知る人ぞ知るプロ用はさみ。全国の美容師が指名買いする「菊井鋏製作所」異色の“京大卒”三代目が目指すはアメリカ進出
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知る人ぞ知る、理美容はさみ専門メーカー・菊井鋏製作所
ツイッターのフォロワーが数万人いる人、有名番組に取り上げられた人、都内の超人気美容室のあの人‥‥。名前を挙げれば少なくない人たちが「あ、聞いたことある」と答えるだろう著名な美容師たちが使用しているハサミを作る工房が、和歌山にある。
1953年創業の、菊井鋏製作所。和歌山市内に構える工房で、理美容師が使うプロ用ハサミを専門に作っている。
ニッチに思えるけれど、全国の理美容室の数は1989年からずっと増え続けていて、2017年には36万8543軒に達した。理美容師の数は、74万4640人。全員が少なくとも1本、多い人は数本のハサミを持っていることを考えると、それほど小さなマーケットではない。
菊井鋏製作所では、一本数万円するハサミを年間5000本生産している。毎年それだけのニーズがあるのだ。
2016年から菊井鋏製作所を率いるのが、菊井健一さん。祖父、父親と続いた家業を継いだ三代目は、なんと京都大学工学部出身だ。ほかの仕事に就こうと思えば、引く手あまただったはず。迷いはなかったのだろうか?
「京都ってちょっと歩くと革小物のお店とか竹細工のお店とか、たくさんあるじゃないですか。和歌山では、小さな工房でモノづくりをして、店先で商品を売って、それで飯を食えるという感覚がなかったので、京都に来て、ものづくりって面白いな、ものを作る仕事がしたいなと思ったんですよね」
京都大学1年生の冬、実家に帰省した時に父親に「家を継ごうと思うんやけれども」と伝えた。もともと、ものづくりと家業に親しみを持っていたのだろう。
大学卒業後の2010年、菊井鋏製作所に入社。最初は職人たちから製造工程を教わるところから始まった。
世界で初めて開発したハサミ
菊井鋏の最大の強みは、1973年にリリースしたコバルト基合金製のハサミ。健一さんの祖父で、研究熱心だった初代の菊井喜代次さんが、世界で初めて開発したものだ。
それまで、理美容師のハサミはステンレス製しかなかった。しかし、理美容院ではパーマ液や薬剤を頻繁に使うので、ステンレスだと錆びやすい。しかも、ハサミはメンテナンスが難しく、錆びたからといって自分で研いだりすると、使い物にならなくなる。
「ハサミって、切れ味のいい刃が2枚あればいいというものじゃないんです。刃を『拝ませる』というんですけど、2枚の刃が微妙に湾曲しているんですね。
包丁と同じように研いだら、この湾曲がどんどん狂っていってしまって、ますます切れなくなるので、湾曲を維持しながら研がなきゃいけません」
ハサミを研ぐのは素人には難しいので、切れ味が落ちたら専門業者にメンテナンスに出す。それが手になじんだ一番のお気に入りだったら、美容師にとっても痛手だし、不安だろう。
そこに目を付けたのが、菊井喜代次さん。もともとドリルなどの工具に使われていたコバルト基合金なら、性質上、絶対に錆びないし、切れ味も長続きする。これを使って理美容師用のハサミを作ろうと、開発を進めたそうだ。
しかし、ステンレスに比べてコバルト基合金は粘りがあるため削りづらく、加工時に折れやすい。かなりの試行錯誤を重ねてようやく完成したのが、「コバルトシリーズ」だった。
自分が美容師だとして、錆びるハサミと錆びないハサミ、どちらを使うかと問われたら、錆びないほうを選ぶ。同じように考える美容師が多かったのだろう。「コバルトシリーズ」はロングセラーになり、発売から46年経った今でも多くの美容師に選ばれている。
昔ながらの商習慣
健一さんは、ハサミの製造過程を学びながら、扱うのが難しいコバルト製をはじめ、月に何百本ものハサミを作りあげる職人の技術や、完成度の高さに頼もしさを感じた。
象徴的な存在が、工場長の辻内利勝さん。ハサミの肝となる刃の湾曲を作る「タタキ」をひとりで担当しており、この道36年のベテランだ。
「コバルトは難しいんですよ。よそのメーカーさんでもなかなかやらんちゅうのは、温度変化にいきなり反応するから。あと叩き所を間違えるとポーンと折れてしまう。だから、加工にかなり熟練の経験値が必要なんです。
上がってきたハサミをぱっと見て、ここ、もうちょっとこないしたらええ品物に変わるなとか、もうちょっとここをポンポンってやっといたら、よう切れるようになるってわかるのは、すべてが経験ですね。本当にもう僕、毎日、1万べん、100万べん叩いてますから」
工房で日々を過ごすうちに、「うちは、間違いなくいいハサミを作っている」と確信を持った健一さんは、従来の商売のやり方を変えようと考えた。
美容業界は、独特の慣習でビジネスが行われている。菊井鋏製作所で作られたハサミを売るのは、日本全国の美容院に訪問販売をしているハサミ問屋さん。大手は存在せず、無数の業者が全国をカバーしている。
問屋さんは、一軒、一軒、美容院を巡って注文を取ってくる。もちろん、いくつかのメーカーと取り引きしていて、美容師と話をしながら、そのうちのどれかを売る。そこで集めた注文が、毎日、FAX(!)で菊井鋏製作所に届く。
10丁の時もあれば、20丁の時もあるが、すべて同じハサミとは限らない。菊井鋏製作所は、自社ブランドで12種類のハサミを作っているだけでなく、他社から依頼を受けて、他社ブランドのハサミも作っている(OEMという)。そのうちのあれが3丁、これが4丁といった具合で、細かな注文が記されている。
付き合いのある問屋さんは数社あるので、同じような注文が、毎日あちこちから届く。それを集計して、漏れがないようにスケジュールを組むのが菊井鋏製作所の日課だ。
ブランディングにチャレンジ。キクイシザースのデビュー
健一さんが懸念していたのは、OEMの割合の多さだった。他社から技術力を見込まれての依頼なので誇らしくもあるが、菊井家の誇りであるコバルトシリーズも他社ブランドで販売されていることに危機を抱いていた。
「仕事を始めた時から、歯がゆかったですね。これだけいいものを作って、たくさんの有名な方たちに使っていただいているんですけど、あくまでもOEMでやっている仕事なので『うちのハサミです』と表に出せないんです」
業界の外に目を転じれば、自分たちのオリジナル商品を出して、勝負をかけているモノづくり系の企業が増えている。「うちも菊井鋏のブランドを作りたい」と考えた健一さんは、2015年、ものは試しとコバルトシリーズでグッドデザイン賞に応募してみた。
すると、シンプルな機能美を評価されて見事に受賞。長年、菊井鋏製作所のオリジナルを愛用してくれている美容師から「良かったね!」と言われたことが自信になり、ブランディングに力を入れていくことを決意する。
2016年、29歳で父親の後を継いだ健一さんは、「キクイシザース」のブランドの認知度を上げるために新しくホームページを設けた。そこで自社製品を紹介し、オーダーメイドも含めて、直接注文を受けられるようにした。
さらに、一番ブランド力のあるコバルトシリーズのOEM生産を徐々に減らしていった。美容師に「コバルトのハサミだったら菊井鋏製作所」というイメージを持ってほしかったのだ。
「アメリカなら、誰の迷惑にもならない!」
そこで立ちはだかったのは、昔ながらの商習慣。
直販を始めたことで、ハサミ問屋との間に摩擦が生じるのは避ける必要があった。菊井鋏製作所の売り上げの大半は問屋がとってきた注文で成り立っているので、「そんなことするなら、おたくのハサミを売らないよ」と言われたら、大打撃を受けてしまう。
でも、それを恐れて行動しなければ、これまでと何も変わらない。どうしたらいいのかと頭を悩ませた健一さんは、意外なアイデアを実行する。
それは、アメリカ進出。
実は健一さんが中学生の頃、父親がアメリカにハサミを卸していたことがあった。その取引は途絶えていたのが、たまたま、そのハサミを見たアメリカのインポーターから「まだ菊井さんがハサミ作ってるなら、欲しいんだけど」と連絡がきたのだ。
その時に閃いた。「アメリカなら、誰の迷惑にもならない!」
さっそく、中小企業基盤整備機構の「海外ビジネス戦略推進支援事業」に応募したところ採択され、2016年11月に渡米。
その際に知り合った商社から招待を受けて、翌年11月には、ハサミやバリカンなどを研ぐ技術者向けの展示会「インターナショナル・ビューティー・シャープニング・アソシエーション(IBSA)」で展示を行った。
アメリカ進出の意外な効果
2度の渡米で感じたのは、日本人とアメリカ人の考え方の違い。日本人の美容師はハサミを丁寧に扱い、長く使うが、アメリカ人の美容師は安いハサミが消耗したら買い替えるという文化だった。
しかし、なかには職人肌の美容師もいて、1年に10本ほど注文が来るようになった。その売り上げは微々たるものながら、想定外の嬉しい効果があった。
理美容師用のハサミを作る工房の、京大卒の3代目がアメリカ進出を目指す。このストーリーが注目を集め、いくつかの日本のメディアに報じられた。
すると、理美容師用のハサミがニュースになること自体がめったにないことだから、問い合わせが一気に増えた。
連絡をしてきたのは、全国の職人気質の美容師たち。徹底的に道具にこだわる彼らは、コバルトシリーズを生んだ菊井鋏製作所の存在を知り、オーダーメイドで注文をしてくるようになった。
「僕、すごくアメリカが好きとか、海外にめっちゃ行きたいとかじゃなくて、できるだけ今までの取引先の邪魔をしないところを選んだら、結果的に海外だったんです。それで興味を持っていただくことが増えたので、アメリカに行ってよかったですね」
口コミや積極的な情報発信によって少しずつ顧客が増え、最近は問屋からの注文も含めると売り上げの2、3割が自社製品になった。
そして、平均年齢45歳の工房に、20代の若い女性が見習い職人として入社した。家業を継いでからしばらく感じていた歯がゆさ、もどかしさは、最近ずいぶんと薄れてきたそうだ。
<取材協力>
菊井鋏製作所
和歌山県和歌山市小雑賀2-2-31
https://www.scissors.co.jp/
文:川内イオ
写真:中村ナリコ
*こちらは、2019年9月30日の記事を再編集して公開いたしました。