魚沼で越後のミケランジェロ「石川雲蝶」の世界に酔いしれる
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石川雲蝶をご存知でしょうか?
江戸末期に越後で活躍した伝説の彫り師。
秀でた腕前から「越後のミケランジェロ」とも呼ばれています。
これは雲蝶終生の大作といわれる「道元禅師猛虎調伏図(どうげんぜんしもうこちょうふくのず)」。
赤城山西福寺開山堂にある天井彫刻です。
突如、立ち込めた黒雲の合間から龍が現れ、トラに襲いかかる!
そんな迫力のあるシーンが彫り込まれています。
初めて見たのは、東京にある新潟県のアンテナショップに貼られていた観光ポスターでした。
これが彫刻? いったいどうなっているの??
鮮やかな色彩と躍動感あふれる彫刻に一目惚れし、ぜひとも本物を見てみたいと会いに出かけました。
江戸の彫り物師から魚沼へ
石川雲蝶、本名「安兵衛」は、1814年に江戸・雑司が谷の飾り金具職人の家に生まれました。20歳前後で「江戸彫石川流」奥義を窮め、幕府専属の彫り物師(建築装飾の木彫り職人)として活躍。しかし、天保の改革により、贅沢な装飾は避けられるようになり、仕事を失うことに。
32歳の時、越後三条の金物商・内山又蔵と出会い、又蔵の紹介で三条にある本成寺の欄間を手がけたことをきっかけに、越後で数々の作品を手がけ、生涯を過ごしました。
今回訪ねたのは、雲蝶の作品が多く残されている新潟県魚沼市にある赤城山西福寺。あの「道元禅師猛虎調伏図」がある曹洞宗のお寺です。
雲蝶は、1852年に西福寺に招かれ、開山堂の建立に携わりました。
副住職の平澤龍彦さんに案内していただきました。
「当時の23世・蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)大和尚様が、この辺りは雪深く貧しい土地なので、地域のみなさんの心の支えになるお堂を建てたいと願い、越後で活躍していた雲蝶さんの噂を知って頼まれたようです」
大龍和尚33歳、雲蝶39歳。ふたりは歳が近いこともあり、意気投合。曹洞宗の開祖、道元禅師の世界を再現したいという大龍和尚の想いを雲蝶が形にしていきました。
いったいどこからノミを入れたのか。見れば見るほど不思議な作品
いよいよ開山堂へ。
本堂から渡り廊下を通り、仁王像がそびえる入り口を入ると、天井にあの彫刻が!
「これは、道元禅師が天童山への行脚の途中、山中で虎に襲われそうになった時、持っていた杖を投げつけると、杖が龍に姿を変え、禅師を守ったという場面が彫られています」
勢いよく流れる滝、暗雲立ち込め稲光が走り、虎をめがけて飛び出す龍。その傍らで静に座禅を組む道元禅師。
「静」と「動」が見事に表現され、ただただ見惚れてしまいます。
それにしてもこの立体感、どうなっているのでしょうか。
「透かし彫りという技法で彫られています」
いったいどこからノミを入れたのか。見れば見るほど不思議です。
鮮やかな彩色は岩絵の具を使ったもので、雲蝶独特の技術だそう。当時のままの色がきれいに残っています。
「虎と龍の目はギヤマン(ガラス玉)が使われています。当時はすごく貴重なものだったようですね」
五間四方の堂内は、天井彫刻の他にも雲蝶作品で埋め尽くされています。
雲蝶の彫り師としての技がふんだんに盛り込まれているのが欄間。
「これは、道元禅師が中国での修行から帰る前夜、『碧巖録』という禅書を写経していると、白山大権現が老人となって現れて写経を手伝ってくださるという場面を彫ったものです」
当時では珍しい遠近法を使い、奥の奥まで実に細かく彫り込まれています。
「燭台や、右手の方には布袋様、その奥には香炉もあります」
こちらは「永平寺血脈池縁起」。成仏できない幽霊を道元禅師が諭して成仏するというお話の一場面が彫られています。
「幽霊の顔が角度によっておどろおどろしく見えたり、すごく安らかな表情に思えたり。見るたびに感じ方が違うのが魅力ですね」
雲蝶はどんな人だった?自分の徳より周りのために働く人
これは左官の技法である鏝絵(こてえ)。漆喰の壁に鏝を使って施す装飾のことを呼びます。ノミだけでなく鏝まで使えるとは、雲蝶はなんて多才なのでしょう。
天井彫刻に、欄間に鏝絵。どの作品も素晴らしく、いつまでも見ていたくなり、何度も訪れる方がいるというのもよくわかります。
これだけの作品を作った雲蝶とは、いったいどんな人だったのでしょうか。
実は、雲蝶が暮らしていた住居や菩提寺が火災で全焼してしまったため、詳しいことはわかっていないそうです。
「大龍和尚様と同じように、人のために自分の仕事を役立てたい、そういう人柄を感じます。職人さんはみんな一緒かもしれんけど。自分の徳より周りのためみたいな」
1857年、約5年の歳月をかけて開山堂が完成。しかし、その翌年に大龍和尚は住職の座を退き、同市内にある正円寺に移ることに。
「貧しい村にこれだけ贅を凝らしたお堂ができたことで、心ない噂も広がったようです。自ら身を引いたのではないかと言われています」
その後も大龍和尚と雲蝶の交流は続き、正円寺にも雲蝶作の仏像が多くまつられているそう。これもまた雲蝶の人柄を表しているエピソードだと思います。
生誕200年でブレイク
雲蝶作品は西福寺のほか、魚沼をはじめ、越後の各地で見ることができます。
神社仏閣だけでなく、雲蝶が滞在した家の欄間や仏像など作品が残されており、その数1000以上とも言われています。
これだけの作品を残した雲蝶ですが、注目されるようになったのは生誕200年を迎えた2014年と、ごく最近のこと。
それまで、雲蝶を研究する人はいたものの、作品が越後から出ることはなく、雪国の人々の間でひっそりと伝わっていたようです。
現在は、「名工・石川雲蝶の作品をたっぷり堪能するバスツアー」も開催され、全国からファンが訪れるようになりました。
雲蝶をブレイクさせた立役者のひとり、雲蝶バスツアーのガイドをする中島すい子さんに雲蝶作品の魅力などお聞きしました。
中島さんはもともと、東京でバスガイドをしていましたが、結婚を機に南魚沼へ。その後、南魚沼の地域観光ガイドを務めることに。
「地域観光ガイドに転向した時、地元の埋もれた宝を磨くには何をターゲットにしたらいいかと考えて、昔から観光地だった西福寺の開山堂に行ったのが雲蝶さんとの出会いでした」
初めて、天井彫刻を見上げた時に「絶対この人を深掘りしたい」と思った中島さん。
「最初から感動した訳ではないんです。どちらかと言えば、これはどうやって彫ったのかとか、重ねたのか削ったのか、この奇抜な色は何なんだと、疑問ばかりで頭の中がいっぱいになりました。
不思議でしょうがなかったんです。感動はいろんなことが理解できてからじわじわとやってきました(笑)」
実際、どのように彫られたのか、技術的なことは今もわかっていません。
「開山堂の天井彫刻は、当時の雲蝶さんの持つ技術の粋を施した作品だと思いますが、細かいことは解体しないとわかりません。修繕する時に限られてしまうので、難しいですね」
作品作りだけでなく、大工仕事もプロの腕前を持っていたという雲蝶。
「江戸時代、堂塔大工(現在の宮大工)という役職がありましたが、雲蝶さんは堂塔大工と同じくらいの腕があり、お堂などの設計から施工までこなしていました」
2004年に発生した新潟県中越地震は、北魚沼地域を震源としたものでしたが、雲蝶の建てたお寺などは被害が少なかったと言います。
「作品も完成から160年経った今も、ひび割れたり折れてしまったというものはありません。木地師のように材を見極める知識もあったようですね」
大工としても確かな腕を持った雲蝶。開山堂の天井彫刻が修繕されるのはまだまだ先のことになりそうです。
お酒好き、バクチ好き、女好き
中島さんがガイドを務める、雲蝶作品のバスツアーも今年で6年目。中には、毎年楽しみにしているリピーターも多いとのこと。
中島さん自身が雲蝶作品の残されている地域をまわり、集落のおじいちゃん、おばあちゃんから家に伝わる雲蝶さんの話などを聞いているそうです。
伝わっているのは「お酒好き、バクチ好き、女好き」のエピソード。なかなか豪快な人だったようです。
「雲蝶作品の魅力は、やはりその技術力にありますが、それ以上に作品に隠された遊び心です。観るたびに新しい発見があり、謎に包まれた雲蝶の人生と同様に、その作品の謎解きをしているとその費やす時間が楽しくて仕方ありません」
中島さんは今でも見るたびに発見があると言います。
「代表作のひとつ、永林寺(魚沼市根小屋)の“天女の欄間”には刻印がありません。他の代表作には刻印があるので、どこかにあるはずとずっと探していたのですが、一昨年の春、ついに発見したんです。天女の中にあるのですが、これはぜひ実際に見て探してほしいと思います」
天女の中に隠れし刻印。女好きと言われる雲蝶さんならではの場所なのでしょうか。想像するだけでワクワクします。
「雲蝶さんは腕のいい彫り物師でしたが、特別な人ではなく、村の人たちと同じ環境の中で生きていた人だと思います。
雲蝶さんの作品は美術館のように一ヵ所にまとめられていないので、越後に足を運んでいただかないと観る事ができません。でも一度、観ていただくと、予想をはるかに超える感動を味わう事ができます。
何世紀に一人現れるかどうかわからないと言われるほどの彫り師が、山間の越後に残した作品は、他県に流出することなく、越後人の謙虚な人柄にひっそりと守られてきました。雲蝶が人生の後半40年の間に残した作品は、きっと観る人の心を鷲掴みにすると確信しています」
設計から施工まで、雲蝶の技と心意気が詰まった神社
最後に、中島さんおすすめの作品を見に、長岡市栃堀にある「貴渡神社(たかのりじんじゃ)」に出かけました。
貴渡神社は、設計から施工まで全て雲蝶が携わったもので、丸ごと雲蝶作品です。
見どころは、一連のストーリーで構成されている脇障子(わきしょうじ)。
ストーリー性があるのもまた雲蝶作品の特徴です。
この地域は縞紬(つむぎじま)発祥の地で、紬縞をこの地に根付かせた植村角左衛門貴渡翁を祖として奉ったのが貴渡神社です。
脇障子(わきしょうじ)や長押(なげし)には、桑の葉を運ぶ、繭棚に繭を運ぶ、繭を煮る、糸を紡ぐ、機を織る場面など、蚕から布になっていく様子が詳細に彫られています。
小さな神社ですが、作品の素晴らしさだけでなく、雲蝶の心意気が感じられ、雲蝶の世界を堪能できました。
見れば見るほど興味深く、人柄を知るほどにますます他の作品を見たくなる石川雲蝶。
まだ見ぬ多くの作品に思いを馳せる旅となりました。
<取材協力>
赤城山西福寺
新潟県魚沼市大浦174番地
025-792-3032
中島すい子
名工・石川雲蝶の作品をたっぷり堪能するバスツアー
文・写真 : 坂田未希子