庭を知ると旅が10倍楽しくなる。「知覧武家屋敷庭園」の巡り方
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日本各地にある庭園や名勝は、定番の観光スポット。でも、旅先で何となく訪ねて帰ってしまっていませんか?
一見すると見逃してしまいがちですが、実は庭にはその時代を生きた人々の足跡が残されています。当時の文化や歴史、人々の生活に思いを馳せることができる場所なんです。
知れば知るほどに面白い、産地の庭を訪ねる「さんちの庭」。
今回は、NHK大河ドラマ「西郷どん」でも注目が集まる鹿児島の庭園を紹介します。
江戸時代の武家屋敷にタイムスリップ
訪れたのは知覧武家屋敷庭園。7つの庭園からなる国指定の名勝です。
庭園がある南九州市知覧町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、「薩摩の小京都」とも呼ばれている地域。そこには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景色が広がります。
今回、案内くださったのは、庭園を管理されている知覧武家屋敷庭園有限責任事業組合代表の森重忠 (もり しげただ) さん。
森さんに武家屋敷庭園ができた経緯についてたずねると、「江戸時代、薩摩藩は領地を113に区分けをして、102の城をつくる『外城 (とじょう) 制度』の下に統治されていたの。その城の麓に武家集落を作り、半農半士という形で武士を散らばせていた。知覧もその一つ。そうやって半官半民のようにしていたのは、一揆を起こしにくくするという理由もあったんじゃないかと思うよ」と教えてくれました。
一つの城に収まりきらないほど多くの武士たちが薩摩各地に散らばり、いざ戦というときに本城である鶴丸城に集結する。
森さんによれば、武士の数は薩摩が日本一だったんじゃないかとのこと。
一国一城が当たり前の時代に、こうした統治制度を活用していたとは、さすが武士の国、薩摩です。
武家屋敷ならではの見どころがいっぱい
最初に案内いただいたのは1741年に造られた森重堅庭園。他の6つの庭は枯山水なのに対し、こちらの庭園は水が引かれた池泉式の庭園になっています。この庭園が最も山に近く、水が引きやすかったためだそう。
奇岩や怪石でできた岩山は、近くの連山に見立てているのだとか。そうやって見ていると、そのスケールの大きさに驚かされます。
これは、まだまだほんの序の口。知覧武家屋敷庭園ならではの見どころは、まだまだたくさんあります。
森さんと一緒に風情ある町並みを歩きながら、その見どころを巡っていきましょう。
体は位を表す!? 門と石垣が表すもの
さっそく「この門見てみて」と森さんが指さしたのが、こちら。
「門に肩があるでしょ。肩があるのが本家門」と森さん。
「石垣でも位を分けている。丸い玉石と四角い石があるでしょ」
四角い切り石の方が丸石の石垣よりも格式が高い家なんだそう。門と石垣の組み合わせで位がわかったといいます。
道にも武家集落らしい工夫が
散策を続けていると、「この道を見てみて。掘ってあるんですよ。なぜ掘ってあると思う?」と森さん。
これは、排水のためだそう。道を低く掘ることで、屋敷に溜まった水が道に流れていくようになっています。何とも理にかなったつくりです。
三叉路に差し掛かると、石垣の合間に巨大な石を発見。「石敢当 (せっかんとう) 」というようですが、これはいったい‥?
すると、森さんが答えを教えてくれました。「これは魔除け。悪魔や災いは来るなよって、三叉路の突き当りに置いてある。悪霊とかはまっすぐにしか行けなくて曲がれないものらしい」
石敢当は中国発祥の信仰で、江戸時代に琉球を経由して薩摩に伝わってきたものだそう。知覧にはこうした石敢当が十数個あります。
さらにてくてく歩いているうちに気がついたのが、まっすぐでない道が多いこと。
これは、万が一敵が攻め込んできた場合、敵の勢いを削ぐためなんだとか。まっすぐにしか飛ばない弓矢も角の向こうまでは届きません。武士ならではの発想です。
門をくぐった先にも垣間見える武士の魂
庭園の外から楽しめる見どころを巡ったら、いよいよ内側へ。
門をくぐったところに立ちはだかる石垣は、「屏風岩 (ひんぷん) 」と呼ばれる琉球由来のもの。
「これは屋敷の中に弓矢を射ることができないようにするため。それと、敵が屋敷に一斉に押し寄せても分散されるでしょう」と森さん。
さらに、生垣にも武士の屋敷らしい痕跡がありました。イヌマキという針葉樹でできた生垣は、風通しがいいだけでなく、防御力もあるというのです。
入口から振り返ると、門の脇には小屋があります。
これはなんと、かつてのトイレなんだとか。
「入口近くにトイレがあったのは、はじめて訪問したお客さんでも気兼ねなく使えるためと、外を通る人の気配や声をキャッチできるため。情報収集の場所でもあったわけです。
それと、『薩摩武士たる者、常に先陣に立て』こんな言葉もあります。門を出るときに用を足しておけば、他の者より先へ先へ行ける。理にかなっているでしょう」
続いて、屋敷を見ていきましょう。屋根にご注目を。
知覧の屋敷は「知覧二ツ家」という独特のもので、居住用の「オモテ」と台所のある「ナカエ」の2棟の建物を合体させた形になっています。2つの屋根の間に小棟 (こむね) を置いてつないでいるのが特徴です。
武士らしさの中に垣間見える風流
武家屋敷らしさという点では、この平山亮一庭園は見逃せません。
住まいの外側に縁側がある「ぬれ縁」。雨戸の戸袋がどこにあるか、わかりますか?
実は戸袋はないんです。その代わり、この角の部分でクルッと雨戸を方向転換できるようになっています。その名も「雨戸返し」。
「これは死角をなくすため。戸袋があると、曲者が隠れる場所をつくってしまうでしょう」と森さん。見通しをよくするために戸袋をなくしてしまうという、斬新なアイデアです。
さらに、角部分にある棒は取り外し可能。男性が留守にしている日中、家を守る女性が不審者を撃退するための武器として使われたといいます。
時代を動かした薩摩藩士たちの勇ましさを随所に感じる一方で、庭園を見渡すと趣を感じずにはいられません。
実は、これらの石は盆栽を置くためのもの。盆栽の位置を日々変えることで、和歌を詠む題材を変えて楽しんでいたのだそう。何とも風流な遊びです。
さらに、こちらの庭は後ろに見える山々を借景としているといいます。
こうした素晴らしい庭が生まれた背景には、どうやら知覧の薩摩藩士たちのルーツが関係しているようです。
「知覧に移り住んだ武士たちは、平家の末裔と言われている。資金があったからこそ、これほどのものが造れたんじゃないかと。私が小さいころは、この辺のおじいちゃん、おばあちゃんは皆、きれいな京都弁だったよ」と、森さんは振り返ります。
知覧の人々で守ってきた庭と町並み
江戸時代に造られた立派な庭と町並みが、当時の姿を残したまま見られるのは稀有なこと。そもそも、どうして残っているのでしょう?
「それはここに住んだ人たちが残していったからなんだよね。知覧の庭も町並みも、行政じゃなくて住民たちで管理している。入園料は、7つの庭園だけじゃなくて周辺の家々の手入れにも使っているから、風情ある町並みに保たれている。そして、毎日みんなが掃除をするからきれいなの。そういう取り組みを、きっとどこよりも早く始めたから今でも残っているんだよ」と森さん。
知覧の人々が武家集落の町並みを守り継いでいけたのは、外城制度で育まれた地域意識や結束力が根底にあったのかもしれません。
そんな江戸時代の面影が残る知覧の町。ぜひその町並みを歩いて、江戸を生きた薩摩藩士の暮らしを肌で感じてみてください。
<取材協力>
知覧武家屋敷庭園
http://chiran-bukeyashiki.com/
住所:鹿児島県南九州市知覧町郡13731-1
TEL:0993-58-7878
文:岩本恵美
写真:尾島可奈子