旅する仏師、円空が残した自由で荒削りな仏像を味わう
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飛騨高山の郊外。のどかな田園風景を抜けて、丹生川(にゅうかわ)という地域にある袈裟山(けさざん)に向かう。
この山の麓から始まる参道を登っていくと、4世紀に開基された飛騨で最も古いお寺、飛騨千光寺が目に入る。門をくぐり境内に足を踏み入れると、絶景が広がっていた。夕暮れに沈む飛騨高山の里山と、その背後にそびえる雄大な北アルプス。
もしかすると江戸時代、円空さんも同じ場所に立って同じ風景を見ていたのかもしれないと思うと、不思議な気持ちになった。
30年にわたる長旅で彫り続けた仏像
円空は、1632年(寛永9年)、美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)の南部、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)山麓の美並村で木地師の子として生まれたと言われる。7歳で母親を亡くしたことから地元の粥川寺で仏教を学び始め、32歳の時にこのお寺で出家した。
そして、滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山などでの修業を終えた34歳の時に、北海道への遊行に向かった。それから1695年(元禄8年)、64歳の時に岐阜県の関市池尻にある弥勒寺(みろくじ)で死去するまで、30年に及ぶ長い長い旅が始まった。(※円空の出生地などには諸説あります)
旅の終わり頃、50代の円空がたびたび逗留した飛騨千光寺住職の大下大圓(おおした だいえん)さんによると、旅の目的は庶民救済。「諸国を歩きながら12万体の仏像を刻もう」と誓願を立てた円空の足跡は、故郷の岐阜県はもちろん、北海道、秋田、宮城、栃木、滋賀、愛知、三重、奈良など広く残されている。
円空は寺も仏像もないような小さな村々を訪れては、「困っている人たちを救おう」と、その土地で手に入る木を使って仏像を彫ったそうだ。
30歳頃から彫り始めたという円空の初期の仏像は古典的な造りをしていて、丁寧に時間をかけて彫ったのだろうとわかる。しかし、次第に木の切断面、木の節や鑿(のみ)の跡がそのまま見える簡素な仏像が増えていった。
それは旅の過程で「たくさん彫ること」に重きを置いたから。円空は願いを込め、果たして2メートルを超す大作から5センチほどのものまで生涯に12万体の仏像を彫ったとされ、全国に約5000体が現存している。
庶民に愛された「えんくさん」
飛騨千光寺の大下住職は、この荒削りの「円空仏」を見た時に、「こんなの仏像じゃないと思った」と笑う。
「普通の仏像彫刻とはかけ離れた彫り方をしていますからね。仏像を作る時には、持ち物や姿を定めた規則があるんですが、円空さんはそれを無視して、抽象的に表現している。
木を見て、そこに仏を見出して、いらないところを削って作ったのかもしれません。だから、その時その時によって表現の仕方が違うんです。それだけ抽象的でありながら、仏像の神髄、核心を掴んでいるように感じるんですよ。
後にも先にも円空さんのような感覚的な彫り方をする仏師はいません」
感覚的、といえば、「円空仏」は柔らく口角が持ち上がった独特の微笑みをたたえている表情もユニークだ。円空は怒った表情をしている憤怒尊も手掛けているが、大下住職曰く、「怒りを表そうとしているのに、慈愛が染み出ているのか、なぜか笑える」。セオリーを破り、なぜか笑える仏像を彫る円空とはどんな人物だったのだろうか。
「円空さんの性格にまつわる記録はありませんが、托鉢をしながら町のなかで仏教の話をするような庶民的な僧侶でしたし、仏像を見ても朴訥で無邪気で自然派だったんじゃないですかね。円空が千光寺を訪ねてきたのは1685年(貞享2年)、54歳の時です。当時の住職と意気投合して、千光寺をベースにして飛騨を回っていました。
丹生川の村人は当時、円空のことを親しみを込めて『えんくさん』と呼んでとても大切にしていたそうで、いまでもそう呼ばれています。丹生川だけで200体近くの仏像が民家に残っているんですよ」
「円空仏は自由な感覚で見てほしい」
千光寺の庫裏にある囲炉裏は、江戸時代から変わっていないという。円空は囲炉裏で火にあたりながら仏像を彫り、村人が訪ねてくるたびに贈っていたのかもしれない。いま、千光寺にも64体の円空仏が残されており、「円空仏寺宝館」で観ることができる。
入り口で迎えるのが、立木仁王像の阿・吽の二体。これは、円空が袈裟山に生えていた木にはしごをかけて彫ったもので、しばらくの間、そのまま山中にあったが、傷みが激しくなったので150年ほど前に切り出されたそう。大きくて力強い仁王像だが、柔和な微笑みを浮かべていて温かみを感じる。
庶民に贈られたのであろう小さな円空仏も展示されていたが、「仏像です」と言われなければわからないぐらいに抽象化されていた。それでもわずかに刻まれた表情は、やはり微笑んでいるように見えるから不思議だ。
「円空仏寺宝館」にはほかにも、円空自身がモデルといわれる「賓頭盧尊者像」(びんずるそんじゃぞう)や病気の人に貸し出したといわれる「三十三観音像」などが展示されており、それぞれの表情を見比べるだけでも飽きない。
大下住職は「円空さんが感覚で作ったものだから、自由な感覚で見ればいいんです。仏像の知識がないと観られないというものではなく、ダイレクトに伝わってくる感覚をそのまま受け止めてほしいですね」と言ってニコッと笑った。その堅苦しさのない笑顔はまさに、円空仏のようだった。
清峯寺の本尊を模して彫った傑作
岐阜県内には1300体以上の円空仏が残されており、高山市内では飛騨高山まちの博物館、上宝ふるさと歴史館、飛騨国分寺、清峯寺で円空仏を見ることができる。
次は、数ある円空仏の中でも傑作と名高い「十一面千手観音像」が安置されている清峯寺に向かった。
清峯寺は長らく住職が不在で周辺の集落の住民が守っているので、拝観する時には事前に電話を一本入れなくてはならない。連絡をすると、管理人の古田さんという方が気さくに応じてくれた。清峯寺は高山中心部から車で約30分。ここも田園地帯で、訪問時には稲刈りが終わった後の田んぼが広がっていた。
階段を登っていくと、小さな境内につく。そこで待ってくれていた古田さんの案内で、本堂と円空仏が3体安置されている「円空堂」を見せてもらった。清峯寺はもともと777年に安房山に創建されたが、戦火による消失などにより1561年と1854年、2度の移転を経て現在の位置に落ち着いた。
円空が訪ねてきたのは1690年(元禄3年)というから、58歳の頃。ということは、いまの本堂ではなく、寺山谷の中腹にあった前の本堂に滞在して仏像を彫ったことになる。言い伝えでは、円空は戦火に見舞われた清峯寺の本尊、十一面千手観音座像を供養するために、それを模して十一面千手観世音立像を彫った。さらに万民の招福、除災を願って竜頭観音像、聖観音像を完成させたと言われている。
円空の人柄をうかがわせるのは、十一面千手観世音立像の頭上。仏様が四方にニコニコした顔を向けており、ほっこりした気分になる。円空もニコニコしながら彫ったのだろうか
十一面千手観世音立像の足元にもお地蔵さんのようなものが彫られているが、これは円空自身の姿とも言われているそうだ。龍頭観音は頭に突き刺さるように立つ大きくて重そうな竜がユニークだし、聖観音像は身体が斜めを向いていて、その表情と合わせて独特の雰囲気を醸し出している。
清峯寺は決してアクセスが良い場所ではないが、古田さんによると、日本中から大勢の人がこの円空仏を見に訪れるという。確かに、この3体の仏像は円空の個性を感じることができて、一見の価値がある。
円空仏の微笑と慈愛
飛騨千光寺、清峯寺どちらに安置されているものも力作だが、円空は、旅先で食事ご馳走になる、あるいは一泊させてもらう時などにも、お礼として仏像を贈ったとされる。円空が生きていた時代、円空は全国的には無名の存在だった。清峯寺では、近年になるまで3体ともガラクタと一緒に仕舞われていたそうだ。
よく知らないお坊さんがやってきて、その場で彫って置いていった5センチから10センチほどの仏像が、なぜ現在も多く残されているのだろうか。千光寺の大下住職は「円空仏の微笑と慈愛が当時の貧しい人々にとって救いになった側面もあったのでは」という。
生涯、旅に生きた円空。円空仏の表情は、旅先で出会った名もなき人々の優しさと笑顔がモデルになっているのかもしれない。
<取材協力>
飛騨千光寺
岐阜県高山市丹生川町下保1553
0577-78-1021
清峯寺
岐阜県高山市国府町鶴巣1320-2
0577-72-3582(管理人 古田勝二さん)要予約
文・写真:川内イオ
※こちらは、2017年12月21日の記事を再編集して公開しました