刺し子とは。手の軌跡を通して布に宿る、普遍的な価値
ちくちくと人の手で縫った痕跡に癒される、「刺し子」の布。
国を問わず、どんな刺し子布を見ても、その布に残された人の手跡に愛着を感じてしまいます。
日常で使うものとして見かける機会が減っている、この「刺し子」の技を駆使して、「くらしの工藝布」のものづくりは始まりました。
この時代において人の手で作るという営みの尊さ。自然と見つめてしまうその理由は、布が生まれた背景にこそあるのかもしれません。
そこで今日は、「刺し子」の成り立ちや営みについて、二ツ谷淳さんにお話をお伺いしました。
二ツ谷淳
刺し子を家業とする家に生まれ、現在では、日本の刺し子をアメリカで伝える活動をしている。
Instagram @sashikostory
今回一緒にものづくりを行った大槌刺し子さんに、刺し子を指南されているご縁でお話をお伺いしました。
刺し子の成り立ち
刺し子は、青森県や山形県などの東北地方で育まれた技法として知られていますが、基本的には全国の各家庭にあった針仕事だと思っています。刺し子を毎日の営みの中の針仕事だと捉えると、起源を特定するのは難しいかもしれません。ただ、生活に必要な衣類に針を通して補強や補修をしないと、冬が越せなかった人たちの暮らしの知恵として、東北など寒く交通の不便な地域で生まれたというのは自然なことだと思います。
江戸時代、農民の生活は現在の生活からは考えられないほど厳しいものでした。木綿の布が手に入らなかった地方もあるし、木綿が手に入っても代替品をすぐに手に入れることが難しい人々もいたでしょう。摩耗したら、補修して繕いながら使い続ける必要がありました。また、補修が必ずくる未来なのであれば、先に針を通して補強しておいた方がいい。それが本質的な刺し子の考え方だと思っています。
私の実家は岐阜県の山岳地方にあります。田舎とはいえ城下町なので、ある程度の余裕はあったようです。布が潤沢に手に入る訳ではないけれど、布を使う前に補強するだけの余裕はあったと聞いています。さらに布が手に入らない地域では、まっさらな新品の布を手にする余裕もなく、布を手に入れたら縫い合わせて着て、摩耗したら補修して、という順番だったと思います。
東北地方では、その気候風土から木綿の栽培が難しく、木綿よりも目が粗い、麻の生地が衣文化の主流だったようです。麻は目が粗いので、補強はもちろん保温のためにも目を埋める必要があります。布の隙間を埋めるように刺された刺し子を、「こぎん刺し」や「南部菱刺し」と呼ぶと理解しています。意匠性としても美しいものが多く残っていて、また同時に刺し子の本質として、必要にかられて生み出されたものなのだと思うのです。
刺し子の変遷
明治維新以降、日本が徐々に西洋化して人々の生活が豊かになると、生活のための針仕事という刺し子の必要性が薄れていきます。交通の便が悪い地方でも布が手に入りやすくなり、結果的に刺し子をしなければいけない人が減っていきました。第二次世界大戦の頃には、千人針のように精神的な祈りの意味での針仕事はあったと理解していますが、日本が豊かになるにつれ、生活の営みとしての刺し子の存在意義は小さくなっていきます。しかし、戦後の日本が急速に豊かになっていく1960年代、各地方で刺し子の美しさや素晴らしさを見つめ直し、その技術や柄、営みそのものを復興させようとした方々がいらっしゃいました。現在、地方の名前がついている「○○刺し子」と呼ばれる刺し子は、この頃から徐々に復興されていったものだと理解しています(東北の三大刺し子は、衰退せずに継続し続けたという理解でいます)。
江戸時代以前は、日常の営みとしての針仕事だったので、地方によっては「刺し子」という言葉は使われなかったかもしれません。江戸時代には、火消し半纏を刺し子半纏と呼ぶこともあり、すでに「刺し子」という言葉は存在していたようです。ただ、地域によってそれぞれの呼び名があったと想像することは、難しくありません。
現在の手芸としての刺し子は、手芸屋さんを始めとして、材料やキットを販売してきたことに起因しています。そしてそれは、刺し子を復興する中でいかに「持続可能性」を保つかを、努力された方々の結晶だと思っています。文化を残すためには経済的循環も必要です。すべて手作業で針目を作る刺し子は、完成形の大量生産が難しいので、作り手と使い手を区分けする産業とすることは難しかったのだと思います。また、刺し子の本質が日常の営み、つまりは家庭内での仕事だったことを考えると、生活のために針を動かす必要がなければ、手芸として発展していくのは自然なことではないでしょうか。
さまざまな刺し子
補修のための刺し子
布が貴重な時代、破れた衣服は布を継ぎ当て繕うことで再生していました。生地のひとかけらさえも無駄にせずに、補修しながら大切に使っていたことが分かります。
保温のための刺し子
青森県の「こぎん刺し」に代表される、布の隙間を埋めるように刺された刺し子着。寒冷地では木綿を育てることができず、目の粗い麻の生地しか手に入らなかったため、保温性を保つために、布の隙間を埋めるように密度高く刺されていました。
補強のための刺し子
いつか来る摩耗に備えて、補強のために全面に幾何学模様が刺された刺し子着。
模様に縛りはありませんが、幾何学模様が多いのには理由があります。
補強を目的とするため、ある程度均等に刺す必要がありました。全体に散りばめられる柄として、幾何学模様が刺されることが多かったといいます。
補強の最たるもの「火消し半纏」
江戸時代の火消し半纏は、補強の機能性の最たるものでありつつ、粋な意匠性を持ち合わせています。紋が抜かれたシンプルな生地と、美しく大胆な柄が染められた生地を二枚重ねて、刺し子が全面に施されていました。
火事があれば半纏ごと水をかぶって火の中へ飛び込んでいき、火消しの後は裏を表にして羽織り、町の人々の目を楽しませたといいます。
意気で洒落た遊び心が当時の仕事着一着に込められていました。
刺し子とは
時代の流れの中で、手作業であった刺し子が織物として進化したり(刺し子織)、また見た目(デザイン)に特化した刺し子ミシンが生み出されるなど、刺し子は常に変化しています。日本人の日常の針仕事だった刺し子を、「これが刺し子で、あれは刺し子ではない」と定義することは、何か大切なものを削ぎ落としてしまうようで、私は進んで定義はしていません。ただ、刺し子の本質を考える際は、結果としての見た目だけではなく、その過程の「運針」を中心に置くようにしています。刺し子のお話を諸先輩方から聞けば聞くほど、刺し子は「針と糸を通して、布に想いを込める」という「動詞」なのではないかと思うようになりました。
「誰かを思わなければ刺し子じゃないのか?」という難題をいただいたこともありますが、小さなふきん一枚刺すだけでも1時間〜数時間は、針と糸と布と向き合わねばなりません。その想いが前向きなものか後ろ向きなものかは刺し手の心模様次第ではあるのですが、どんな形にしろ念はこもると思っています。刺し子を大切に思う私にとって、その念が「祈り」であればいいなと願いつつ日々刺し子をしています。
シンプルな手刺しから始まった刺し子は現在、刺繍、刺縫い、刺し子織などさまざまな技法に発展しています。
「くらしの工藝布」では、時間をかけてひと針ひと針刺すことによって、布に宿る普遍的な価値を見つめ、さまざまな技を用いながら「刺し子」をテーマに今の表現を探りました。
左上から時計回りに、
・手刺しのタペストリー(直)Mサイズ/Lサイズ
・手刺しのタペストリー(散し)Sサイズ/Mサイズ
・刺し縫いのクッションカバー
・二重織刺し子の長座布団
<関連特集はこちら>