営を続けてきました。
移住してきた若い世代の人たちから尾道生まれの子が育ち、やがて大人になって尾道を離れることがあっても、また帰ってきて暮らしたいと思える町であるように。
そうして、尾道に戻ってきた人たちがきちんと生計が立てられる環境をつくっていきたい、と豊田さんは言います。
家業を継ぐにせよ、新たに起業、開業するにせよ、個人商店が成り立つ町でありたい。そのためにもこの先10年は、教育に力を入れていきたいそう。
「10年間、尾道の環境、建造物、文化をより深く知るために合宿であったり、町歩きやトークイベントを実施してきました」
「空き家再生の取り組みを通じて再生の仕組みづくりができた今、そういった教育活動を本格化していきたいです。
尾道市立大学など地元の教育機関と連携しながら、尾道の環境デザインを研究し、相談できる組織作りが必要と感じています」
もっと広く、総合的な視点で尾道を捉え、20代、30代という若い世代の尾道の担い手を育てていかなければ、という豊田さんの思いがそこにはあります。
道に迷って、地図を広げた途端に‥‥
最後に、尾道を知り尽くした豊田さんに、尾道ビギナーにおすすめの楽しみ方を尋ねました。
曰く「点の魅力が多いのが尾道。個々が生きているから多様性があり、何回来ても楽しめると思います。移住者も旅で訪れ、やがて好きになって、住むようになったという人は多いです。
路地や坂道がいたるところにあるので、迷子になりながぶらぶら歩いて、そこに暮らす人たちの生活に触れてほしいですね」
「道に迷って地図を広げた途端、地元の人が声をかけてくる土地柄です。老若男女ともひとなつっこくて、誰とでも世間話が始まりますから。
お店も小さいところが多いから、知らない人同士でもすぐに仲良くなってしまうほど、人との距離感が近いんです。
旅人として訪れても、一歩踏み込んでいくとディープな世界が広がるので、面白がりながら楽しんでほしいですね」
よそ行きでなく普段着感覚で、ふらりと迷子になりに出かけてみてはいかがでしょう。
<取材協力>
NPO法人尾道空き家再生プロジェクト
尾道市三軒家町3-23
http://www.onomichisaisei.com/
文:神垣あゆみ
写真:尾道空き家再生プロジェクト、尾島可奈子、福角智江