わたしの相棒 〜手槌は折れても魂折れず〜
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こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。工芸を支える職人の愛用品をご紹介する「わたしの相棒」。普段は注目を浴びることが少ない「職人の道具」にスポットを当て、道具への想いやエピソードを伺います。今回は三条で今でも唯一、「鉈」を専門にすべての工程を手作業で作り続けている日野浦刃物工房の、日野浦司さんにお話を伺いました。
日野浦司さんの「わたしの相棒」は『手槌』。槌は槌でも、手仕事の意味合いを強く持つ鍛冶屋では『手槌』と呼び、昔から鍛冶屋の魂として受け継がれてきています。この手槌には、単なる道具ではない、鍛冶屋の歴史と未来を想い続ける職人の心が詰まっていました。
100年受け継がれる鍛冶屋の魂
「鍛冶屋はまず、自分の手槌を自分でつくることからはじまるんだ」
日野浦さんは相棒の手槌を握りしめ、昔を思い出すように話をしてくれました。鉄を打つその道具づくりから職人として自分で責任を持ち、決して妥協しない。一番使いやすい柄の長さや木の素材、頭部の大きさや重さ、そして全体の重心のバランスを見極めながら、世界で一つの自分だけの手槌をつくるということです。鍛冶という手仕事のために、まずはその道具を鋼材屋と木工屋で材料を仕入れてつくるのが、昔ながらの鍛冶屋の自然な在り方。日野浦さんも先代の手槌を見ながら試行錯誤して自分の手槌をつくった若き日を、今でも昨日のことのように思い出せるそうです。
その当代専用の手槌の横に、炎の熱で頭部や柄が黒ずんでいる、ずいぶんと年紀の入った手槌が並んで置かれていました。
「これは100年以上に渡って三代受け継がれてきた手槌。力尽きて柄の部分が折れてしまって。柄だけ新しく付け替えたけど、折れた柄には先代の指の形がくっきり残ってたんだ」
先代の指の跡が刻まれるほどに強く握られ、鉄を打ち続けてきた年代物の手槌。確かに、時間の経過を感じさせる黒ずんだ頭部に対して、折れて付け替えたという柄の部分はまだ新しい印象を受けました。持たせていただくと見た目以上にずしりと重く、その道具としての重さ以上に、そこに込められた歴史や鍛冶屋の想いの重さを感じさせられます。木材は粘り気と強度がある桜の木を重用しているということですが、それでも三代使い続けるうちに折れてしまったことからも、鉄を打つ瞬間にこの手槌にどれほどの負荷がかかっているのかが想像できます。
かつて鍛冶屋では鉄を打つための金床の片側に親方、その反対側に弟子が2・3人並び、交互に手槌を打ち付けていたとのこと。だから、昔の手槌を見てみると、親方のものと弟子のものとで、頭部の先端が曲がっている方向が逆を向いているそうです。弟子の手槌は上向きに少しだけ反っていたので、親方の手槌が打った同じ場所を弟子が叩く時に、同じ角度で鉄に力を加えることができます。協力して1つの鉄を打つための工夫が、道具自体に施されていたのです。
「その名残のわずかな角度の変化が今でも残って、大きく降り下ろさなくても鉄に力を伝えやすくしてくれているんです」
数人がかりで打っていた行程は、今ではスプリング・ハンマーという機械化されたハンマーが代わりに担ってくれていますが、それでもやはり最後は人間の手で手槌を振り下ろし、鉄の感触を直に確かめながら成形し、刃の質を丁寧に丁寧に高めていきます。大きく振りかぶるのではなく細かく狙いを定めて打ち下ろし、正確に力を伝え形を整えていくために手槌の曲がりが役立っているのです。
「打つたびに鉄や鋼は良くなる。だから、こいつが無くては仕事にならないんですよ。相棒でもあり、私が鍛冶を守り続ける誇りの形でもあるんです」
先代から受け継がれてきた手槌は折れてしまったけれど、受け継がれてきた鍛冶屋の魂は日野浦さんの中に力強くたぎっています。そしてまた次の世代へと、この手槌とともに日野浦さんの決して折れない魂が受け継がれていく。日野浦さんはそう願いつつ、若い人たちに鍛冶の素晴らしさを伝え続けています。
〜「日野浦刃物工房」が登場する『「工芸」の起源は鍛冶にあり?」』の記事はコチラからご覧いただけます。合わせてご覧ください〜
文:庄司賢吾
写真:神宮巨樹