浜松の熱き伝統を支える凧職人の心意気
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こんにちは。ライターの川内イオです。
今回はあまり知られていない浜松の凧文化と凧職人についてお届けします。
浜松市民にとって、5月は特別だ。5月3日から5日の3日間にわたって開催される浜松まつり。人によっては「年末年始よりも大切」というその祭りのメインイベントのひとつが、浜松市の174の町がそれぞれの凧を揚げる「凧揚げ合戦」である。
まず、各町単位でその町に生まれた子どもの誕生を盛大に祝う「初凧揚げ」が行われ、さらに各町入り乱れての「糸切り合戦」が行われる。「糸切り合戦」とは、凧を揚げながら互いの凧糸を絡ませ、グイグイと擦り合って相手の糸を断ち切るもので、切ったら勝ち、切られたら負けという各町のプライドを懸けた戦いだ。
ちなみに、凧揚げというと正月に子どもが揚げるような手持ちサイズを想像してしまうが、浜松の凧は桁が違う。江戸時代から浜松で凧を製造・販売している「上西(かみにし)すみたや」さんの工房を訪ねたとき、なによりも圧倒されたのはその凧の大きさだった。
「凧の大きさは1帖、2帖という単位で表します。美濃半紙の大判を12枚つなぎ合わせた大きさが1帖で、約1.3メートル×1.3メートルになります。昔は1枚、1枚張り合わせていましたが、いまは土佐の和紙屋さんに60×90センチの大きな紙を作ってもらっています。昔は3、4帖が多かったけど、いまは5、6帖が主流ですね。最大の凧は10帖で、約3.6メートル×3.6メートルになります」
取材に伺った日、工房には10帖の凧の骨組みが置かれていたのだが、何も知らずにそれを見たら、恐らく浜松市民以外は誰も凧とは思わないだろう巨大さ。
10帖の凧が揚がる姿が想像できません、というと、「上西すみたや」10代目の大隅文吾さんは、そうかもしれませんね、と少し誇らしげに微笑んだ。
町印、家紋、名前入りの凧
浜松の凧は、独特だ。凧が空高く揚がっているときに、どこの町の凧かはっきりとわかるように、凧の中央には大きな町印が描かれる。そして、左上に家紋、右下には名前が記される。
これが「初凧」で、もともとは長男が生まれた家があると、端午の節句にその町を挙げて「初凧」を揚げてお祝いした。現在では次男でも、長女でも同じようにして5月3日から5日のいずれかの日に祝う。凧が大きすぎて家に飾れないので、無事に凧揚げを終えると、名前と家紋の部分だけを切り取って額に入れ、家に飾る。浜松市民にとって、これは一生の宝物になるという。
従来、子どもの名前入りのめでたい凧を糸切り合戦に使うわけにはいかないので、合戦用に名前が入っていない組凧、町凧も作られてきた。こういった凧揚げ文化は江戸時代に始まり、明治時代以降に盛んになったと言われている。近年では「初凧」の依頼主である「施主さん」の意向で、初凧でも合戦に参加することが増えているそうだ。大隅さんは「浜松の人間は合戦好きなんです」と語る。
竹ひご1本を作るところから始まる
270年以上、浜松で初凧、組凧、町凧の製作を手掛けてきた「上西すみたや」は、昔ながらの手作りをいまも続けている。
「暖かい時期の竹は水を吸っているので、秋に切った真竹を使います。10月から12月にかけて、手作業でその竹を割り、ひごや親骨と呼ばれる太い竹の骨に加工します。同時に、竹ひごを格子状に麻糸で縛って凧の形にした障子骨に親骨を針金で括り付けてがっちりと骨組みを作っていきます。浜松凧は糸切り合戦で相手の凧の揚げ糸を切りたいので、風を受けたとき、凧が力強く自分の揚げ糸を引っ張ることができるように、所々に親骨を入れて頑丈な造りにするんですよ。秋の間に障子骨を200枚は作っておきますね」
前年に子どもが生まれた家から174の各町に「初凧揚げ」の依頼があり、それを各町がまとめて発注するというしきたりになっているため、凧の注文が入るのは年明けから。注文が来ると、骨組みに和紙を張り、染料で色付けをする。一般的な凧で使用されている顔料ではなく染料を使うのもこだわりだ。
「顔料と染料の違いは光にかざしてみると一目瞭然。顔料は光を通さないけど、染料は通します。凧を揚げたときに、きれいにはっきりと町印や名前が見えるように染料を使っているんですよ。染料は顆粒や粉末状のものを配合してから煮て、『今年の色』を作ります。和紙も手作りなので、同じように頼んでも毎年微妙に出来が違う。その和紙に合う安定した色を作らなきゃいけないんですよ」
最終工程は、家紋と名前を入れる作業。大隅さんにとって、凧作りのハイライトだ。
「凧に入れる名前はすべて僕が書いてるんだけど、これがね、ものすごくエネルギーが必要なんですよ。さらっと書いてしまうとどこか弱々しい感じになってしまうから、勢いがあって、勇ましく、元気よく、力強いものを書こうとすると、自分のパワーを込めないといけない。そうすると、漢字の一本、一本の線を引くのにもすごく時間がかかって、だいたいひとりの名前を書き上げるのに30分はかかるんです。それが終わると休憩して、また次の名前にうつる。昼間は集中できないから、夜中にひとり引きこもって書いています。実際に名前を書くのは2月と3月ぐらいなんだけど、筆を持っていないと腕がさびるのでいまも書道に通っています」
凧が大型化している理由
もともと「上西すみたや」は「際物業 (きわものぎょう) 」で、季節ごとに表具や盆飾りを作ったりしていて、凧も冬から春にかけての季節限定の仕事だった。しかし、もともと70ちょっとの旧町だけだった凧揚げの参加地域が昭和の終わりから平成にかけて急増し、現在は174もある。
各町からの初凧の注文に加えて、糸切り合戦で凧が壊れたり、古くなって新調するための組凧、町凧の注文もあれば、結婚式や新しくお店がオープンする際にお祝いとして凧が贈られるという浜松特有の文化もあり、いまでは凧の注文が年間300から400個にのぼるという。しかも、凧が大型化して作業工程が増えたため、最近ではほぼ専業になった。
ところで、なぜ大型化しているのか。そこには浜松ならではの事情が隠されている。
一昔前、凧揚げの会場になっている中田島砂丘では陽に照らされて砂浜が熱くなると、南から空気が入り込んで強い風が吹いたため、3、4帖の凧で十分だった。
しかし、砂浜が徐々に小さくなり、あまり強い風が吹かなくなってしまった。その条件でも凧を揚げるために、風をしっかりと捉える大きな凧が求められるようになったのだ。そうしていくつかの町が5、6帖の凧を揚げるようになると、当然、3、4帖の凧よりも空の上で見栄えが良いし、重くて頑丈なので糸切り合戦でも強さを発揮するようになる。そうなると、3、4帖の凧を使っていた町も「うちも大きくしよう!」ということになり、大きな凧が人気になっていったのだ。
とある日の緊急事態
凧に思い入れのない者からすると、そんなに張り合わなくても、と思ってしまうが、大隅さんの話を聞いていると、凧揚げに懸ける浜松市民の尋常ならざる想いが伝ってくる。
「30本ほどある凧の糸目で重要なのは上の両端と下の真ん中にある糸を通す場所で、これを『みつ』と呼びます。浜松にはお施主さん本人が初凧のみつに糸目をつける糸目式という行事があるのですが、そのとき『みつ』以外の糸目も全部つけてしまいます。凧の糸目は各町によって糸を通す場所や本数、長さ、どこを張らせてどこを緩めるかとかいうのも全て違います。自分たちのやり方を盗まれるのが嫌なので他の町内の人間には見せませんし、必ず町ごとに糸目に関する秘密の資料があるはずですよ」
「あと、浜松の人間は各町で元日にも大凧を揚げますね。大晦日に支度をして、年が明けると暗いうちから河川敷や海で揚げるんです。凧が良く見えないから、電球をつけたりして。変わった光景ですよね (笑) 」
この環境で生まれ育った大隅さんも、もれなく凧が好きでたまらない。だからこそ、浜松で代々続く凧の作り手として、他にはない独特の技術と文化を継承していきたいという想いもあり、父親の跡を継いだ。
実は、冒頭で記した「年末年始よりも浜松まつりのほうが大切」というのも大隅さん。この生粋の凧職人には忘れられない日がある。
3年前の5月3日。お祭り当日の夕方に、電話が鳴った。出ると「初凧を揚げてお祝いする前に、潰れてしまった (壊れた) 。4日の朝までに新しい凧を作ってほしい」という緊急連絡だった。タイムリミットは数時間。しかし幸い、必要な材料はそろっていた。言うまでもなく、返事は「わかった!」。電話を切ってからノンストップで凧を完成させて、翌朝の凧揚げに間に合わせた。
「事情はともあれ、なんとかして間に合わせてあげないとと思って作りました。浜松では結婚式を控えても、初凧のお祝いはするという人もいるぐらい一生に一度の大切なお祝い事ですからね」
凧文化がここまで根付いている町、ほかにあると思いますか? 最後にそう尋ねると、大隅さんは「ないと思いますよ」と即答した。その笑顔はやはり誇らしげだった。
<取材協力>
すみたや上西・凧店
静岡県浜松市東区上西町25-12
053-464-4000
文・写真:川内イオ