福島の郷土玩具 「野沢民芸」会津張子の赤べこを訪ねて
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日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。
普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介していただきます。
連載2回目は丑年にちなんで「会津張子の赤べこ」を求め、福島県西会津町にある「野沢民芸」の工房と店舗を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。
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小さい牛に会うために、郡山駅で電車を乗り換えた。駅のあらゆる壁面に牛がいる。この地方でとても人気があるのを知って安心した。
会津若松駅に到着。私たちを待ってくれていた。
お利口だ!ボタンを押すと、頭まで下げてくれるのだ。駅の出口にて。
本当にどこにでもいる。たとえば、道の駅のパーキングの入り口にも。
はたまた、小売店の前でガーデニングをしたり。
そして、もちろん円蔵寺にも。先祖の牛の横に赤毛の牛がいる。
小さな牛はピノキオのように、職人の巧みで器用な手から生まれてくる。
現代アートに見えてくる。これは、紙のペーストで小さな体をつくるのに必要な型の外側。
太陽の光を避ける日本人のように、日陰で、仲間と一緒に乾かされる。
専門家の手によって、はじめの身だしなみをしてもらう。余分な部分を切り落とし、研磨してもらうのだ。
仲間と一緒に、赤くて美しい衣装を纏うのを、楽しみに待っている。
しかしその前に、下塗りは不可欠だ。
頭と全身が揃った。藁の束に刺され、キャンディのように仕上げを待っている。
色々な入れ墨を描く前に、全身を赤くする。勇敢な祖先の毛並みの色だ。
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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子
Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。
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進化を遂げた会津の「赤べこ」づくりの裏側を追ってみる。
ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、ワイズベッカーさんと共に訪ねた野沢民芸や会津張子の歴史、そして進化を遂げた赤べこづくりの裏側について、解説したいと思います。
こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。
郷土玩具は主に江戸時代以降に寺社の授与品やお土産、節句のお祝いとして誕生しました。
自然や動物などの形には子どもの成長や商売繁盛、五穀豊穣などを願う当時の人たちの想いが託されています。作られた地域や時代、職人によるわずかな違いも味であり魅力の一つでしょう。
今回訪れたのは、東北地方の中でも「郷土玩具の宝庫」といわれる福島県。
郡山駅で新幹線を降り、磐梯山や猪苗代湖を眺めながらJR磐越西線で向かったのは、会津若松です。「会津張子」が伝わる街で、最も有名なのが赤べこ。
ワイズベッカーさんの写真の通り、赤べこのオブジェやイラストが目に入らない場所はないのではと思うほど、会津地方のアイコンとして愛されています。
赤べこの歴史と伝説
東北最古といわれるほどに会津張子の歴史は古く、400年前の安土桃山時代まで遡ります。
豊臣秀吉に仕えていた蒲生氏郷 (がもう・うじさと) が会津の領主として国替を命じられた際、下級武士たちの糧になるようにと京都から人形師を招き、その技術を習得させたのが会津張子の始まりとされます。
昔は張子づくりに反古紙 (書き損じなどで使えない紙) を利用したため、会津のようにそれが大量に発生した城下町でつくられることが多かったそうです。
会津若松から車で30分ほどのところにある日本三大虚空蔵尊の一つ、圓藏寺。
約1200年前に建創されたこのお寺が、赤べこ伝説の発祥の地といわれています。
その伝説は、こんなふう。今から400年ほど前の大地震がきっかけで、現在の巌上に本堂を再建することになりました。その際、再建に使う資材を岩の上に運ぶのに困り果てていたところ、どこからともなく現れたのが赤毛の牛の群れ。
赤毛の群れは運搬に苦労していた黒毛の牛たちを助けるも、本堂が完成する前になぜかぱったりと姿を消したといいます。
以来、一生懸命に手伝った赤毛の牛を、会津地方の方言で「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さの象徴、さらには福を運ぶ赤べことして多くの人々に親しまれるようになりました。
会津張子の赤べこも、この伝説にあやかった玩具として生まれたと考えられています。
市場シェア7割の赤べこの産地
赤べこをつくる会津張子の工房は50年前には30軒ほどありましたが、現在は作り手の高齢化が進み、片手で数えるほどになっているそうです。
その中でも、伝統的な型と手法でつくっている作り手の方とは対照的に、技術革新を進め、張子の大量生産を実現したのが野沢民芸。赤べこの市場シェアを尋ねると、なんと約7割が野沢民芸製なのだそうです。
創業者である伊藤豊さんは、学校卒業後こけし職人を志し、こけし製作に7年間携わり、より自由度の高い表現ができる張子の魅力に惹かれ、昭和37年に創業地の名を冠した「野沢民芸」を設立。
従業員が最も多い時期は60~70名ほどいたそうですが、今では絵付担当が約10人、内職を含む組立て担当が約15人、成形担当が2人とほかをあわせて約40人。82歳になる伊藤さんは成形をされ、娘さんおふたりも、それぞれ絵付と広報・事務を担当されています。
変わり続けることで会津張子の伝統をつなぐ
創業当初、野沢民芸では、木型を用いた伝統的な張子づくりの手法を用いていました。まず木型に濡らした紙を張り重ねていき、乾燥したら切れ目を入れて木型を取り出す。
そして、切れ目を紙でつなぎ合わせた後、胡粉を塗ってから絵付けをして完成。
しかし、この方法で製造効率を上げるようとすると、木型の数とそれを使って成形する内職さんの数を増やすしかありません。木型に切れ目を入れるため、傷んだ型の交換もしばしば発生します。
また、経営的にも工場のある野沢での直売だけでは売上に限界があったことから、会津若松のような観光地の土産もの屋で販売を拡大する戦略に切り替えたそうです。
そうなると、採算をとるために本格的な量産体制を整える必要があります。そこで、約40年前に伊藤さんが開発したのが、「真空成形法」といわれる張子の製法です。
真空成形法では、再生紙を水と混合した溶液を原料とします。溶液を貯めた水槽に型枠を沈め、ホースで一気に型枠の内水を抜いて真空にすることで、水に溶けた再生紙の繊維が型枠の内側に張り付き成形されるという製法です。
これを思いついたきっかけは、和紙の紙漉き製法からなのだといいます。紙漉きの場合は簀桁を用いて重力で繊維を重ねていきますが、真空成形法では金網を張った金型を用いて強制的に吸引することで繊維を重ねているわけです。
原理を聞くと簡単なようですが、これを思いつき形にする伊藤さんはまさに発明家。木型でつくると一日7体しかつくれなかった張子が、真空成形法だと一日500体もつくれます。
一方で、成形後の工程は、昔とまったく変わらないまま。乾燥したら余分な部分を削り、糊づけ・下塗り・上塗り・絵付けを経て、最後に首を取り付けて完成です。
「首の角度や揺れ方をみながらバランスをとるのが難しい」と言いながら、目の前でなんなく首を縫い付けていかれる職人さんの手際の良さ。
赤べこの最大の特徴、ゆらゆらと首を振るユーモラスな動きはこうした手仕事により生まれているわけです。
真空成形法による張子生地の量産化は、郷土玩具界の産業革命であったと思います。現在の年間生産数は約15万体、赤べこのみでも約5万体にのぼるそう。
そして、昨年購入した3Dプリンタを使って新たな原形づくりに取り組まれるなど、今もとどまることなく、進歩し続けようとする伊藤さん。
木型を使ってつくられた伝統的な張子は言うまでもなく味があって良いものですが、後継者不足という会津張子の現状に対して伊藤さんが選んだ道は、変わり続けることで会社を未来へと繋げることでした。
赤べこのつくり手としては後発であった野沢民芸が、市場シェア7割を獲得した理由がここにあるような気がします。
赤べこが首を振っているのはクサを食べている様子?
愛らしい表情を浮かべ、ゆらゆらと首を振る会津張子の赤べこですが、昔のものを見てみると、今とはちょっと違った雰囲気であったことがわかります。
戦前は引いて遊べるような台車がついたもの、戦後には千両箱や打ち出の小槌を背負ったものなど、変わった赤べこがつくられていたそうです。
400年の伝統がある会津張子ですが、時代や作者によって創作や変化が加えられていることは、郷土玩具では珍しいことではありません。
昔からの思想や歴史を受け継ぎつつも、時代に合わせて柔軟にアップデートしていくというものづくりのセオリーが、彼らには息づいていたのかもしれません。
そしてこの赤べこ、何とも鮮やかな真っ赤。あれっと思った方もいたのではないでしょうか。伝説にあった「赤牛」からイメージする牛の色は、実際には茶色に近いでしょう。
単にデフォルメしたと捉えることもできますが、これには理由があると考えられます。
達磨や鯛、獅子などの赤色を基調に彩色されている人形は、「赤もの」と呼ばれます。その昔、赤ものは疱瘡(天然痘) など悪性の疫病除けのまじないや子育ての縁起物とされていました。
病気を引き起こす疱瘡神 (ほうそうがみ) が赤を好むとされたことから、赤で神をもてなし、病を軽く済ませてもらうためです。また、高熱の後、全身に広がる発疹を「クサ」と言うことから、草をはむ牛ならば、天然痘のクサも食べてくれると、赤べこは子どもの守り神としても慕われていました。 (うまいですね!)
風土に合わせた形や素材で作られ、さまざまな祈りが捧げられてきた郷土玩具。色や名前にも、人々の想いが託されているものです。
次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。
「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第2回は福島・会津張子の赤べこの工房を訪ねました。それではまた来月。
第3回「東京・江戸趣味小玩具のずぼんぼの寅」に続く。
<取材協力>
野沢民芸
福島県耶麻郡西会津町野沢上原下乙2704-2
電話 0241-45-3129
罫線以下、文・写真:吉岡聖貴
「芸術新潮」11月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。