日本職人巡歴 世界のトランぺッターを虜にするマウスピース職人
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こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は世界のトップトランぺッターから引っ張りだこのマウスピース職人のお話をお届けします。
モーリス・アンドレ。「トランペットの神様」と呼ばれた不世出のカリスマ。
ホーカン・ハーデンベルガー。モーリス・アンドレ以来の大器と呼ばれたスウェーデン生まれのスタートランペッター。
ミロスラフ・ケイマル。天才と謳われたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(以下チェコ・フィル)の元首席トランペット奏者。
ハンス・ガンシュ。世界3大オーケストラのひとつ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(以下ウィーン・フィル)で首席トランペット奏者を務めた世界的名手。
トランペット界で知らぬ者のいない存在である彼らには、ひとつの共通点がある。演奏時に使うマウスピースだ。彼らのマウスピースをハンドメイドで作ってきたのが、亀山敏昭 (かめやま・としあき) さん。これは、世界中から注文が殺到するマウスピース職人の知られざる物語である。
メッセンジャーで受注する68歳
浜松駅から徒歩数分。昔ながらの住宅街の一角に、亀山さんの工房「Toshi’s Trumpet Atelier」がある。もともと妻の実家だったという平屋を改装した慎ましやかなたたずまい。呼び鈴を押すと、柔らかな笑みを浮かべた亀山さんが「どうぞ」と招き入れてくれた。旋盤などいくつかの工作機械が置かれた工房には、無数のマウスピースが並んでいる。
亀山さんがこの小さなアトリエを開いたのは、2000年4月。長年、ヤマハの社員として働いていた亀山さんは、早期退職制度を利用して独立した。50歳のときだった。
「もちろん、最初は不安もありましたよ」と振り返るが、今ではヨーロッパ全土のほか、アメリカ、メキシコ、トルコなど世界各地からマウスピース製作の依頼が届く。
「ここを始めた時よりも、今のほうがワールドワイドに仕事ができています。フェイスブックのメッセンジャーで、こういうものを創ってほしいと言われますから」
何気ない言葉に耳を疑う。え?メッセンジャー?
「はい。いろんな国から依頼が届きます。知らない人からも連絡が来るし。基本的には英語とドイツ語でやり取りしています」
現在68歳の亀山さんは文字通り世界中のトランペット奏者から引っ張りだこの存在で、すべての依頼を受けるのは難しいという。2カ国語を操り、SNSを駆使して世界を舞台に仕事する68歳の売れっ子。僕の脳裏には、「グローバル職人」という言葉が浮かんだ。
なぜ、この小さなアトリエで作られたマウスピースが、それほど求められるのか。亀山さんの足跡を追おう。
長良川のトランペット少年
亀山さんがトランペットに出会ったのは、中学2年生のとき。音楽が好きで中学から吹奏楽部に入ってクラリネットやパーカッションを担当したが、トランペットを吹いた瞬間に「これだ!」と直感した。
「自分に合っていたのか、割と楽に音を出せたんですよ。それに、僕は小学校のときから弱虫で、性格も強くなかったんです。トランペットは明るい音で目立つ楽器だから自分を鼓舞できるような気がしました」
すっかりトランペットにはまった亀山さんは、岐阜の地元を流れる長良川の岸辺でいつもひとり練習に熱中していたという。みるみるうちに上達し、高校3年生のときにヤマハ吹奏楽団の団員試験を突破。高校卒業後、吹奏楽団のメンバーとしてヤマハの本社のある浜松に越してきた。
楽団といっても朝から晩まで練習するわけではなく、日中は社員のひとりとしていろいろな部署に配属されて仕事に当たる。亀山さんは最初、トランペットなど管楽器の試作工場で部品を作ったり、検品をする部署で働いた後、トランペットの設計に就いた。
アメリカやイギリスの先行メーカーの楽器をベンチマークとして、部品の寸法や内径の太さなどをミリ単位で調整しながら、より良い音を目指す繊細かつ根気のいる仕事だ。このときの働きぶりが評価されたのだろう。当時、新興メーカーだったヤマハが欧州に本格的に進出するにあたり、「現地に楽器に精通した人間が必要だ」ということで、30歳の亀山さんに白羽の矢が立った。1979年、亀山さんは西ドイツに渡った。
オペラハウスの思い出
新しい職場は、西ドイツのハンブルグにあったヤマハの工房。「ヤマハの楽器をさらに広めていこう。高いレベルのモノを作ろう」という目標を掲げ、欧州の名門楽団を訪ね歩き、演奏家たちとコミュニケーションを取りながら、ヤマハの楽器に関する意見を聞いて日本にフィードバックをしたり、楽器のメンテナンスをするのがミッションだった。
まだ若く、やる気に満ちていた亀山さんは、必死に語学を学びながら練習場所やコンサートに何度も足を運び、演奏家たちの言葉に耳を傾け、細かなリクエストに応えることで、少しずつ演奏家たちの信頼を得ていった。
「ドイツにはマイスター制度があって各地でマイスターが楽器を作ったり、メンテナンスをしています。ドイツの演奏家からよく言われたのは、マイスターは権威的で、演奏者がこうしてほしいと要望を伝えても、聞き入れてくれない。逆に、新米で言われたことを素直に聞く私は、柔軟性があるからやりやすい、話しやすいと言われていました」
やがて、とことん演奏家に寄り添おうとしていた亀山さんに特別の計らいをみせる演奏家も出てきた。
「オペラハウスは舞台の下にオーケストラピットがあるので、観客席からは見えません。そういうとき、よく演奏者の横に座って演奏を聞かせてもらいました。普通、部外者はそんなところに入れないんですけど、演奏者は吹きやすくて、良い音がする楽器を望んでいますし、ヤマハが本気で良い楽器を作ろうとしているとわかってくれていたので、自分の音をもっと理解してほしいということでした」
ドイツに来た時点でヤマハの楽団からは離れていたが、亀山さんは単なる営業や技術者ではなく、同じ演奏家の立場でより良い音を求める気持ちに共感できた。だからこそ、ここまで距離を縮めることができたのだろう。
100分の1ミリの戦い
各地のトランペット演奏家たちと親しくなると、しばしば「トシ、マウスピースを作れないのか?」と尋ねられるようになった。多くの演奏家が悩みを抱えていたのだ。
「演奏家のなかには、同じマウスピースを何十年も使っていて、もしそれを失くしたら演奏できないという人もいますし、自分に合ったマウスピースで吹いていると、楽器が変わっても自分がイメージした音が出せます。演奏者にとってマウスピースはそれほど大事なものなんです。マウスピース自体はとにかく種類がたくさんありますが、人それぞれ唇の形も吹き出す息の量も違うので、既製品で満足していない演奏家も大勢いました」
楽器メーカーにとってマウスピースのカスタマイズはたいして儲からない上に面倒だから、目をそらしていたのだろう。しかし、相談を受けたら検討もせずに「できない」という返事をしないのが亀山さんだ。ドイツに発つ前に日本でマウスピース製造の研修を受けていたこともあり、試行錯誤しながらマウスピースを作り始めた。
マウスピースは真鍮の素材で外側の形を削るところから始まる。外形ができたら、旋盤で息を通すための穴を中央に開ける。その後、カップと呼ばれる息の吹き込み口を円錐状に削る。カップが浅いと張りのある明るい音になり、深いと落ち着いた豊かな音になる。リムという唇が当たる部分の角度や厚みも整える。
マウスピースは100分の1ミリの違いで音が変わり、演奏家はその音を聞き分けるため、非常に繊細な技術が必要だ。亀山さんは何度も試作し、演奏家のもとに持参しては意見を聞いて調整をした。そうして初めて理想のマウスピースを手にした演奏家は、亀山さんの目の前で喜びを爆発させた。
スーパースターがやってきた
演奏家の口コミは、恐ろしく早い。最初の1本を納品すると、その噂は瞬く間に広がり、亀山さんのもとに次々と依頼が舞い込んだ。楽器を売り込みたいヤマハにとってマウスピースの製作は本来の業務ではなかったが、演奏家と良好な関係を築くための手段として亀山さんが製作を担った。
亀山さんが作ったマウスピースの評判はやがて国境を越えた。1981年のある日。フランスからハンブルグの工房を訪ねてきた男がいた。20世紀最高のトランペット奏者と呼ばれたモーリス・アンドレだった。モーリスは、自分が望む複数のマウスピースの説明をすると亀山さんに聞いた。
「明日には別のところに行かなきゃいけないんだ。1日でできるか?」
亀山さんにとって、モーリスは憧れのスーパースターだった。それまで1日に何本もマウスピースを作ったことなどなかったが、断るという選択肢など思い浮かびもしなかった。二つ返事で請け負うと、同僚とふたりで夜を徹して手を動かし続け、なんとか完成させたマウスピースを翌朝、モーリスに納品した。モーリスにはそれを試す時間すらなかったが、上機嫌で「これでいいか?」と1000マルク、約15万円をポンと支払って、ふたりと写真を撮ると風のように去っていった。
それからしばらくすると、フランスから1人、2人と著名なトランぺッターがハンブルグにやってくるようになった。彼らは皆、モーリスから亀山さんの評判を聞きつけていたのだ。「あのマウスピースはどうだったのか‥‥」と気にしていた亀山さんにとって、それは雲の上の人からもらった合格点だった。
間もなくして、「モーリス・アンドレのマウスピースを作った男」として名をはせた亀山さんのもとにヨーロッパ中から依頼が殺到するようになった。モーリスはもちろん、冒頭に記したスウェーデンのスター、ホーカン・ハーデンベルガー、チェコの天才奏者、ミロスラフ・ケイマル、オーストリアの名手、ハンス・ガンシュらも依頼人に名を連ねた。
彼らにとって亀山さんがどんな存在だったのかがわかるエピソードがある。ある日、ミロスラフ・ケイマルから緊急の連絡が入った。話を聞くと、プラハでの演奏会場に車を駐車した際、、一瞬のすきに車のトランクに入れていた楽器やマウスピースが全て盗まれしまったという。そのとき、ケイマルは亀山さんにこう伝えた。
「楽器は店で買えるけど、トシのマウスピースは買えない。どうにかして作ってほしい」
この言葉を聞いて、亀山さんはすぐに新しいマウスピースを作って届けたという。
自分にできる一番いい仕事
1988年、ヤマハから日本に戻るように辞令を受けた亀山さんが帰国するとき、ヨーロッパのトランぺッターたちがどれほど嘆いたか、想像に難くない。なかには「工房を作るから俺のところで働いてほしい」と言って引き止めた演奏家もいたそうだ。
亀山さんは浜松で再びトランペットの設計を3年間やった後、東京で8年間、ドイツ時代と同じような仕事に就き、国内の演奏家、海外から来る演奏家の対応をした。その間も付き合いのある演奏家のマウスピースを作り続けていたが、次第にもどかしさを感じるようになった。
「ヤマハの社員でいる限りは、アマチュアの演奏家や他のメーカーの楽器を使っている演奏家のマウスピースは作れません。ずっと、気持ち的には作ってあげたいのにできないというジレンマがありました」
モヤモヤを抱えているうちに、世の中は不景気になり、その影響でヤマハにも早期退職制度ができた。このとき、自分が最も親しみのあるトランペットにかかわる職人として独り立ちしようと腹をくくった。
「この仕事は、演奏者を助けることになる。そういう意味で、自分にできる一番いい仕事だと思いました」
2000年4月にトランペットの修理やメンテナンス、マウスピースの製作を手掛ける「Toshi’s Trumpet Atelier」を立ち上げてから17年。独立時には「生活できるのか」「金管楽器全般を対象にしたほうが良いんじゃないか」などと心配されたそうだが、いまは仕事の9割がトランペットのマウスピースの製造で、亀山さんを頼る演奏家は世界に広がり続けている。
理由はふたつ。ヤマハ以外の楽器を使う演奏家のオファーを受けるようになったこと。もうひとつは、インターネット。もともと常に良い楽器を求めている演奏家の口コミのスピードは速かったが、インターネットによって口コミの拡散範囲と速度がグンと広がり、トランぺッターの間で亀山さんの名前がより広く知られるようになったのだ。
長良川の河川敷でトランペットを吹いていた少年は、世界のトッププレイヤーに求められる存在になった。これまでの人生を振り返って、どう思いますか?と尋ねると、亀山さんは目を細めて「できすぎですね」と笑った。
「すごいラッキーだと思います。特に頭が良いわけでもないし、すごい技術があるわけでもない。たまたまいまの仕事を始めて、演奏者に寄り添い、できるだけのことをしてきた。そういう仕事のスタンスが喜んでもらえたのではないでしょうか。マウスピースを作ること自体は難しくありません。大切なのは、希望のマウスピースを作れるかなんです」
亀山さんには忘れられない瞬間がある。もう30年近くの付き合いにあるミロスラフ・ケイマルの演奏会に行ったときのこと。最後の曲が終わり、観客席から万雷の拍手が降り注いだ。するとケイマルはトランペットからマウスピースを抜き取り、満面の笑みで観客に向けてマウスピースを掲げたのだった。
<取材協力>
Toshi’s Trumpet Atelier
浜松市中区砂山町 362-23
053-458-4143
文・写真:川内イオ