漆は甘い、のか
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漆は、樹液である。
当たり前のことをと思われるかもしれないが、普段、私たちが目にしたり、手にすることができるのは、すでに漆器という工芸品になったもの。そのものの美しさに魅せられて、漆=原料であることは頭の中からすっぽりと抜け落ちていることが多く、もしかしたら、漆が樹液であることを知らない人だっているかもしれない。
日本において漆とはウルシ科ウルシ属の落葉高木「漆の木」から採れる樹液である。このことに改めて思い至ったのは、とある記事で目にした塗師の言葉。
「漆って、甘いんですよ」
もちろん、漆は食べるものではない。それは分かっている。でも…。漆って本当に甘いのだろうか。漆には香りもあるの? あれ、そもそも漆って何だっけ? そんな単純な思考回路がクルクルと回り出した。
実際、漆ってどういうもので、いかに採取し、いかなる工程で漆器になっていくのだろう。
国産漆の生産量、日本一の二戸市浄法寺へ
向かったのは、岩手県二戸市浄法寺町。浄法寺塗という漆器づくりで名を馳せる漆の里だ。
浄法寺塗が始まったのは平安時代のこと。古刹「天台寺」の僧侶たちが、日々の食事のためにつくったのが最初と言われているが、縄文時代の遺跡から漆を塗った出土品が見つかっているというから、漆との関わりは相当に古いらしい。
そして浄法寺町は、日本で最も国産漆の生産量を誇る地でもある。
国内に流通する漆は何と97〜98%が輸入物。残りの2〜3%が国産であるけれど、そのうちのおよそ7割が浄法寺で生産されている。
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生産量の多さはもちろん品質にも定評があり、平泉の中尊寺金色堂をはじめ京都の鹿苑寺金閣、栃木の日光東照宮といった国宝や重要文化財の修復にも使用されているほどだ。
今回、訪れたのは町の中心部から車で15分ほどの山中にある、およそ2ヘクタールの漆林。
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迎えてくれたのは若き女性の漆掻き職人の長島まどかさん。

9月初旬。林の中には熊よけのラジオと蝉の声。そしてカリカリと樹を削る音だけが響いていた。
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樹を仕立てながら、漆をいただく
簡単に、漆掻きの手順を説明しよう。
まず「カマ」と呼ばれる道具を使い、でこぼことしたと樹幹の表皮を薄くはいで平らにし、
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「カンナ」で横一線に細い傷をつけて、樹液を出やすくするために「メサシ」で切り込みを入れたり、入れなかったり。
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そして出てきた漆を「ヘラ」で掻き取り、「タカッポ」と呼ばれる漆樽に入れる。

一連の流れを言葉で追うと、とてもシンプルなように思えるかもしれないが、ことはそう単純ではないらしい。
「カンナで入れる傷のことを『辺』といいますが、前回入れた辺よりも少しだけ長い傷を入れます」

掻き跡を見ると確かに三角形だ。短い辺から始まり、少しずつ長くしているのが分かる。でも最初から長い辺を入れれば、もっと多くの漆が採れるのでは?
「辺を入れるということは、樹にとってはやっぱりストレス。いきなり長い傷をつけちゃうと樹へのダメージが大きくて漆が出なくなったり、最悪の場合は枯れてしまう。少しずつ辺を長くすることで樹に慣れてもらうというか。樹を仕立てながら作業することが大切なんです」
同地の漆掻きは6月〜10月に行われるが、シーズン最初に入れるのは2㎝ほどの辺。これは“目立て”と呼ばれ、「これから漆を採ります」という樹へのメッセージであり、「よろしくお願いします」の挨拶なのだとか。
辺の深さも重要だ。
「表皮を削った内樹皮のあたりに樹液の流れる樹液道がありますが、ちょうどそこにあたるような深さに削ります。深すぎれば幹の中まで傷つけることになり、浅すぎれば漆は出てくれません」
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長島さんが掻いた辺からは樹液がじわじわと滲み出てくる。これが生の漆か。艶やかできれいな乳白色。少し粘り気のあるような質感だった。
大切なのは、樹を見ること
漆掻き職人になって今年で3シーズン目に突入した長島さん。今でこそベテランに劣らぬ量の漆を採取する腕前だが、最初から漆が採れたのかというと、答えはノーだ。
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長島さんはかつて熊野の化粧筆職人だった。テレビで文化財修復に使う国産漆が足りないというニュースを見て、「漆を掻く職人になるのも面白そう」と二戸にやってきた。
熟練の漆掻き職人に付いて回り、漆掻きを学んだ。ひと通りの技術を覚えて漆を掻いた。でも、何かが違う。方法も手順も同じ。師匠と同じやり方をしているはずなのに思うように漆が出ないのだ。師匠を見て、また同じように掻いてみた。何度も、何度も。そしてあるとき師匠の目線が常に一点を見つめていることに気がついた。
そうか、樹を見ればいいんだ。

「頭だけで考えてもしようがないというか、漆掻きは“こういうもの”という理論を樹に押しつけてもだめなんだなと。人間の理屈は樹に通用しない。あくまでも樹がメインですから。それが分かってからは樹と相談しながらやっています。もちろん分からないことは師匠に聞きますけど、結局は自分と木との問題なんで。
山に入ったときにはまず、この子(樹)はどういう子なんだろうって考えます。辺を入れて、すぐに漆を出す樹もあれば、出る速度は遅いけれどたっぷりと漆を採らせてくれる樹、パッと出てパッと終わる樹もある。掻くうちに、1本1本の個性が分かるようになって、それぞれの子に合わせた掻き方をしてあげようと心がけるようになりました」
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雨の日は掻かない。傷口から雨水が入ると樹が弱ってしまうから。晴れている日でも樹の調子が悪そうなとき(=漆があまり出ない状態)はそっとしておく。調子が良い場合でも、こちらが調子にのって掻き過ぎれば不機嫌になってしまうこともある。
「意外と難しいんです、この子たち(笑)」
採取をはじめて8時間経った本日の収穫量は500g〜600g。

「1日1㎏採れればいいところ。今日はまあ、ぼちぼちですね」
“殺し掻き”で、漆林を守り続ける
ちなみに浄法寺地区では、漆掻き職人は漆林の所有者から樹を買い、漆を掻き、最後には伐採して、持ち主に返すというルールになっている。
漆掻きには、伐採せずに同じ幹から繰り返し掻く“養生掻き”と、伐採して新しく出てきた芽を育てて掻く“殺し掻き”がある。前者は漆蝋(漆の実でつくる和ろうそく)づくりも鑑みたやり方で、江戸時代までは同地でもこちらの方法で採られていたが、明治期に入って漆を採ることだけにシフトチェンジ。今でも後者の方法が継承されている。
掻き終わった樹を伐採すると翌年春には新しい芽がたくさん顔を出し、それをまた所有者が大事に育てていく。再び、漆が採れるようになるまでには約15年かかるという。
浄法寺町が日本一の国産漆の生産量を誇るのは、もともと豊かな資源に恵まれていることはもちろん、こうして大事に漆林を守り続けているからなのだ。
「漆を見れば、誰が採ったのかが分かるんです」
浄法寺地区では季節ごとに採れる漆を区別し、管理している。
「同じ樹でも、採る時期によって漆の性質はまったく違いますから」
そう話してくれたのは、岩手県二戸市 浄法寺総合支所 漆産業課の立花幸博さん。
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「6月の採り始めから7月中旬くらいを『初辺(初漆)』、8月いっぱいくらいを『盛辺(盛漆)』、そこから終わりまでを『末辺(末漆)』と呼び、漆掻き職人のみならず、漆器に漆を塗る塗師もこれを厳密に区別して使用します。
初辺は乾きが良いとされていますし、盛漆は品質的にも良く、透明感があってツヤが出ますから、漆器の最終仕上げに使用する上塗りに最適とされるなど、時期によって漆の粘度や硬化する速度などが違うんです」
また興味深いのは、掻く職人によっても漆の性質が異なることだ。
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「乾きの早い漆を採る人もいるし、乾きは遅いんだけれども、透明度の高い漆を採るような職人さんもいらっしゃいます。掻き方によってその性質が違うんです。
なぜかと問われると、はっきり言って分かりません。もちろん傷の深さやヘラの使い方といった微妙な違いはあるでしょうけれど、技術がどれだけ漆に影響しているのかは、科学的に証明されていないんです。でも確かにそこには違いがある」
熟練の塗師に聞けば、漆を見て使ってみれば、誰が採ったのかが分かるとか。いやはや、奥深き漆の世界。
果たして、漆は甘いのか。
さて懸案の件。漆は本当に甘いのだろうか。
長島さんに聞いてみると「初辺と末辺じゃあ、香りは確かに違いますね。初辺は青々しいイメージがあるけれど、盛辺から末辺にかけては甘い香りが強くなるような。
味は…食べたことはないですけど(笑)、掻いていたら顔にはねたことがあって、それを嘗めたら、ちょっとだけ甘かったような」
なるほど。採れる時期によって漆の質が変わるように香りや味も変わるのか…。改めて漆は植物であることを実感しながら、意を決する。嘗めてみよう。
ご存知のように漆はかぶれる。ウルシオールという成分が含まれているためだ。
立花さんからは「唇についたら大変なので、舌の上にのせるようにしてください」との声がかかる。唇に少しでも触れようものなら、かぶれて腫れ上がる人もいるらしい。
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掻いたばかりの辺から乳白色の漆がじわり。確かにほのかな甘さを連想させる香りがあった。指にとって嘗めてみた。
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果たして──。
正直、甘くはなかった。強いて言うなら木やナッツを噛んだときのこうばしさを感じ、蜂蜜を連想させる風味が広がった。うん、まずくはない。
その後、舌はピリピリと痺れて一部が焼けて黒っぽくなったけど、数時間後には元通り。幸いそれ以外に症状はなく終了。あくまでも自己責任ゆえ、あしからず。
生の漆はどこへ行くのか
さて、次なる疑問が一つ。生の漆はどのようにして漆器になるのか。立花さんに相談すると
「それなら『滴生舎』にご案内しましょう」
「滴生舎」とは浄法寺漆芸の殿堂と言われる工房だ。実際に、漆塗りの現場を見せてもらうことにした。その模様は次回のお楽しみ。
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<取材協力>
岩手県二戸市浄法寺総合支所 漆産業課
http://urushi-joboji.com
文:葛山あかね
写真:廣田達也