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金箔とは
工芸から食用まで多様な顔の歴史と今
金箔の基本情報
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工芸のジャンル
金工品
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主な産地
石川県金沢市
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代表的な工芸品
輪島塗
金を10,000分の1ミリの薄さにまで打ち延ばしてつくられる「金箔」。
古くは神社や仏像、工芸品などの装飾として、今日ではソフトクリームに乗せたり、ネイルのアクセントにしたりと食用や美容にも使われています。
今回は、そんな金箔の歴史と今の姿、特徴についてご紹介します。
金箔とは。極限の薄さと、いつまでも色褪せない美しさ
金箔とは金をおよそ10,000分の1ミリの薄さにまで打ち延ばした箔片のこと。その薄さから様々な素材、かたちの上に繊細な模様を描くことができ、いつまでも色褪せないその美しさで人々の心を惹きつけてきた。
その歴史はとても古く、日本では7世紀末から8世紀初期にかけて存在が確認されており、16世紀の後半には加賀・能登地方(現在の主要産地である石川県)で金箔が製造されていたという。しかし、史料が乏しいために正確な起源はいまだ定かではない。
現在、日本で生産される金箔の99%が金沢産(石川県)であるため「金箔=金沢」というイメージだが、残りの1%は滋賀でも生産されている。
ここに注目 国宝・文化財の修復から食用の「金箔ソフト」まで、幅広い活用法
光が透けるほど薄く延ばされた金箔は、そのままでも美しい工芸品だ。
そして同時に、東大寺大仏殿の鴟尾(しび。瓦屋根の両端に取りつけられた鳥の尾型の飾り)や正倉院の鳥毛立女図屏風(とりげりゅうじょうずびょうぶ。金屏風のこと)などの社寺の装飾、京都の西陣織、石川の輪島塗といった文化財や美術品など様々なものづくりに活用される重要な素材でもある。
近年では、ソフトクリームに金箔を贅沢に被せた「金箔ソフト」や、金箔をお肌に直接貼りつける「金箔パック」、ネイルアートのワンポイントとして金箔を載せる「金箔ネイル」など、食や美容にも金箔は取り入れられている。
紙で変わる金箔の種類。「断切」と「縁付」の違い
金箔は「澄屋(金に銀や銅を混ぜて合金とし、それを1,000の1ミリの薄さの澄にまで延ばす職人)」と「箔屋(澄屋から届いた澄を、さらに10,000の1ミリの箔にまで仕立てる職人」の分業制でつくられる。工程としては金を「打つ」という極めて単純なものではあるが、実際には金を直接打つだけでは金箔にはならず、何かに挟まなければ金を10,000分の1ミリという極限の薄さにまで延ばすことはできない。
フランスやドイツなど西洋では主に動物の「皮膜」を用いることが多いようだが、インドを境に東側、中国や日本などの東洋では「紙」が用いられてきた。この紙を「箔打ち紙」と呼び、日本では用いられる箔打ち紙の種類によって、「断切(たちきり)」と「縁付(えんつけ)」の2つの製法が存在している。
断切
1965年(昭和40年)ごろから導入された比較的に新しい製法。カーボンを塗布したグラシン紙(薄紙)と金をかさねて打ち延ばし、形を整えるさいには複数枚をかさねたまま裁断する。今日では生産効率の良さから断切が大半を占める。
縁付
およそ400年以上の歴史がある伝統的な製法。雁皮(がんぴ)紙を藁灰汁(わらあく)や柿渋などに漬けこみ、そうしてできた箔打ち紙と金をかさねて打ち延ばす。そして形を整えるために、竹製の道具を用いて1枚ずつ裁断する。
金箔は金を打ち延ばす技術以前に重要なのが、金の展延性(薄く広がること)を助けるこの「箔打ち紙」とされる。とくに伝統技法でつくられる縁付では、職人の仕事の9割がこの打ち紙の仕込み、だと言われるほどだ。
今日、金箔は80%が断切で生産されており、縁付は衰退傾向にある。そこで縁付の貴重な伝統技術が途絶えないよう金沢では技術保存会が発足され、後世に技術が継承されるよう、継承者の育成や技術の保護の取り組みが始まっている。
金箔の技術を生かして生まれた「あぶらとり紙」
額や鼻頭の脂をさっと一拭きするのにちょうどいい「あぶらとり紙」。今や美容に欠かせない道具だが、実はこの薄い紙は、金箔をつくる工程から生まれた。
さんちでは金箔からあぶらとり紙がどう生まれるのか、実際に手掛けるメーカーからお話を伺い、その秘密に迫ってきた。
<関連の読みもの>
日本一愛される金沢・箔一の「あぶらとり紙」には金箔屋の技術が詰まっている
https://sunchi.jp/sunchilist/kanazawa/4371
金箔の歴史
日本における金箔の起源
フランス、ドイツ、イタリア、インド、ミャンマー、タイ、韓国、中国など金箔は古くから世界各地でつくられてきた。紀元前2600年代のエジプト古王国第三王朝のセケムケト王の墓からは、金箔を施した装飾品が見つかっている。
日本における金箔は資料が乏しいため正確な起源は定かではない。6世紀前半のものと思われる甲山古墳(滋賀県野洲町)から日本最古の金糸、7世紀末から8世紀初期に建造されたキトラ古墳(奈良明日香村)から星を金箔で表現した天文図が出土。752年(天平勝宝4年)に大仏開眼供養が行われた東大寺大仏殿の鴟尾にも金箔が使われており、日本での金箔利用はこの頃にはすでに存在していたと考えられる。
中尊寺金色堂建立。仏教が動かした金の中世史
743年(天平15年)、聖武天皇は東大寺に盧舎那仏の建設を決められた。当時は装飾に必要な金が不足していたのだが、749年(天平21年)に陸奥(現在の宮城県)で金が発見され、752年(天平勝宝4年)に仏像は無事に建設された。
また、1053年(天喜元年)に建設された京都の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は、坐像(ざぞう。座り姿の像)と光背(こうはい。像の背中につけられた光明を抽象化したもの)、さらに光背を固定するつり金具にも金箔が施されている。
さらに金に関わる建造物といえば、1124年(天治元年)、奥州(現在の岩手県)で権勢をふるっていた藤原氏が建設した、平泉(岩手県南部)に中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)が有名だろう。金色堂の内外は金箔で装飾され、その様子から「光堂」とも呼ばれる。
これらのことから、日本ではおよそ1300年前には金箔の製造、装飾の技法が確立されていたことが分かる。その金箔の広がりには、黄金を至高の存在とする仏教の伝播が多大な影響を与えていたと言える。
江戸時代。禁令のなかでの金箔づくり
1593年(文禄2年)、豊富秀吉の朝鮮出兵のおり、越前名護屋(現在の佐賀県)に布陣していた前田利家は秀吉から明の使節団の出迎えを命じられる。そのさい利家は武者揃えの武具をきらびやかに飾るため自身の領地に書状を送り、加賀(金沢)で金箔を、能登(七尾)で銀箔を打たせた。このことから16世紀後半には加賀・能登地方(現在の石川県)で金銀箔がつくられていたことが分かる。
1667年(寛文7年)、江戸幕府は幕藩体制を盤石とするため、諸藩に貨幣の鋳造を禁止し、全国の主要な鉱山を直轄領として金銀銅の地金をひとまとめに管理。さらに、1696年(元禄9年)には、江戸に箔座(はくざ。箔類の生産・販売を独占していた機関)を設立し、金銀箔類の生産・販売を厳しく統制した。
これを受けて加賀藩でも、1698年(元禄11年)に金銀箔の使用が禁止され、一時は生産が途絶えてしまう。その後、1709年に箔座は廃止されるも、代わりに金座や銀座が設置されて管理は続く。とくに金箔は厳しく統制され、尾張、会津、仙台などの一部地域を除いて江戸または京都でしか生産が許されなかった。
しかし、金沢城内の各御殿や、家臣たちの屋敷、寺院などの装飾に金箔は欠かせない。そこで加賀藩ではいまだ禁止されていなかった真鍮箔や錫箔などの製造を名目としたり、江戸や京都から仕入れた金箔を打ち直したり、金や小判を職人に直接渡して金箔をつくらせたりしていたという。
金沢箔の台頭
1808年(文化5年)、金箔の隠し打ちをしていた加賀藩に好機が訪れる。幕府の製箔統制が緩和されたのだ。加賀藩はこの統制緩和に乗じ、箔屋の伊助に命じて京都から職人を招かせ金箔を製造させたり、職人が京都に帰ったときには金沢の職人を京都に送って箔打ちを学ばせたり、と堂々と金箔の生産に乗り出した。
その後、幕府は1820年(文政3年)と1824年(文政7年)、1826年(文政9年)に再び金箔の生産を禁じるのだが、加賀藩は一般への販売を禁止したのみで、御用箔については職人に打たせていた。1827年(文政10年)、藩主・前田斉広の娘・厚姫の嫁入りのさいには、調度品の装飾に金沢の金銀箔が使われたという。
1869年(明治2年)、明治維新の潮流から江戸幕府は崩壊すると、金座と銀座は廃止され、江戸における金箔の生産は衰退。一方で、金箔が禁止されていた期間も技術を受け継いできた金沢の金箔は、相対的に需要が高まっていく。
1888年(明治21年)、金箔の品質と価格の管理、そして生産調整のための同業組合が発足される。1901年(明治34年)ころには、地域内だけで800名の職人、26軒の箔屋が軒を連ねていたほどで、金箔は金沢の代表的な産物となる。
現代の金箔作り
1915年(大正4年)、箔職人の三浦彦太郎によりドイツ製の箔打ち機が改良されると、これまで重労働であった箔打ちの機械化が進められ生産量は向上していく。さらに、第一次世界大戦の戦災でそれまでヨーロッパ最大の箔産地であったドイツが壊滅的打撃をうけると、その穴を埋めるように金沢では輸出量が増加。1919年(大正8年)には年間4,800万枚が生産される、金箔の一大産地に成長した。
その後、金沢箔(金沢産の金箔、銀箔)は1997年(昭和52年)、国の伝統的工芸品産業の用具材料部門において初の通商産業大臣指定(現在の伝統的工芸品)。2014年(平成26年)には、縁付金箔製造が文化庁の選定保存技術に選定された。
現在の金箔
国内で生産される金箔のうち、99%が金沢産。まさに「金箔の町」である金沢には金箔の箔押し体験ができるワークショップや、1枚の金箔を贅沢に乗せたソフトクリームをいただけるカフェ、現代の暮らしになじむようデザインされた金箔のアイテムを扱う雑貨屋など、金箔の「今」を体感できるスポットが数多くある。
さんちでは金沢を訪れ、「金箔」をテーマに金沢をめぐる旅を紹介している。
<関連の読みもの>
見て、触れて、食べられる工芸品。金沢・ひがし茶屋街で金箔尽くしの旅
https://sunchi.jp/sunchilist/kanazawa/60839
関連する工芸品
・金工品:「金工品」とは。食器から日本刀まで、金属加工の歴史と現在
https://sunchi.jp/sunchilist/craft/117540
・輪島塗:輪島塗とは。独自の技術と文化を築いた「塗師屋」の存在
https://sunchi.jp/sunchilist/ishikawa/116834
金箔のおさらい
素材
金箔は純金100%でつくられるものもあるが、延びをよくして色調を整えるために、ごくわずかな銀や銅を加えて約1,300度の高温で溶かした金合金も多い。
主な産地
・石川県金沢市
縁付金箔の工程
金箔は「澄屋」が金合金をつくり、1,000分の1ミリの薄さの「澄(すみ)」に打ち延ばす。それを「箔屋」がさらに10,000分の1ミリの薄さの「箔(はく)に延ばす、という分業制でつくられる。これは金箔の生産工程としては世界的にも珍しいとされる。
澄屋
・金合わせ:金にわずかの銀や銅を加え、およそ1,300度で溶かして金合金とする
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・延金:金合金を圧延機にかけておよそ100分の1ミリの厚みにまで引き延ばす
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・澄打ち:澄打ち紙の間に延金の小片を挟み、澄打ち機でおよそ1,000分の1ミリの厚みになるまで打ち延ばす(完成したものを澄と呼ぶ)
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・仕立て:澄を30枚ほど重ねたら、およそ20cm角の型に当てて折り曲げ、裁断する
箔屋
・引き入れ:澄屋で仕立てまで進んだ澄(上澄)を正方形や長方形に10枚ほど切り、小間紙ではさみ、およそ10cm角にまで打ち延ばす
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・打ち前:小間(10cm角に延ばされたもの)をまま紙に移し替え、箔打ち機でおよそ10,000分の1ミリにまで打ち延ばす
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・抜き仕事:できた箔を、三椏和紙(みつまたわし。耐久・耐湿性に優れる保護紙)の広物帳(一時保管用の冊子)に移す
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・箔移し:広物帳の箔を四角い竹製の刀で所定の大きさに裁断し、三椏和紙の箔合紙に1枚ずつ重ねていき、100枚で1包とする
※小間紙、まま紙とは箔打紙のことで、工程によりその呼び名が変わる。
数字で見る金箔
・誕生:資料に乏しいため詳しい起源は定かではないが、日本ではおよそ1300年前には金箔の製造・装飾の技術が確立されていたと考えられる。
・シェア率:日本で生産される金箔の99%が金沢、残りの1%が滋賀
・金沢箔は1997年(昭和52年)に国の伝統的工芸品に指定。2014年(平成26年)に縁付による金箔製造が文化庁の選定保存技術に選定された。