ルーヴル美術館にも和紙を納める人間国宝・岩野市兵衛の尽きせぬ情熱
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こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は現在83歳の人間国宝で、いまも売れっ子の越前和紙職人のお話をお届けします。
世界の美術館を対象にした来場者数のランキングで、毎年のようにナンバーワンに輝くルーヴル美術館。所蔵品55万点、昨年も740万人が訪れた世界最大級の美術館が、福井県越前市の小さな工房から越前和紙を取り寄せていることは、あまり知られていない。
手漉き和紙の産地として1500年の歴史を誇る越前市五箇地区の一角、周囲を山に囲まれた静かな集落のなかに、その工房はある。こんにちは、と玄関をくぐると、ルーヴル美術館からの依頼を受けて、2014年から和紙を納めている九代目・岩野市兵衛さんが、奥さん、息子さんと一緒に仕事をしている最中だった。
日本で唯一の和紙
2000年6月、国指定重要無形文化財に認定された岩野さん。わかりやすく表現すると、人間国宝だ。人間国宝というと、高価な着物を着て、立派な工房で大勢の弟子を抱えているというイメージがあったが、岩野さんの姿を見てすぐにその偏見を改めた。1933年生まれでこの9月に84歳を迎える岩野さんは、いまも現役の職人として紙を漉いている。取材に訪れた真夏の午後も、涼しげなシャツ一枚で、正座をして黙々と指先を動かしていた。
現在日本で唯一、岩野さんとその家族だけが手掛けているのは、越前和紙のなかでも越前生漉奉書(えちぜんきずきぼうしょ)と呼ばれる最高級の和紙。原料として楮(こうぞ/クワ科の植物)だけを用い、古来より伝わる手漉きの技法で作られている。
ほぼ薬品を使わず、気の遠くなるような緻密な工程を経て漉かれた紙は、美術品を痛めないだけでなく、驚異的な耐久性と保存性を誇り、詳しくは後述するが主にルーヴル美術館の膨大な収蔵品の修復に用いられているという。
昔ながらの「川小屋」
岩野さんの工房は自宅の敷地内で複数に分かれていて、今回、岩野さんが作業をしていた所は独特の作りになっていた。南側の壁はお風呂で使うようなタイル張りで、水が緩やかに流れている。工房の片側にあるパイプからすぐ近くの山林の湧水をくみ取り、もう片側から流れ出るようになっているのだ。工房が湧水の通り道になっていることから、昔から「川小屋」と呼ばれているそうだ。
僕が訪ねた時、川小屋で行われていたのは「選り(より)」。岩野さんの言葉では「ちり取り」という。
「今日の午前中、楮をでっかいお釜で炊いて、それからちり取りです。黄色い部分が固いから、固いところだけを取るの。きれいに取らないと、紙の表面に黄色い線がすっすっすっと入ってしまうんですね。もっと簡単な方法もあるんですよ。真冬でも水に手を突っ込んでこんなひとつひとつのちりをとらなくても、薬品の力を借りれば簡単に真っ白になる。そこに人工で着色してから漉けば見た目は変わらない紙になるんだ。いまの時代にこんだけやっている所は他にないでしょうね」
人間国宝といっても気取ったところがまるでない岩野さんが、これがちり、と見せてくれたのは、本当に微小な楮の繊維片。黄色い、固いと言われても素人目にはほかの部分と判別がつかないが、岩野さんは話をしながら、パッパッパッと「ちり取り」を続けている。頼りになるのは目と手触りだけだ。
アーティストを虜にする和紙
「選り」は越前生漉奉書を作るうえで欠かせない作業ながら、ほとんど化学薬品に頼らない伝統的な技法の一部に過ぎない。岩野さんが薬品を使うのは、最初に楮を煮る時だけ。アルカリ成分で木の繊維を柔らかくするために、ソーダ灰を用いている。
煮だした繊維を「選る」と、繊維を叩いて一本一本をバラバラにする「叩解(こうかい)」という作業に続く。その後に一度水洗いしてでんぷん質を取り、きれいな繊維だけの状態にしてからようやく漉舟(すきぶね)に入れて紙を漉く。
このとき、一般的には漉船にトロロアオイという植物の根を原料にした「ねり」を入れて水の粘度を高めるが、岩野さんは北海道からノリウツギという低木の樹皮を仕入れて、「ねり」にしている。トロロアオイに比べるとかなりの高額だが、「優しい粘りが出る」というのが理由だ。
紙の厚みを出すために何度か漉き重ねたうえで、ジャッキに載せて水を絞る。これを「圧搾(あっさく)」という。圧搾が終わると、漉き重ねた紙を一枚、一枚はがし、板に張り付けて暖かい部屋で室乾燥(むろかんそう)にかける。温度を高くするとしっかり乾燥する前にめくれ上がる可能性があるので、時間をかけてゆっくりと乾燥させる。
この過程を経てようやく越前生漉奉書ができあがるが、岩野さんが厳しい目で検品をして製品としてのレベルに至らない紙も多い。不合格になった紙はどうなるのか。もう一度、叩解し、繊維の状態に戻して、漉き直す。岩野さんの工房で捨てられるのは「選り」の際に残ったわずかなちりぐらい。そのちりで作った紙が欲しいというリクエストもあるそうで、無駄になる素材はほとんどない。
そうして完成した越前生漉奉書は、しなやかなのに伸び縮みせず、発色が良く、色あせもしないことで主に木版画の用紙として絶大な信頼を集め、横山大観や平山郁夫、草間彌生らが作品に用いていることで知られる。先代は、桂離宮松琴亭の襖壁紙も手掛けた。
戦争で閉ざされた夢の扉
岩野さんの家は、家族経営で先祖代々この製法を守り続けてきた。岩野さんの父、八代目の岩野市兵衛さんも人間国宝で、親子で認定されるのは極めて珍しい。これまで和紙業界で人間国宝は5人しかおらず、そのうちふたりが岩野さん親子というだけで、圧倒的な技術とその希少性がわかるだろう。
しかし、いかに貴重な和紙を作る家に生まれたからといって、すぐにその運命を受け入れられるわけではない。もともと、岩野さんは「紙漉きに興味がなかった」と笑う。
「もともと版画の彫師になりたかったんですよ。子どもの頃は、鉛筆削りといえば小刀でしょう。私が持っていた小刀がとにかくよく切れて、クラスのみんなが使ってました。そうするとすぐに切れなくなるから、家で研ぐ。研ぐのも好きで、毎日研いでました。それで、キレのいい刃物があれば良い彫刻もできるだろうと思うようなったんです」
版画の彫師になりたいというのは、子どもにありがちな漠然とした夢ではなかった。
「その頃、東京に大蔵半兵衛、京都には菊田幸次郎さんという人がいて、版画の彫師として有名な人で、そこの門を叩こうと思っていました。それでアカンと言われたら、うちの一番の得意先が下落合で版画を扱っているから、そこに行って弟子入りをしようかと。いまでもふたりの名前を憶えているぐらい、彫師に憧れていましたね」
しかし、時代が彫師への扉を閉ざした。1945年に、岩野さんの父が太平洋戦争で出征。間もなく終戦を迎えたが、運悪くシベリアに抑留されてしまった。小学校5年生になっていた岩野さんは、必然的に家業の紙づくりの手伝いをさせられるようになった。
「ピカソが使っていた紙」の真相
父が2年後の1947年に戻ってくると、家業がどんどん忙しくなっていった。終戦後、東京などに駐留していたアメリカの軍人が母国に帰国する際の土産として、オリエンタルで軽くて持ち運びに便利な浮世絵が人気となり、爆発的に売れた。浮世絵は、和紙に描かれている。仕事に復帰した岩野さんの父が東京の得意先回りをすると、次から次へと注文が舞い込むようになったのだ。
「当時、私の家で働けるのは親父と叔父さん、それから私の母親と叔父さんの連れ添い、あとほかの家族の者をいれた5、6人でした。それではどうにもならんようになって、お前は学校に行かないでうちの手伝いせえということで、高校に行くどころじゃなかった」
岩野家の唯一無二の和紙は海を渡り、海外でもその存在を知られるようになった。一時期、岩野さんの父がせっせと輸出用の紙を漉いていた記憶があるという。戦前からパリで画家として活動し、成功を治めた日本人画家、藤田嗣治も愛用者のひとりだった。
きっかけは、岩野家の和紙の評判を聞きつけた藤田嗣治の従妹が「これはすごくいい紙だから、送ってやりたい」と訪ねてきたこと。その際に越前生漉奉書を数十枚買った従妹が、パリにいた藤田嗣治のもとに送り届けた。それから岩野家と藤田嗣治の交流が始まった。
やがて、「岩野家の和紙をピカソが使っていた」という話が広まるが、それは岩野さんの父と藤田嗣治の会話から生まれたものだ。
「藤田先生がピカソ先生のところを訪ねた時に、どこの紙を使っているのですか? と尋ねたら、ピカソ先生はにこにこ笑って答えなかったそうです。それから時が経ち、藤田先生の従妹がうちの紙を送ったところ、藤田先生が『ピカソのところで使っていた紙と同じだ!』と気づいた。それで、藤田さんから私の親父のところに連絡があったんですよ。ピカソはきっと、日本人なのに日本の紙を知らないのかと笑っていたんだろうと。だから、ピカソ先生がうちの紙を使っていたのか、使っていなかったのか、確かなコトはわかりませんが、藤田先生はそう信じていました」
「古い方法」を求めて絶えない依頼
岩野さん自身は、彫刻の彫師になるどころか、学校にもいけないほど仕事に追われる日々だったが、厳しい環境のなかで職人としての技能を身に着けていった。父が1976年、75歳で他界すると、1978年には跡継ぎとして九代目・岩野市兵衛を襲名した。父からは、ひたすら心構えを説かれたという。
「父が私にずっと言っていたのは、ごまかすな、手抜きをするな、ということです。昔からの製造工程を頑なに守れって。だから言われた通りにやってきたけど、やっぱりごまかさんと紙を作れば、絶対いいものができるのよ。私ももう年だから、得意先に、どっかよその紙も使ってみてくださいって言っても、いや、市兵衛さんが紙漉きを辞めたら、私も版画屋を辞めなあかんやろって言われるんです」
「最近では、カナダに住んでいる日本人の版画家から電話があって、100枚の注文が入りました。それから2カ月したら、また電話があって、あまりにも上手くいったから手元に置いておきたいともう100枚の注文がありました。全然違う音がするということで、音響メーカーのスピーカーにも使われています。親父の言う通りに古い方法を守り抜いて仕事をすれば、それでいいんですよ」
まさに、この「古い方法」を求めたのが、ルーヴル美術館だった。ルーヴル美術館には数百年前の絵画や版画など紙を使った美術品が数多く収蔵されている。その当時、紙の原料は楮や三椏(みつまた)だったため、ルーヴル美術館は修復用として同じような製法で作られた紙を探し求めていた。そうして世界中の紙を集めて比較検討するなかで、岩野さんの紙がトップの評価で選ばれたそうだ。
「東京の美術品を修復する工房からこの話がきてね。去年は厚さが100分の10ミリ、100分の20ミリ、100分の30ミリのものを合計で300枚ぐらい納めたかな。今年は100分の20ミリばかり600枚ぐらい。600枚作るとなると、3人で毎日仕事をしても1カ月ぐらいはかかるねぇ。紙作りで一番大変なことといえば、ご希望の厚さに揃えること。紙を漉きながら、そろそろ100分の20になったなぁ、まだならんなぁとかって目で見て判断するほかない。これが一番難しい」
完全に自然の素材だけで作られた紙
いま、岩野さんのもとにはあらゆる依頼が届く。昨年から今年にかけて、アニメ「攻殻機動隊」の浮世絵シリーズや、映画『スター・ウォーズ』を木版画浮世絵にした「浮世絵 スター・ウォーズ」、『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』の漫画家、松本零士の「浮世絵コレクション」などにも岩野さんの紙が使われており、いまや数カ月待ちの状態だ。
83歳の現役職人は、忙しい。しかし、今後さらに手をかけた究極の和紙を求める依頼があった時のために、まだ温めているものがある。蕎麦の葉を燃やして作られた灰だ。
先述したように、普段、楮を煮る時にはソーダ灰を使っているが、ソーダ灰などなかった時代には、植物の灰を使っていた。楮の繊維は植物の灰と相性が良く、岩野さん自身、これまでに数回しか作ったことがないそうだが、完全に自然の素材だけで作られた紙は、光沢や色味、手触りも品が良くなるという。
しかし、10キロの楮を煮るのにソーダ灰なら1.2キロで済むところ、蕎麦の灰なら約6キロも必要になる。この大量の灰を作ってくれるところが、もうなくなってしまった。
「福井県では今庄(南越前町)がお蕎麦の産地だから、そこのおばちゃんなんかに小遣いをあげて、灰を作って、というと喜んで作ってくれた。昔は、稲と同じように蕎麦が実ったら稲機(いなばさ)に引っ掛けて乾燥させて、蕎麦の実を取った後に残った部分を燃やして灰を作ってもらっていたんだ。でも、いまはコンバインで刈っちゃうでしょう。余ったくずを乾燥させて燃やせば灰もできるだろうけど、そんなもん誰もやってくれないよ」
蕎麦の灰の供給は途絶えてしまったが、岩野さんの蔵にはまだ少しだけ蓄えられている。その灰は、「どうしてもせなあかん」依頼があった時のために、眠らせてあるのだ。
人間国宝が紙づくりに燃やす情熱は、まだまだ尽きていない。
「もうこれでええっちゅうことはないもん。死ぬまで一年生」そういうと、岩野さんは静かに微笑んだ。
<取材協力>
福井県和紙工業協同組合
福井県越前市新在家町8-44パピルス館内
0778-43-0875
越前 和紙の里
福井県越前市新在家町8-44
0778-42-1363
文・写真:川内イオ