三十の手習い「茶道編」六、無言の道具が語ること
こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。
◇無言の道具が語ること
4月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室6回目。床の間の掛け軸のお話から、お稽古が始まりました。
「これは熊野(ゆや)というお能の曲目を描いた、源平合戦にまつわる物語がテーマのお軸です。熊野は平清盛の三男、平宗盛に寵愛された美形の踊り子さんです。描いたのは神坂雪佳(かみさか・せっか)。元は双幅になっていて、一方にお能、もう一方に京都の桜の名所、清水寺の地主桜(じしゅざくら)の絵が描かれています」
ある日、熊野に母の危篤の知らせが入る。帰りたいが宗盛が帰してくれない。どんどん沈みがちになる熊野を、宗盛が気晴らしにと清水寺の地主神社へお花見に連れ出す。その連れて行かれるシーンを描いた絵だそうです。ストーリーやこの絵を知っている人には、これがお花見の時期に合わせた設えだとピンとくるわけですね。
「手前の花入れは蒔絵をあしらった鼓です。ほんものですよ。実際に演奏に使われていたものです。鼓は能の楽器ですからね。傍にあるのは謡本(うたいぼん。謡曲の譜が載った教本)と、お囃子に使う横笛の能管(のうかん)。八坂神社に伝来した笛で、名を清水とつけられいます。能管の下に敷かれた裂(きれ)は久松家(伊予松島藩主で明治の動乱下でも土地の能文化を保護した)伝来の能装束の端切れです」
掛け軸のお能の世界観が、その傍の飾りものへと広がっていました。
「本来、茶会では冗長なおしゃべりは禁物。静かに粛々と時が動いていくのが望ましい。では、何が亭主の気持ちを語るかというと、そこに用意された道具が語る。その場に選ばれた理由、組み合わせ方が、何よりのコミュニケーションツールなのです」
ホストはゲストをもてなすためにストーリーを組み上げ、言葉に代えて道具の取り合わせで自分の気持ちを表す。ゲストは無言の道具を一つひとつ自分のセンス・教養を駆使して汲み取っていく。これが何よりのお茶会の喜びだと、先生はおっしゃいます。
「ご心配なく、全部わからなくていいんです。聞けば教えてくれます。その時受け取れるものを一つひとつ、自分の目・耳・鼻・手で感じ取っていくこと。茶会に来て、ドリル問題の答え合わせをする必要はありません。かといって、お茶が美味しいというだけでない。茶会の一番の喜びですね」
そして、お茶会に込める物語のベースとして、長らく好まれてきた題材のひとつがお能なのだそうです。
「お茶に先行して、日本文化の核として発達したのがお能です。神仏に奉納するお神楽がもととなり、祈りの表現として始まったものです。これを室町将軍家が特に好みました。新しい社会のニューリーダーだったお武家さんたちは、それまでのリーダーだったお公家さんたちの文化、例えば雅楽とか和歌などとは違うものを欲したのだと思います。抑制の効いた動作や所作の中で舞う能を、自らも演じ、また観劇して楽しみました。源平合戦のテーマがお能の曲目に多いのはそのためです。お侍さんたちにとって馴染みのあるものですからね」
そうして源平を題材に作られたお能の演目が、今度は絵に描かれ、お茶という別の文化に取り込まれて今日の床の間を飾っていると思うと、ますます先ほどの掛け軸の持つ意味がずっしり重みを増していきます。
「今聞くと、難しく、何を言っているのかわからないかもしれません。しかしながら、お能の曲は古今東西の名文美文を寄せ集めたオムニバスのようなもの。なので、昔の人にしてみれば、歌い踊っている間に一般教養が覚えられる便利なツールでもありました。さらにお酒の席で一緒に演じられる、武士たちにとっての共通言語だったんです。当然、人前で披露するならかっこよく立ち居振る舞いしたいと思いますよね。この、お能で見られる観客を意識した動きと自らの楽しみ、両方が背骨になって、後発の文化である、もてなしの場としての茶の湯に落とし込まれていくんです」
ただお茶の美味しさを堪能するだけでなく、お点前はかっこよくやらないといけない。
「お茶を立てる動作自体も、ご馳走のひとつ。言葉ではない、自分の小さな所作の一つひとつが、相手に気持ちが届くように。そう願って稽古するのです」
◇さまざま桜
お軸を中心とした飾りものが能をテーマにしているのと対を成すように、お点前の道具やいただいたお菓子はどれも、4月らしく桜がモチーフになっています。絵の中の熊野のお花見を、疑似体験しているかのような気持ちになってきます。
◇道具がコミュニケーションツールになるには
「機会があったら一度お能を観に行って、主役だけでなく脇に縦に並んだ地歌と呼ばれるコーラスの人の動きや、楽器を担当する囃子方(はやしかた)の動きを見ておくといいですよ。黒い紋付、より正式な会なら裃(かみしも)を着て並んだ人たち。ピンとした一糸乱れぬ所作を保つことで、そこにいるはずの気配が消えます。逆に雑にすれば目立ってしまう。お能を実際に観てつまらないと思うか、面白いと思うか。感じ方は人によって違うと思いますが、お茶の稽古をする前と習い始めてからでは、お能を見た感想は、まず、変化するはずです。
何気なく眺めている間は無縁だと思っていたものが、何かに取り組むことで、実はどこかでつながっていることに気づく。何であれ、視野を広げて興味を持つということが、とても大切なんです。お茶はお茶だけで成り立っているものではない。お能もしかり」
視野を広げた先に見つけられる、お茶会に組み込まれたさまざまなストーリー。今日のお能の仕掛けも、さっと読み解けたらどんなに楽しいだろうと思っていたところに、先生が最後に大切なことを教えてくれました。
「何事も、どうしても自分本位にやってしまいがちです。こうしたお能にちなんだ取り合わせもいいですよ、と伝えましたが、危険な要素もはらんでいます。少しお能もかじり、お茶をたしなんで道具や文化に興味を持った人が、必ずやりたくなる仕口のひとつですが、同時に、そういう人が茶会を開く際にもっともやってはいけない開催の仕方とも言えます」
危険、という言葉にどきりとします。自分の見聞きしたこと、覚えたことは、ちょっと背伸びしてでも、すぐに実践したくなりそうですが‥‥
「自分が多少わかっていて楽しいからといって、お能がかりの趣向でお茶会をひらいて、お客さんの何人が理解し、楽しいと思ってくれるかどうか‥‥。我が身の知識と教養をひけらかすためだけにやるような会ならば、これはもてなしとは言えません。共通言語という言葉を何回も言いましたが、相手がともに理解してくれればこそ、説明なく道具が無言のうちに語ってくれるのです。
今のビジネスシーンでいうと、企画書やプレゼンテーション、謝罪の仕方でも同じです。例えば相手に頭を下げるということは、下げている所作全体から、お詫びの気持ちが伝わってくるようなものでなければならないと思います。
時に、やせ我慢も魅力、ではありますが、独りよがりだけ、ではつまらない。
−では、今宵はこれくらいにいたしましょう」
◇本日のおさらい
一、無言の道具を介したコミュニケーションを楽しむ
一、ただし、あくまで相手が理解できてこそもてなしになる
文:尾島可奈子
写真:山口綾子
衣装:大塚呉服店