バーナード・リーチが愛した、大分県「北山田のきじ車」を求めて
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こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。
日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。
連載7回目は午年にちなんで「北山田のきじ車」を求め、大分県玖珠郡にある大野原きじ車保存会を訪ねました。
東北のこけし、九州のきじ車
「木製の郷土玩具」といえば多くの人が東北のこけしを思い浮かべることと思いますが、それと全く対照的にあり意外と知られていないのが、九州のきじ車(馬)。
きじ車とは、木で作った胴体に車輪を付けて転がせるようにした玩具のこと。こけしが東北各地にあるのと同じように、実は九州各地にも色々なきじ車があります。
全盛期は15以上の地域で作られ、その種類は1.清水系 2.北山田系 3.人吉系の3系統に分類されるそうです。北山田のきじ車は、その中でも彩色がなく馬らしい素朴な形が特徴です。
大分の山間部に息づくきじ車の里
江戸時代末期頃に、子どもの遊具として考案された北山田のきじ車。
地元の庄屋さんに子どもが生まれたお祝いに、村人の上野氏が、子供がまたがって押したり引いたりして遊ぶ車輪付きの木馬のような玩具を贈ったところ大変好まれたことから、以来この地域で子どもの玩具として作り伝えられるようになったといわれます。
戦後一時姿を消しつつありましたが、上野寛悟氏が作り続け、地元の大工であった中村利市氏により継承されました。
バーナード・リーチが大分県の小鹿田に滞在した1954年(昭和29年)、北山田のきじ車の素朴な造形美がリーチの目にも留まり、小鹿田焼とともに高く評価され、全国に知られる存在に。ところが、利市さんが亡くなった後、製作が一旦途絶えてしまいます。
そこで立ち上がったのが、高倉三蔵さん。
地元の伝統ある郷土玩具を後世に伝えるため、1990年(平成2年)、地区の有志で大野原きじ車保存会を設立し、上野さんの親族から教わりながら、昔の形そのままのきじ車製作を始め、北山田のきじ車を今に伝えています。
地域に暮らす約10名の会員で製作を続けられている保存会のみなさん。発足当時のメンバーは前会長の高倉さんのみとなった現在も変わりなく、きじ車を愛する人たちが集まります。
製作ができるのは、材料の木の特性から、秋から春の間のみなのですが、シーズンになると月に1度、昼間の仕事終わりに、きじ車製作の作業場に集まります。各自できじ車を作り、終わったらみんなで食事をしながら遅くまで地域のことなどを語り合うそうです。
私たちが訪ねたのは5月の例会の日。高倉さんをはじめ、メンバー総出で歓迎してくださいました。
ものづくりは単純なほど難しい
中村さんの元で修行した職人に技術指導してもらったというきじ車の作り方は、今も昔のまま。会員の皆さんは、農業や建築関係などの木材を扱うプロが多く、慣れた手つきで次々にきじ車を削り出していきます。
「見学にきたほとんどの人が自分で作って帰りますよ。やってみますか?」
そんなお誘いを受けて、ワイズベッカーさんと私たちも体験をさせてもらうことに。
材料は地域に自生しているコシアブラの生木を使います。柔らかいため建築資材には向きませんが、加工がしやすく、白い木肌が綺麗なのが特徴です。夏は木が水分を吸い上げ、皮が剥がれやすくなるため、製作する期間は9月〜5月に限られるそう。
「コシアブラの新芽は天ぷらにして食べると美味しいんだよ。」そんなことを教えてもらえるのも現地に足を運ぶ楽しみの一つです。
では、早速胴体づくりから。
切り出したコシアブラの部材に型紙を当て、大まかな形を鋸で、ディテールをノミと槌で、地道に削り出していきます。
仕上げに突きノミでビューっと削って表面を綺麗に整えたら胴体の完成。この“木を削るのみ”という作業のシンプルさが、きじ車の製作を奥深くしています。
そして、車輪の取り付け。
コシアブラの木を輪切りにした車輪を車軸に通し、胴体に打ちつけます。接合に金釘は一切使わず、コミ栓(木釘)を使用。最後に、保存会の印と作者のサインをして完成です。
一個を組み立てるのにかかった時間は、つきっきりで手伝ってもらって1時間半ほど。会員の中で製作数が一番多い石井さんは、年に50個ほどを作られるといいます。
北山田のきじ車はもともと土産物などではなく、地域の子どものために作られていたものなので、彩色もなくシンプルそのもの。しかし色や模様がない分、わずかなバランスの違いが目立ちます。
その中で最も重要なのが首の角度なのだそう。首の角度、頭のうつむき加減など、ちょっとした違いで良し悪しが決まります。
木地と樹皮のコントラストのみの素朴なきじ車ですが、単純なものほど奥が深い、というものづくりの本質こそがこのきじ車の価値であり、リーチが絶賛した訳だったのかもしれません。
そして、そんなものづくりを継ぐ保存会の人たちが、半年かけて製作したというのが全長10mのジャンボきじ車。
使った木材は4寸角の杉材1200本、コミ栓12000本。材料集めから全て保存会の人たちの手で作りあげた大作です。
「ジャンボきじ車の中は、当時の町民800人のメッセージが入っていてタイムカプセルになっているんです。」
ついには町のシンボルとまでなったきじ車。
地域ときじ車を愛する人々の思いが絶えず受け継がれてきたからこそ、この郷土玩具が今日まで残ってきたのだろうと、保存会の人たちとの交流の余韻に浸りながら大分をあとにしました。
さて、次回はどんな玩具に出会えるのでしょうか。
「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第7回は大分・北山田のきじ車の作り手を訪ねました。それではまた来月。
第8回「宮城・仙台張子のひつじ」に続く。
<取材協力>
大野原きじ車保存会
大分県玖珠郡玖珠町大字戸畑3466-1
電話 0973-73-7436(会長 高倉新太)
文・写真:吉岡聖貴
「芸術新潮」4月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。