電気街・秋葉原の誕生秘話。その鍵は高架橋にあった
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高架橋があったから秋葉原の街ができた
秋葉原電気街にある高架橋にやってきました。
近くで見上げるとのすごく高い。高架下には3階建てのビルが入っています。
「昭和7年にできた、ラーメン式の旅籠町橋高架橋です」
ラーメン!?
「ドイツ語で窓枠とか額縁という意味です」
食べるラーメンとは?
「全く関係ないです(笑)」
ラーメン構造とは、各部材が剛結合された構造のことで、枠(フレーム)で組むことが基本となっています。
高架下が広いのもラーメン構造の特徴です。アーチ式にも高架下の空間はありますが、ラーメン式の方が全体にスリムにできるので、空間も広く使えるそうです。
高架下にお店が入っているのは日常風景になっていますが、ここも昔からお店が入っていたんでしょうか?
「お店ではなく倉庫とか事務所になっていました。秋葉原は、昔は電気街じゃなくて普通の街でしたが、戦後、露天商が出るようになって変わったようです」
最初は屋外で商いをしていた露天商が、街を整備するために高架下に入るようになったそうです。
「電気街・秋葉原の町並みは、戦後の高架橋の下から生まれたものですね」
つまり、高架橋がなければ電気街もできなかった?
「そうかもしれませんね」
高架橋が街の歴史を作った。
「外国にはこういうところはあまりないと思います。高架下をおしゃれな空間として使っているところはありますが、少なくとも焼き鳥屋や居酒屋は入ってないですね(笑)」
アーチからラーメンへ
最後に「貴重なものが見られる」と言うので、秋葉原駅を東に越えたところにある高架橋を見にいきました。
これもラーメン構造ですか?
「こちらはアーチ構造で、名前は第一佐久間町橋高架橋です」
現在、高架橋の補強工事中で、効果下の店舗を少しずつ壊し、修繕後、また店を入れているところです。
高架下に店がない状態が見られるのチャンスは貴重なのだとか。
「高架橋を作るようになった頃はアーチ構造が主流でしたが、構造物が重くなってしまうため、地盤の弱いところではあまり使えない。それよりも軽くて耐震性に強いラーメン構造が造られるようになりました」
「この先もしばらくアーチが続きますが、途中からラーメンになっています」
今はラーメンが主流。高架橋を見るだけで建築の進化がわかるんですね。
「そうですね。特に今日見てきた紅梅河岸高架橋、万世橋高架橋、旅籠町橋高架橋、第一佐久間町橋高架橋は、わずか10年、20年の間にレンガのアーチからここまで進化するということになりますね」
東京の街にそびえる万里の長城
国鉄勤務時代、高架橋や橋、トンネルを検査する職場にいたという小野田さん。次第に、鉄道技術の歴史や構造に興味を持つようになったといいます。
「最初は何を見ても同じに見えましたが、そのうち“これはこういう理由でこの形になっているんだ”とわかると、面白くなっていきましたね」
研究を進めるうち、鉄道技術史研究の専門家に。
橋やトンネルの研究をしている人はいても、歴史的価値や文化的価値という視点で見る人はあまりいないそうです。
近年、文化庁もその価値を認め、東京駅や門司港駅など、鉄道施設も重要文化財に指定されるようになりました。小野田さんも専門家としてお手伝いをしているそうです。
「秋葉原の高架橋も、周りに大きなビルが建ってしまって目立ちませんが、できた当時は平屋の建物しかなかった所にあれだけ高いものができて、びっくりしたと思います」
昔の写真には、いろんな場所からあの高架橋が写っているそうです。
「当時の人たちにとっては、ある意味、万里の長城だったんでしょうね」
日本の鉄道技術の歴史を物語る東京の壁「高架橋」。
いつもは風景の一つでしかなかった高架橋がとても凛々しく見えました。
東京の街にそびえる万里の長城。
そんな風景を想像しながら高架橋を見て歩いてみてはいかがでしょう。
私は無性にラーメンが食べたくなったので、ラーメン高架橋の下にあるラーメン屋がないか、探して帰りたいと思います。
<取材協力>
公益財団法人 鉄道総合技術研究所
小野田滋さん
文 : 坂田未希子
写真 : 尾島可奈子