「一杯のコーヒーができること」を考え抜いた喫茶店──京都・市川屋珈琲が伝える工芸の魅力
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かつて清水焼の工房が軒を連ね、陶芸家・河井寛次郎も暮らした五条坂界隈。
三十三間堂や清水寺、高台寺などの名だたる観光名所に囲まれながら、街角には小さな和菓子屋さんや銭湯、お豆腐屋さんが残り、昔と変わらぬ人々の普段の暮らしが息づいている。
そんな閑静な一角で、2015年に暖簾を掲げたのが「市川屋珈琲」だ。
清水焼の家系に生まれた、コーヒー好きの青年。
店主の市川陽介さんは、お祖父さんとお父さんが清水焼の職人という家系に生まれ、幼いころから工芸の世界に慣れ親しんで育った。しかし、自身が志したのは陶芸家ではなくコーヒーの世界だった。
「元々コーヒーが好きで、学生の頃から趣味で焙煎をしていました。自分で焙煎したコーヒーをいろんな人に飲んでもらって、“美味しいやん”なんて言ってもらえるのがうれしくて」
本格的にコーヒーの道へ進むことを考えた市川さんは、「どうせやるなら歴史のあるコーヒー店で」と、京都屈指の老舗「イノダコーヒ」の門を叩いた。
そこで18年間、コーヒーについて多くのことを学んだ市川さん。ただ、いつかは店を持ちたいと思ってはいたものの、この場所でコーヒー店を開くことは一切考えていなかったという。
取り壊し寸前だった、清水焼の工房。
店の建物は、市川さんのお祖父さんが清水焼の工房として使っていたもので、8年ほど前までは市川さんが実際に暮らしていた。しかし中心地にある町家よりも大型で管理が難しく、このまま残すか、取り壊すかをずっと迷っていたそう。
「売ろうと思っても、売れるような物件じゃない。3人兄弟のうち私以外は、建物を壊すことで合意していました」
とあるきっかけは、雨漏りの修理を大工さんに依頼した時のこと。建物の痛みがひどく、屋根だけの修理は不可能だと言われた。それならすべて改装し、かねてからやろうと思っていた喫茶店をここで開こうと市川さんは決心する。
開店への道は険しく、改装費は新築の物件を建てる時の約4倍もかかった。それでも、この場所を残したいという想いが勝っていた。
改装は、町家建築のエキスパート集団「京町家作事組」が担当。市川さんが思い描く喫茶店の形を忠実に再現してくれたという。
構想から丸2年、工事期間1年の歳月を経て、清水焼の工房は見事に生まれ変わった。
「街中ではないので、雰囲気が見える店にしたいと思って。道行く人がちらっと中を見た時に、カウンターがあって、コーヒーを淹れている人間がいて、コーヒーを飲んでいる人の向こうに緑が見える、そんな風景が一瞬で視界に飛び込んでくるような空間を作りたかったんです」
坂を下る途中、「市」の字を表すモダンな看板が目に留まり、窓をのぞけばそこがコーヒー店であると気づく。そうやって一人、また一人とお客さんが訪れるようになった。
席は道の往来を眺められる窓際、巨大な焙煎機が置かれた天井の高い土間、店内を見渡せる テーブル、そしてコーヒーを淹れる所作に釘付けになるカウンターと、それぞれに趣があり、訪れる度に新しい風景に出合うことができる。
「どこに座っても楽しめるように」という市川さんの想いが店の隅々にまで行き届いている。
一杯のコーヒーが、工芸への入り口に。
コーヒーに使用するのは、市川さんのお父さんとお兄さんが手掛けた清水焼の器だ。
定番の「市川屋ブレンド」と「青磁ブレンド」はお兄さん、深煎りの「馬町ブレンド」はお父さんの作品で提供する。
職人としてのこだわりに加え、市川さんの想いも反映させたオリジナルだ。
市川屋ブレンドの器は飲みやすさや持ちやすさ、冷めにくさを追求。飲み口を薄めに仕上げ、器の下部は分厚くして熱が逃げないよう工夫されている。
青磁ブレンドの器は香りを楽しんでもらうために口を広めに仕上げており、馬町ブレンドの器は、深煎りの量に適した少し小ぶりなカップを用いている。
京焼・清水焼は経済産業大臣指定の伝統工芸品だ。ルーツは江戸時代までさかのぼり、野々村仁清、尾形乾山、尾形光琳など、日本史に名を刻む天才芸術家たちによって脈々と受け継がれてきた。
そんな長い歴史を秘めた工芸品片手に、女子大生が楽しそうにおしゃべりしている。
「うちは工芸に関して、比較的間口が広いと思います。コーヒーを飲む時にきれいな器だな、と思ってもらえたら、それが清水焼に興味を持つ最初のきっかけになりますから」
世代を問わず、日常的に営む「喫茶」という行為を通じて、誰もがごく自然に工芸に触れることができる。
そこで手に馴染む感覚を覚え、美しい色合いに心を奪われる。それが工芸の世界へ足を踏み入れる最初の一歩となるかもしれない。
市川屋ブレンドで使用する器は、品の良いツヤや佇まいが高級感を生み出しながらも、淡い青磁の色合いがどこかモダンな印象を与えている。軽過ぎず、重過ぎず、手に持った時の馴染みの良さが、いかに日常のための器であるかということを実感させてくれるだろう。
コーヒーカップなら、日常にすぐに取り入れられ、明日からでも使うことができる。日常に清水焼のある風景を想像しながら、まずはコーヒーを堪能したい。
工芸はもちろん、コーヒーへの入り口に。
コーヒーは、一杯ずつネルドリップで時間をかけて淹れる。「イノダコーヒ」で長く学んできた市川さんの真骨頂だ。
抽出に時間を要するネルドリップは、一杯一杯の提供が根気のいる作業となる。それでも今の方法にこだわるのは、「喫茶店として、長くゆっくり過ごしてもらうにはネルドリップが一番」という想いがあるから。
ペーパーに比べ、とろんとした甘さが特徴で、時間が経ってもあまり味が変わらない。
本を読んだり、友人とのおしゃべりに夢中になっても、ひと口目の感動を最後まで味わうことができる。
また、豆はすべて自家焙煎。季節や毎日の気候によって少しずつ焙煎や抽出法を変え、常に理想の味を提供できるよう日々神経を研ぎ澄ます。
そしてメニューに並ぶのは、バランスの取れた3種類のブレンドのみだ。
最近のコーヒーの傾向と言えば、シングルオリジンで産地の特徴を楽しむのが主流になっているといえるだろう。
しかし、普段コーヒーに馴染みのない人が「ブラジル」や「グァテマラ」といった産地だけでコーヒーを選ぶのはかなり難易度が高い。
一方ここで選ぶのは、甘み、酸味、苦味のみ。これなら初心者でも選びやすく、どんなコーヒーなのか想像もしやすいだろう。そして口に含んだ瞬間、想像もしていなかったような角のない口当たりに誰もが驚かずにはいられない。
普段コーヒーに親しんでいる人にさえ、新たなコーヒーの世界への扉が開かれていくようだ。
「うちは比較的やわらかいコーヒーを楽しみたいというお客さんに向いています」と市川さん。深煎りの馬町ブレンドも、一般的な深煎りコーヒーよりあっさりとした印象を持つ人も多いはず。
実際、普段はミルクと砂糖を必ず入れるという年配客も、「ここのコーヒーはミルクなしでも飲める」と最後までブラックで楽しんでいるそう。
ここは工芸とコーヒー、どちらの入門編にもピッタリの場所なのだ。
「飽きさせない」という、喫茶店としての役割。
「しっかりとした店構えはお客さんを和ませ、飽きさせない」ということをイノダコーヒで学んだという市川さん。
ピカピカに磨かれた民芸調の家具、季節ごとにしつらえを変える床の間など、店内は隅々にまで美意識が行き届き、懐かしい雰囲気の中で特別な時間を過ごすことができる。
「最終的に、お客さんが気持ちよく帰ってもらうにはどうすればいいかをいつも考えてやっています」
店の雰囲気、器、コーヒー。すべてが合わさってひとつの「味」になる。そして店を出るころには、何とも言えない充実感がこみ上げてくる。
そこには五感に訴えかける心地よさがあり、この店が「また来たい」と思わせる魅力に溢れているからだろう。
何度でも足を運びたくなる理由が、この店にはたくさんある。
コーヒーだからできる、工芸の魅力発信。
清水焼の職人としての祖父と父、そして兄を持ちながら、コーヒーの道へすすんだ市川さん。しかし今、受け継がれた伝統の魅力を誰よりも伝えたいという想いがある。
「ここでは清水焼の器をまず手に取っていただき、それが使用される時の美しさ、心地よさを体験してもらえたら」
直接伝統を受け継がなくても、伝統を守ることができる。未来へ受け継ぐことができる。そんなことを、一人のコーヒー店主に教えてもらった。
<取材協力>
市川屋珈琲
京都市東山区渋谷通東大路西入ル鐘鋳町396-2
075-748-1354
文:佐藤桂子
写真:桂秀也