ハロー、松葉ガニ & 永楽歌舞伎

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さて、永楽歌舞伎の熱気も冷めやらぬうちに、一路僕らは城崎温泉へと向かう。かなりお腹も空いてきたところで、待ってろよ! 松葉ガニというわけである。

ちなみに「松葉ガニ」というのは、「本ズワイガニ」のことで水揚げ地によって呼び分けれているというのは皆さんも聞いたことがあると思う。福井の漁港で水揚げされる「本ズワイガニ」は「越前ガニ」と呼ばれ、京都から島根あたりで揚がる「本ズワイガニ」が「松葉ガニ」。最近は呼び名をさらに細分化した蟹がたくさん生まれてきており、「松葉ガニ」の中でも津居山漁港で揚がったもは「津居山ガニ」など、漁港名をとったブランド蟹が隆盛だ。
揚がった場所の違いだけで、結局ぜんぶ一緒じゃないか! と思ったあなたにもうひと情報。確かにどこでも同じ「本ズワイガニ」なのだが、漁の方法が少し違うことも知ってほしい。ブランド蟹は、「間人(たいざ)ガニ」、「香住ガニ」など様々あるが、例えば津居山漁港から出る船は家族経営の小さな規模のものが多い。つまり、何泊も遠洋に出て漁をする船と違い、近海で獲ってきた蟹を毎日市に出すのだから、新鮮さが違うといわれている。
さてさて、出石から30分ばかり車で移動し、今日の宿である三木屋旅館に到着。ここは志賀直哉が常宿とした300年以上続く老舗旅館だが、そのあたりのうんちくはまた後日。空腹の僕らにとっては、文学よりも蟹のコースに突入したいのである。

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食事処で歌舞伎帰りの僕らを待っていたのは、じつに立派な「津居山ガニ」の刺身。蟹は茹で、焼き、しゃぶしゃぶ、鍋、雑炊などなど様々な食し方があるのだが、最初は新鮮で濃厚な刺身に限ると個人的には思っている。わさびと醤油をほんの一滴だけつけて、おもむろに口に放り込む。うむむ……、甘い。甲殻類が甘いといっても想像できないかもしれない。が、本当に新鮮な松葉ガニの刺身はとろりとした濃厚な舌触りの奥に、甘みさんが「こんにちは」をしてくれるのだ。ちょっと行儀が悪いけれど、次の脚は顔の前まで持ってきて、パクリと一口でかぶりつく。背徳感に勝る口福が体全体に響く。熱燗にした地元の酒、香住鶴の生酛辛口もするすると一緒に胃袋にはいってくる。

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続いて、僕が愉しみにしていたのが焼き蟹。なかでも、蟹味噌たっぷりの甲羅焼きが堪らない。これは写真を見ていただければ、問答無用だろう。うまくないはずがない。

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新鮮な蟹味噌に少しだけ熱を通し、うちこ、そとこと一緒にスプーンですくって、ぱくり。ウェルカム、高尿酸値とでも叫びたくなるような濃厚なとろみは、海の滋養がすべて凝縮した味。食べてるこちらも溶けてしまいそうだ。これだけで十二分に至福なのに、地元の人はさらなる背徳技を持っていた。贅沢にも焼き蟹の脚の身を甲羅焼きに投入、蟹味噌で和える。そこに先ほどから喉を潤している香住鶴の生酛辛口を少しだけ甲羅の中へ垂らすのだ。もう、これは贅沢を通り越えてカオスですね。言葉にならない感覚という意味では金関寿男先生と元永定正先生のコンビが作った伝説的な不思議絵本『カニツンツン』を彷彿とさせる。(というと逆にわかりにくいのかもしれないが、とにかく口の中が壮絶なことになりました。)

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しばらく蟹を食べ続けていると、やがてみな静かになる。大人の男たちが真剣に津居山ガニと対峙し、蟹の身をほじほじ、ほじほじ。「この茹で蟹はもっと奥まで攻略できるのではないか?」、「焼き蟹の火の加減は大丈夫か?」誰もが自身のインナーサイドに耳を傾ける。蟹を食べるということは、そんな効用があるかもしれないと思えたのは、湊かなえの短編小説『城崎へかえる』を思い出したからだ。

この物語は主人公の女性が城崎温泉でひとり蟹を食べながら、母とその地で蟹を食べ温泉に浸かった思い出を掘り起こしていくもの。刺身、焼き、茹で、鍋と多様な蟹を食べる様子を実感たっぷりに語る究極の蟹小説であると同時に、湊かなえという小説家が書き手として何を考え家族とどのように向き合っているのかを想起させる作品である。
これは、城崎の出版NPO「本と温泉」という城崎でのみ限定販売される地域出版社から発行された小説。いまさら隠すまでもないのだが、僕が企画編集をしているものだ。城崎限定発売だから、大手流通に乗せられないユニークな装丁にしようとテクスチャー印刷という手法を使用。UVを部分的に厚盛りにした凸凹デザインは、まるで蟹の地肌を想起させる。また、中の本文もコデックス装というまるで蟹の身が重なったかのような体になっており、まさに城崎らしい一冊だと自負している。

『城崎へかえる』 写真;本多康司
『城崎へかえる』 写真;本多康司

この小説の中で、まだ小さかった主人公は蟹のコースで満腹になり、ふらふらになりながら一息つくのだが、ここで母が娘にかける一言がじつに的確で印象的だ。(蟹コースは)「限界を感じてからが第二ラウンドやねん」。三木屋で蟹を食べまくる僕らも同じような満腹感の壁にぶちあたったのだが、このお母さんの言葉を思い出しながら、延々と続く蟹三昧の夜を幸せに過ごしたのだった。

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