京都の庭師が伝える「日本の庭」の見方・読み方・歩き方
エリア
松や紅葉につつまれてそぞろ歩く広い庭園。整えられた砂紋に背筋の伸びる枯山水の庭。露地の奥にふわりと開けるひそやかな坪庭。
くわしい知識がなくとも、心のままに楽しむことのできる日本庭園ですが、「これを知っていればもっとわかる」という、読み解きのコツがあります。
「どんなさりげない部分も、じつは『あえてそうしてある』のが日本庭園です。では、なぜそうしたのか?そこを少し考えるだけで、ぐっと解像度があがります」
創業170年、京都・南禅寺の御用庭師 植彌 (うえや) 加藤造園株式会社 知財管理部の山田咲さんに、庭をもっと楽しむための見方、読み方、歩き方、〈きほんのき〉を教えていただきました。
「ここではないどこか」へのあこがれを表現している
「目の前の素材を使って、目の前にないものを表現しようと、人は庭をつくってきました」
目の前にないもの?どういうことでしょうか。
「日本の庭の歴史は古く、飛鳥時代までさかのぼります。ただ、その頃の庭は、まだ大陸の文化の模倣的な要素が多く見られるものでした」
平安時代になって、貴族の邸宅や別荘を舞台に、国風の優美な庭園文化が花開きます。水を引き入れ、池をつくり、島を配した、浄土式庭園や池泉廻遊式庭園です。
「こうした庭は、浄土や未知の世界、すなわち海の向こうや彼岸を表現しようとしたものでした。
また、時代が下ると文学を再現する庭もつくられるようになりました。現実にはないあこがれの場所を、そこに現そうとしていたのです」
その後、禅の庭として枯山水が、茶道の隆盛のなかで茶庭 (露地庭) が、また江戸時代には大名庭園が生まれていきますが、いずれも目の前の素材を使いながら「ここにない景色」を希求する心でつくられていると、山田さんは読み解きます。
「例えば枯山水には禅の思想が、大名庭園には教養世界や故郷の景色が、貴族の庭には和歌や文学というように、いわば庭には『庭ではない参照元』があったのです」
明治以降の近現代もそうなのでしょうか。
「明治時代、日本の庭は大きく変わります。
同じく目の前の素材を使いながら、いきいきとした、自然らしい自然が求められていきました。
参照元自体が『自然』になったと言えるでしょう。グリーンに癒やしを求める現代の私たちの感覚に近いと言えるかと思います」
大転換ですね。こんどは現実を表現するように変化したのでしょうか。
「そうかもしれませんし、近代化して、都市化・機械化がさらに進んだことで、もはや自然が『もうここにないもの』になっていたのかもしれません」
いつの時代も、手の届かない「彼岸」にあこがれる気持ちが、日本庭園をつくってきていた。そう思って見る庭は、すでに少し違う顔を見せてくれていました。
まずは石と築山を見る
庭園を訪れて、まず見るべきはどこだと思いますか。松の古木?白砂の砂紋?春なら桜、秋なら紅葉の彩り?
「樹木も草花も、植物は庭の重要な構成要素ではありますが、枯れたり成長したり、庭の時間から見ると、変化のスピードが大変早いものです」
たしかに。では、どこを見るとよいのでしょう。
「まずは、石と築山 (つきやま) を見ると、庭の構造がわかりやすいです」
石と築山?どれですか。
「庭のスタイルにもよりますが、庭の景色をながめていただくと、景色を構成する『景石』と言われる石が配されていることが多いんですよ」
言われてみれば、あります、あります。中央の平たい大きな石や、ほかにも。石に注目すると、視界にどんどん入ってきます。
「その石の奥に築山があるのがわかりますか?
築山は、日本庭園の人工的な山のこと。土砂や石を小高く盛り上げて、大小の山をつくったものです」
なるほど、言われてみればたしかに。よく見るとかなりの高低差があるのがわかります。
「地形に起伏を与え、高低差をつけることで、奥行きが感じられます。ああして盛り上げることで奥行き感をコントロールして、空間の中での石や樹木の配置に意味を持たせているんです。
また石の近くの刈り込みも、高さを調節してあります。そうして石を引き立てているんです」
横や手前で丸く刈り込んだ灌木は、まるで石に向かってお辞儀をしているよう。そうと知って見ると、ご主人の石にしたがう従者のようにも思えてきました。
庭は気づかれないほど自然な「人為」
次は、庭の外にあたる「遠景」に目を向けてみましょう。
「奥に山が見えますね。あの山を借景として、この庭は成立しています。ですが、山があるだけでは借景にはなりません」
どういうことでしょうか。借景にふさわしい山とそうでない山があるのでしょうか。
「いいえ、そうではありません。借景としてどう取り入れるか、庭園側に工夫が必要なのです」
山を「遠景」、庭の手前を「近景」として、間をつなぐ「中景」が大事になるというのです。たとえば建物の屋根を中景に利用したり、高さのある樹木で木立をつくったりという工夫がされています。
「それによって山と庭が呼応し、ひとつの風景として完成します。また、自然らしくなるよう、樹木の枝ぶりも人の手で整えています」
ごく自然な雰囲気で見えている目の前の風景。「なんとなく感じる心地よさ」「自然らしさ」に、そんな秘密があったとは、思いもよりませんでした。
「庭は人為です。すべて人が意図して、あえてそうしています。そう思って見ていただくと、新しい発見があるかもしれません」
ナチュラルに見せるための熟練のわざ。気づかれないほど自然な「自然らしさ」を表現している庭の秘密を、もっと知りたくなってきました。
いま歩いている園路はうたがった方がいい
そこへ山田さんから意外なアドバイスが飛び出します。
「ただ、普段歩いている園路はうたがって見ると面白いです」
園路をうたがう?
「はい。造営当初に意図された入り口ではないところ、たとえば裏口や勝手口から入っている可能性も高いです」
というのも、一般公開されている名勝庭園の多くは、来訪者がスムーズに巡回できるよう、見学用の園路が設けられています。もともと庭が作られたときとは、用途や人の動きが変わっていることが多いのです。
勝手口や裏口から入る動線になっている場合、庭の「顔」とも言える正面向きではなく、斜め後ろや横から入っていくことになります。では、庭を「ベストな向き」から見るには、どうすればいいのでしょうか。
身体で味わう
「庭には『ここから見るといい』という場所があります。コツさえ知れば、あとは庭が教えてくれますよ」
まずは建物との位置関係に注目です。庭は建物とセットでつくられているもの。部屋から見たらどうなるかを想像してみます。
とくに、昔は正座が基本。床に座ると、立っているのとは目線の高さが変わります。多くの庭は、お堂や座敷の上座 (位の高い人が座る席) から最も良く見えるようにつくられているそうです。座位 (座った状態) からのながめに注目してみましょう。
次は、園路によく設けられている「視点場 (してんば) 」です。
庭を歩いていると、ふと足が止まる。つい立ち止まりたくなる場所があったら、それが視点場かもしれません。
視点場には立ち止まりやすい石が敷かれていることも多いそう。
「踏分石 (ふみわけいし) といって、道の分岐点であることも多く、その石は、他より大きかったり、平らだったり、形が整っていたり、素材や色が違ったり、何らか『ここだよ』というサインを出しているのが目印です」
そういう場所からの景色は、ひとあじ違います。
風景画のようだったり、歌舞伎で役者が見栄をきった瞬間のようだったり、なんとはなしに「決まってる」という印象を受けるはず。景色が注意深く庭師によって構成されているのです。
そうした視点場は、頭で考えたり目で見つけようとするより、「身体で探してみるといい」というのが山田さんのアドバイスです。
「庭づくりは、じつは身体感覚を重視しています。身体にどういう記憶を残させるか。
『経験としての庭』を考えてつくります。とくに近現代の庭はそうですね。見るときも、ぜひ身体で味わってみてください」
歩きまわったり、向きを変えたり、立ったり座ったり。いろんな角度から見え方を比べてみたら、庭が見せる表情も、きっと変わるはず。お気に入りの「見方」を探してみてください。
成長する庭
庭には、人為が尽くされている。ですが、日本庭園を根底で支えるのは、人智を超えた「自然」へのリスペクトです。
「植物も生きものですから、セオリーどおりにはなりません。ならなくて当たり前です。庭師は、それを前提として、庭を構成しています」
苔庭にしたいのに苔が定着しない庭もあれば、逆に芝生にしたいのにどうしても苔むす庭もあります。日当たりや土壌や降雨や湿度など、さまざまな条件が影響します。
「環境や条件をふまえたうえで、どう手入れをし、よりよくしていくか。30年後、50年後も見据えつつ庭を育んでいくのが庭師の腕です」
歳月を重ねることで、味わいが増していくのですね。
「そうです。日本庭園の場合、経年変化は庭の価値を増すのです」
歳月に育てられて、よりよくなる。すてきな考え方です。まるで人間のことを言っているようでもあります。
「もっとも、放置しておいては荒れるばかりです。できたばかりの庭は、生まれたての子どものようなもの。きちんと育てていく日々の営みあっての成長なんですね」
施主 (持ち主、オーナー) の意図。守り育ててきた庭師たちの技術と心意気。日本庭園には、営みの歴史とたくさんの人の思いが、幾層ものレイヤーとなって折り重なって息づいているのでした。
<取材協力>
植彌加藤造園株式会社 (Ueyakato Landscape)
https://ueyakato.jp/
文:福田容子
写真:山下桂子