手こぎ舟でのんびりお花見 近江八幡の水郷めぐり

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近江八幡の水郷めぐり

ここまで来たら、八幡堀の桜も満喫しよう

八幡堀もやはり時代劇の定番のロケ地

舟を下りたら、ぜひ八幡堀にも行きましょう。こちらも堀のわきに植えられた桜が見事です。風情のある白壁・板壁・石垣を背景に、淡いピンクが浮かび上がります。また、これらの姿が堀の水にも映り、いわゆる「逆さ桜」にもなります。

豊臣秀次の城下町・琵琶湖水運の湊町

そのまま水の中に落ちそうな八幡堀の枝垂れ桜

1585(天正13)年、豊臣秀吉のおい・秀次は八幡山城(八幡城)を築きました。すでに安土城には主がおらず、その城下町から人を移住させて作ったのが近江八幡です。琵琶湖から舟を通すために運河も作られました。八幡堀です。

八幡山城は10年あまりで廃城となり、近江八幡も城下町ではなくなりました。しかし、八幡堀を中心に琵琶湖水運の湊町として再生しました。

東北から京都まで荷物を運ぶのには、できるだけ舟を使い、日本海・若狭湾・琵琶湖・大津の順に経由するという大ルートがありました。近江八幡は琵琶湖部分での重要な中継地点だったのです。商業都市としても栄え、日野(滋賀県日野町)・五個荘(ごかしょう、東近江市)と並んで、多くの近江商人を産んだ土地としても知られています。

『街道をゆく』で司馬遼太郎が描いた八幡堀と水郷

一度は、「埋めて駐車場に」という計画もあった八幡堀だが、地元有志の運動で見事よみがえった

八幡堀は全長が約6キロあるのですが、観光で話題にされるのは、ほぼ日牟禮八幡宮の近くの一角だけです。この部分について、「昔の姿を今に伝える」といった説明がされることがあります。ただ、これは少し無理があるかもしれません。一度は完全にかつての姿を失っていました。

1983(昭和58)年12月、司馬遼太郎が『街道をゆく』の取材で近江八幡を訪れたときも、そうでした。

八幡堀の様子を見た司馬は、「土崩れを防ぐために竹木(ちくぼく)を植えればいいと思うのだが、手っとり早くコンクリート固めされている」と表現しています。それより前、1970(昭和45)年ごろには、たまったヘドロのために悪臭を放ち、埋め立てて駐車場にする計画もいったんは持ち上がりました。

地元の有志による運動が実り、八幡堀の景観改善計画が国土庁の「水緑都市モデル地区整備事業」に指定されたのは、司馬の訪れる前年の1982(昭和57)年でした。

かつての姿を想像して堀の石垣を作り、水面近くに遊歩道も作る動きがここから具体化しました。しかし、実際に事業として取り掛かったのはその2年後だったので、司馬が来たときには間に合わなかったのです。

司馬は真冬にもかかわらず、水郷めぐりの舟も出してもらっています。船頭さんから「大阪や京都の親類のものが来たときには、弁当を積んで一日水の上であそびます」といった話を聞き、「むかしは、こういう舟あそびを『舟ゆき』といったそうである」「豊臣秀次も『舟ゆき』をして遊んだという」と『街道をゆく』に書き残しています。

2006(平成18)年には、「近江八幡の水郷」は国によって「重要文化的景観」に選定されました。2019(平成31)年3月現在、全国に63カ所あるなかの第1号です。

文化財保護法に基づいたもので、「文化的景観(地域の自然と人々の暮らしが混じり合うことで作られた景観)」の中でも特に重要なものが対象になります。景観の変更をする場合には、文化庁への届け出をしなければいけません。この「近江八幡の水郷」には八幡堀も含まれ、もちろん同じ扱いです。

住所
滋賀県 近江八幡市北之庄町880
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