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奈良晒とは

「最上」とされた麻織物の歴史と現在

奈良晒

その質の高さ、白の美しさから「麻の最上」と評された織物が奈良にあります。

江戸時代に幕府御用品として栄華を極めた、高級麻織物「奈良晒 (ならざらし) 」。

その黄金期さなかの1716年に、奈良晒の商いで創業したのが、現在全国に50店舗以上を展開する中川政七商店です。

最上と言われた布はどのように生まれ、今とどのようにつながっているのか。その特徴と歴史をご紹介します。

奈良晒 糸巻き

奈良晒とは。特徴は白さと肌ざわりにあり

奈良晒は、奈良地方で生産されてきた高級麻織物。

麻の生平(きびら)を晒して純白にしたもので、主に武士の裃(かみしも。江戸時代の武士の礼服)や僧侶の法衣として用いられた。また、千利休がかつて「茶巾は白くて新しいものがよい」と語ったことから、茶巾としての需要もあったという。

白い奈良晒

その質の良さから、江戸時代に各地の名産・名所を描いた『日本山海名物図会』(1754年刊行)では「麻の最上は南都なり。近国よりその品数々出れども染めて色よく着て身にまとわず汗をはじく故に世に奈良晒とて重宝するなり」と評されている。

また、奈良晒は古くから社寺でも重用され、宮内庁や伊勢神宮、神社庁などに献納されてきた歴史がある。

ここに注目 気の遠くなるような「最上」への道のり

糸を紡ぐ様子

「麻の最上は南都なり」と評されるほどの質のよさは、どこから来ているのか。

奈良晒の素材は、麻。中でもコシの強い苧麻(ちょま)という種類を主に用いる。この苧麻の繊維を績 (う) んで糸にし、撚りをかけたタテ糸と撚りをかけないヨコ糸で織り上げる(この織り方を平布という)。

その工程は、糸を績むだけで1ヶ月、生地を1疋(24メートル)織るのに熟練の織り子さんでも10日はかかるという。「最上」への道のりは、気の遠くなるほど遠いものだった。

奈良晒の製造工程
奈良晒の製造工程

奈良晒の基本データ

◯奈良晒の素材・道具

麻の一種である苧麻(ちょま。からむし/青苧(あおそ)とも)。ただし生産量の減少や価格の高騰にともない明治末期からは大麻も用いられるように。

ともにタンニンなどの不純物により単繊維 (そのままでは糸にならない短い繊維) 同士が結束している。そのため、晒すことで不純物が除かれると、色が抜けるだけでなく、繊維の結束が弱くなり、柔らかな風合いを生み出す。

◯代表的な人・産地

・清須美源四郎(奈良で晒を始めた人物)

・清須美道清(源四郎の孫。奈良晒を扱った将軍御用達商人)

・奈良県月ヶ瀬村(現在の主な産地)

◯数字で見る奈良晒

・誕生:鎌倉時代と考えられている

・産地:奈良
・出荷量:最盛期(17世紀中頃から1730年代)には年間30~40万疋までにのぼった

※1疋=2反。1反で大人1人分の着物量

・文化財指定:1979年(昭和54年)に無形文化財指定されている

奈良晒といえばこの人・この工房。

◯清須美道清 「奈良晒」の発展期に寄与した人物

清須美道清(きよすみどうせい)とは、16世紀後半の奈良において晒技術の改良に成功した清須美源四郎の孫で、奈良晒を商っていた江戸幕府の将軍御用達商人。水量豊かな吉城川のそば、かつての晒場であった「依水園」に前園を建てた。奈良晒の生産、流通に多大な影響を与えた人物である。

◯中川政七商店10代 中川政七 「奈良晒」の再生期を支えた人物

江戸時代に武士という最大の需要を得て興隆した奈良晒だったが、明治時代以降は衰退の道に。しかし、今も僅かながら機場が残っている地域がある。奈良市東部の山間にある月ヶ瀬村だ。

この月ヶ瀬村に、明治末期から大正、昭和にかけて、奈良晒を商う中川政七商店が大々的に進出。村に生地を織る工場を複数軒建て、近辺の農家に頼んで織子を集め、仕入れてきた麻糸で生地を織らせた。

奈良晒を織る様子

当時、こうした手工業は農家婦女子にとって農閑期の貴重な収入源となっていた。そこに目をつけたのが、奈良晒を商う家業の立て直しを思案した中川政七商店10代 中川政七である。彼は織子の賃金を成績判定により決めるなど、機織りの技術と品質の向上に尽力した。

<関連の読みもの>

歩いて行けるタイムトラベル 麻の最上と謳われた奈良晒
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/573

奈良晒の豆知識

◯奈良の名勝『依水園』はかつての晒場

依水園の前園
奈良晒を商った清須美による前園

奈良晒は主に奈良町を中心に商われ、佐保川や大池川など、近隣の川辺に晒場が持たれた。

現・奈良公園にも近く吉城川そばに位置する国指定の名勝、「依水園(いすいえん)」は、実はもと晒場のあったところ。のちに奈良晒を扱う将軍御用達商人・清須美道清(きよすみどうせい)が江戸前期、別邸をこの地に設けたのが前身となっている。

◯井原西鶴も驚いた?最盛期には40万疋も製造された繁盛ぶり

17世紀後半から18世紀前半の最盛期になると年間30万〜40万疋ほどもの生産量を誇っており、その繁盛ぶりは井原西鶴の『世間胸算用』にも記されたほどだ。

<関連の読みもの>

歩いて行けるタイムトラベル 麻の最上と謳われた奈良晒
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/573

かつての晒場の様子が描かれた寛政元年の『南都布さらし乃記』

奈良晒の歴史

起源期

奈良晒の起源は鎌倉時代にさかのぼり、南都寺院の袈裟として使われていたとされる。文献にその名が登場するのは16世紀後半。徳川家康に従い功績をあげた清須美源四郎(先述の清須美道清の祖父)が奈良で晒を始め、その晒法の改良に成功したことが、のちに奈良を代表する産業に発展する礎となる。

最盛期

江戸時代に入り、奈良晒は幕府の御用品指定を受ける。1611年(慶長16年)、徳川家康の命により奈良晒はすべて生地の端に「南都改」という朱印を押され、朱印のない晒は売買を禁止されることとなった。徳川幕府の御用品として統制・保護を受けた奈良晒は、幕府が功績を上げた大名に与える最上の着物・御時服にも用いられるように。武士という大きな需要を得たことで、奈良晒は“南都随一”の産業と言われるまでにその生産量を伸ばしたのだ。

最盛期の17世紀中頃から享保年間(1716~1736年)にかけては年間30~40万疋(1疋=2反。1反で大人1人分の着物量)の生産量を誇り、当時の繁盛は井原西鶴の『世間胸算用』にも登場するほどだった。

また、奈良晒の発展に伴って、糸づくりや織布などの工程が周辺の農村部でも広く行われていたことが確認されており、農家の重要な収入源となっていたようだ。

衰退期

しかし、享保年間より後、奈良晒は次第に衰退の道をたどる。1736年(元文元年)には年間23疋あまり、1842年(天保13年)には11万疋あまり、1868年(明治元年)には5万疋あまりと生産量を落とす。

1998年に農山漁村文化協会より発行された『江戸時代人づくり風土記29 奈良』ではその原因として、越後縮や近江麻布、能登縮など他国の良品の台頭により独占的地位を維持できなくなったこと、原料価格の高騰や粗悪品の横行を挙げている。その上、江戸時代の終わりにともない、最大の需要であった武士がいなくなったことが決定打となり、奈良晒は産業としての力を失った。

再生期

奈良晒の著しい衰退にあい多くの工場、職人が廃業に追い込まれたが、奈良市東部の月ヶ瀬村では今もなお僅かながら生産されている。奈良晒を商っていた中川政七商店が明治末期から大正、昭和にかけて月ヶ瀬に自社工場を建て、近辺の農家から織子を集めた。さらに、織子の賃金に成績判定を導入するなどして、機織り技術の向上と継承、奈良晒の再生に尽力した。

また、1925年 (大正14年) 、フランス・パリで開催された万国博覧会に、中川政七商店は麻のハンカチーフを出展。極細の手績み・手織りの生地に、鳥草木紋が繊細な手刺繍で施されたもので、現在も5枚現存しており、うち1枚はもともと奈良晒の商いの仕事場にしていた場所で、中川政七商店の直営店1号店である「遊 中川 本店」に飾られている。

現在の奈良晒

こうした取り組みのすえに、奈良晒の紡織技術は1979年(昭和54年)に無形文化財の指定を受けた。さらに、月ヶ瀬村では月ヶ瀬奈良晒保存会が発足されており、伝統的な技法で奈良晒の製造を行うなど、今もなお技術の保存のための取り組みが続けられている。

奈良晒と出会える場所

◯依水園

依水園入り口
依水園入り口

依水園は国指定の名勝である。江戸時代前期の日本庭園として建築された「前園」、明治時代に周囲の風景を取り入れて設計された「後園」と、時代が異なる2種類の庭園を擁する。園内には水車小屋や挽臼を模した飛び石があるなど、奈良晒を制作していた当時の面影が今もなお残されている。

依水園のページへ:
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/5413

◯遊 中川 本店

遊 中川 本店の店内
遊 中川 本店の店内

奈良晒の卸問屋であった中川政七商店が、1985年にそれまでの仕事場を改装してオープンした店舗。現在では「日本の布」をテーマに麻以外にも各地の布を用いたバッグや服、雑貨が販売されている。

なお、店内には奈良晒の検反に用いられた竹竿を始め、製品を包むものに押されていた判「奈良曝布」など当時の作業場の面影が感じられる。周囲には春日大社や猿沢池、奈良町など観光地が多数あるため、奈良観光を楽しみながらその道中に立ち寄りたい。

奈良晒 本店の竹竿
奈良晒
晒し布の商品に押されていた判。中川政七商店所蔵のもので、現在は同社が営む奈良市元林院の「遊 中川」本店に飾られている

遊 中川 本店のページへ:
https://sunchi.jp/sunchilist/narayamatokooriyamaikoma/5535

関連する工芸品

麻とはどんな素材なのか?
https://sunchi.jp/sunchilist/craft/115196

<参考>

・奈良県立民俗博物館 編『奈良晒ー近代南都を支えた布ー』奈良県立博物館(2007年)

・『奈良さらし』奈良市教育委員会(1985年)

・十日町市博物館, 近世麻布研究所編『四大麻布 越後縮・奈良晒・高宮布・越中布の糸と織り』(2012年)

・依水園 公式サイト

https://isuien.or.jp/garden.html
(以上サイトアクセス日:2020年3月19日)

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    奈良晒

    「麻の最上」と評された織物