幻の薬用酒「サフラン酒」を求めて長岡へ。創業者が財を投じた「日本一の鏝絵 (こてえ) 蔵」も必見
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美味しいお米と越後の山々の清らかな雪解け水が、多くの銘酒を生み、蔵元数日本一と言われる酒どころ新潟。
そんな新潟で、明治時代、日本酒ではないお酒が誕生し、一世を風靡したのをご存知でしょうか。
その名も「サフラン酒」。
サフランとは西南アジア原産のクロッカス属の花。
「サフラン酒」はお酒といっても、サフラン、はちみつ、桂皮、丁子、甘草など20種類以上の植物などを調合した薬用酒で、あの養命酒と人気を二分したとも言われています。
今回はこの「サフラン酒」で巨万の富を得た人物と、彼の夢を形にした美しい館のお話です。
世にも珍しい日本一の「鏝絵蔵(こてえぐら)」
訪ねたのはJR長岡駅からひと駅、信越本線宮内駅を出て徒歩10分ほどのところにある摂田屋(せったや)地区。
この辺りは江戸時代、天領地(江戸幕府の直轄地)だったため、特別に自由な商いが認められてきたこともあり、醸造の技術が発達してきました。
今も県内最古の酒蔵「吉乃川」をはじめ、酒、味噌、醤油の蔵が並ぶ醸造の町として知られています。
そんな街の一角にあるのが、明治20年創業の「機那サフラン酒本舗(きなさふらんしゅほんぽ)」です。
母屋の隣には立派な蔵。
一階部分は海鼠壁(なまこかべ。壁面に平瓦を張り、その目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る方法)、扉には色鮮やかな装飾が施された「鏝絵蔵(こてえぐら)」です。
江戸末期にはじまった左官技法「鏝絵」とは?
鏝絵とは、漆喰の壁に鏝を使って施す漆喰装飾の一つで、江戸末期に活躍した左官職人・入江長八が作ったのがはじまりと言われています。
全国的に見ても、これだけ多くの鏝絵が施された蔵は珍しく、また保存状態も極めてよいことなどから「日本一」とも言われています。
扉(戸前・とまえ)に描かれた鏝絵は、十二支、鳳凰、麒麟など縁起物尽くし。
日本一というのも納得の豪華な蔵です。
大仕掛けの行商でサフラン酒を売り歩いた男
これだけの蔵を建てたのはどんな人物だったのでしょうか。
「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」の平沢政明さんにお話を伺いました。
「こちらがサフラン酒の生みの親、吉澤仁太郎さんです」
1863(文久3)年、摂田屋の隣村で農家の次男として生まれ、19歳の時、奉公先の薬種屋(やくしゅや。現在の薬屋)で薬酒の製法を学び、21歳で「サフラン酒」を開発。
「自分で調合したサフラン酒を竹筒に入れて、行商から始めたと言う話です」
行商の仕方も大仕掛け。
宿の近くの薬屋にサフラン酒のサンプルを置かせてもらい、宿に帰って自分が腹痛を起こすと「サフラン酒を持ってきてくれ」と頼み、飲むとたちどころに治ってしまうというもの。
まるでガマの油売りのよう。
「そんな話を聞けば話題になる。昔の人はそういうのを喜んだのかもしれませんね」
女性がお酒を飲む機会がなかった時代。でも「薬なら」。女性をターゲットにしたサフラン酒は人気となり、瞬く間に売り上げを伸ばしていきます。
当時、サフランは輸入品で高価なものだったそうです。
「どうやって手に入れたのかわかりませんが、情報通で噂を聞きつけたんでしょう。
効能だけでなく、ハイカラで、いかにも女性が好きそうですよね」
富を得て、興味は商売から趣味の世界へ
明治27年、現在の摂田屋に移転。31歳で「機那サフラン酒本舗」を創業した仁太郎さん。
一代で大成功を収め、大地主となります。
やがて、仁太郎さんの興味は商売だけでなく、建築や造園、古銭蒐集など趣味の世界に広がっていきます。
自作の打ち上げ花火でお寺が全焼
高価なものを見栄え重視で惜しみなく使うのが仁太郎流。
「たぶん、人を驚かせたかったんでしょうね。打ち上げ花火も自分で作っちゃうんですよ」
打ち上げ花火?
「打ち上げて、400mくらい離れたところにあったお寺を全焼させたとか、家の建前の時には屋根から小判をまいたとか、派手な逸話の多い人ですね」
まるで絵に描いたような豪商ですが、地元の人たちには愛されていたのではと平沢さんは言います。
「不景気の時には、職にあぶれた人たちを呼んで庭の草取りをさせ、日当を払っていたとういう話も残っています」
仁太郎の夢を叶えるため、商人から左官職人となった河上伊吉
人をあっと言わせたい。先ほどの鏝絵蔵にも、仁太郎さんの心意気が感じられます。
鮮やかな色彩は岩絵の具を使ったもの。
一際目を引くブルーはラピスラズリ。サフランの花の色にも似ています。
そんな仁太郎さんの夢の館を、今に残る「日本一の鏝絵蔵」に仕上げたのが、左官職人・河上伊吉(かわかみ・いきち)です。
「鏝絵蔵を作ってみないか?」
仁太郎さんから伊吉へそんな誘いがあったのかどうか、きっかけは定かではありませんが、伊吉は富山へ左官の修行に出ます。
もとは近所に住む商人で、酒・味噌・醤油・薪炭の行商をしていました。
「仁太郎よりふた回りほど年下で、親子ほど年が違いましたが、とても仲が良かったようです」
左官の技術を身につけると仁太郎の元へ戻り、鏝絵蔵をはじめ吉澤家の13の建物づくりに携わりました。
伊吉の鏝絵の特徴は立体感。
「盛り上がり方がダイナミックですよね。背景を黒くしているのは、絵を浮き出たせて立体的に表現するためじゃないかと言われています。
左官屋さんに聞くと、鏝絵だけでなく、壁の仕上げや細かいところまできっちり仕事をしているようです」
それだけの腕前を持っていたのに、伊吉が携わったのはサフラン酒本舗だけ。
「しかも、左官の仕事をする合間にサフラン酒の行商もしていたようです」
左官職人になりたかったわけではなく、仁太郎の元で働きたかった。
一緒に鏝絵蔵を作りたかった。
「ふたりは好きなものが同じだったんだろうと思います」
世代を超えて同じ趣味を持つもの同士、よほど気があったのかもしれませんね。
窓を閉めたのは空襲の時、一度だけ
仁太郎さんと伊吉の夢が詰まった豪華な鏝絵蔵。きっとサフラン酒や高価なお酒がたっぷりと入っていたんでしょうね。
「いえいえ、違います。これは見せるための蔵です」
見せるため?どういうことでしょうか?
「この蔵、窓だらけでしょう?普通は蔵にこんなにいっぱい窓はつけません」
確かに!
「蔵には防火や泥棒よけの役割があります。火事から守るための土蔵なのに、この蔵は窓だらけ。きっと鏝絵の窓をつけたかったんでしょうね」
鏝絵があるのは窓の内側で、閉めると見えなくなってしまうため、雨の日も閉めることはなかったと言います。
「冬は雪囲いをしていたようです。閉めたのは長岡空襲の時、一度だけだったそうです」
執念というかなんというか。まさに見せるための蔵。
「実際は事務所に使っていたようですが、使いづらかったでしょうね(笑)」
手本としたのは江戸時代末期に越後で活躍した石川雲蝶!?
作品作りには目を養うもことも必要。
ふたりは度々、魚沼の小出方面に出かけていたと言います。
小出には、先日さんちでご紹介した越後のミケランジェロこと「石川雲蝶」が手がけた作品が多く残されており、それを観に出かけていたのではないかとのこと。
石川雲蝶は彫刻だけでなく鏝絵も手がけています。
もしかしたら雲蝶の作品を手本にしていたのかもしれません。
ちなみに、こちらは雲蝶作の彫刻「羊」(貴渡神社所蔵)。
こちらが伊吉作の鏝絵「羊」。どちらもヤギっぽいところが似ているような。
*石川雲蝶については魚沼で越後のミケランジェロ「石川雲蝶」の世界に酔いしれるもぜひお読みください。
震災後、現代によみがえった夢の館
こうして一代で築き上げたサフラン酒本舗ですが、昭和16年に仁太郎さんが亡くなった後は衰退の一途を辿ります。
「昭和40年頃までは裕福だったようです。その後は建物や庭の管理が行き届かなくなって荒れ果て、忘れ去られていったという感じですね」
サフラン酒本舗が再び注目されるようになったのは、2004年の中越地震の後のこと。
地域で摂田屋に残る歴史的な建造物などの保存活動をする中、仁太郎さんの豪邸の一部も保存されることになったのです。
鏝絵蔵は、全国から寄せられた復興基金によって修復。その後、地域の人たちや大学生のボランティアが庭園や室内の清掃を繰り返し、2015年より機那サフラン酒本舗の一般公開がはじまりました。
多くの方に見ていただけて、仁太郎さんたちもうれしいでしょうね。
「きっとそうだと思います。そのために作ったんでしょうからね。仁太郎さんの想いを大切に活動しているので、来て、見て、喜んでもらえるとうれしいですね」
さて、仁太郎さんの人となりが溢れる夢の館。いかがでしたでしょうか?
鏝絵蔵のほかにも、奇想天外な庭、豪華絢爛な離れ座敷など、まだまだ見所はたくさんあります。
みなさんもぜひ、仁太郎さんの創り上げた世界へ足を運んでみませんか。
お土産には、香り豊かなサフラン酒をどうぞ!
<取材協力>
機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会
新潟県長岡市摂田屋4-6-33
機那サフラン酒本舗の公開
[公開日時]土曜日・日曜日・祝日の10:00~15:00
※詳細情報はFacebook「醸造の町摂田屋町おこしの会」
文・写真 : 坂田未希子
*こちらは、2018年8月3日公開の記事を再編集して掲載しました。新潟・長岡に行ったら圧巻の装飾をぜひその目でご覧ください。もちろんお土産にはサフラン酒を忘れずに!