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燕鎚起銅器とは

「時を刻む一生もの」の歴史と特徴、使われ方

燕鎚起銅器

燕鎚起銅器の基本情報

  • 工芸のジャンル

    金工品

  • 代表的な作り手

    玉川堂

燕鎚起銅器(つばめついきどうき)とは、1枚の銅板を鎚 (つち) で打ち延ばしたり絞ったりして形を作る銅器。江戸時代に銅山が活況となった燕一帯に起こった産業で、1981年には通商産業大臣により伝統的工芸品の指定を受た。

叩く場所やつくる形状によって鳥口を選び、20本余りを使い分けながら仕上げていきます。

表面がデコボコとしていながらも驚くほど滑らかで美しい光沢を放ち、銅素材ならではの経年変化により、長年使い込むほどになんとも言えない風合いを醸し出すことが特徴。やかんや急須、フライパンなど様々な日用品が生産されている。

燕鎚起銅器の特徴と使われ方

燕鎚起銅器とは1枚の銅板から生み出される日用品であり芸術品。作品によっては制作に1ヶ月かかることもあり、一つひとつ手作業で作られるそれはまさに職人の魂がこもった一点モノだ。

玉川堂

その最大の魅力は、同じ用途の作品であっても工房や職人ごとに形状や色合いに特色が現れることである。玉川堂で代々継承されてきた、夕焼けを思わせる鮮やかな紅葉色の「宣徳色」、紫がかった黄金色の「紫金色」、ほのかに桃色で上品な「銀色」などもそう。さらに、燕鎚起銅器は使い込むほどに艶を増し、その人だけの古色へと変化する。

また、銅の熱伝導率はアルミのおよそ2倍、鉄の5倍、ステンレスの25倍とされ、他の素材と比べて格段に熱が通りやすい。耐食性が高く、殺菌作用もある素材としても知られる。最近ではその熱伝導率の高さから、やかんや急須などだけでなく、鍋やフライパン、ぐい呑やビールカップ、コーヒーのドリッパー。さらには、その風合いの美しさから名刺入れや靴べらなど、様々な生活用品にその技術が取り入れられている。

燕鎚起銅器のお手入れ方法

洗い方

銅は耐食性、殺菌作用のある素材ではあるものの、水気や塩気、酸気には敏感で、これらが付着したまま放置しているとサビの原因に。燕鎚起銅器を使用した際には、その都度、中性洗剤をつけた柔らかいスポンジで洗い、ふきんなどで乾拭きする。

保管

長期間使用しない場合には、内容物をすべて取り除き、適切な洗い方で表面の汚れ、水気をしっかり落としたあと、新聞紙など紙類に包むなどして湿気の少ない暗所に保管する。湿気のある場所ではすぐにサビてしまうので水回りの保管には注意したい。

修理

燕鎚起銅器は頑丈な作りをしてはいるが、長年使用していると、やかんの取っ手や注ぎ口が破損することも。販売店や工房に問い合わせると修理してくれる。

燕鎚起銅器の歴史

江戸時代以前

燕市は、古くから日本でも有数の穀倉地帯として知られる越後平野の、ちょうど中心にある。平野を流れる信濃川は度々氾濫を起こし、隣接する三条エリアとともに農村を苦しめてきたが、そんな中で困窮する農民を救ったのが江戸初期 (1628年ごろ推定) に導入された和釘作りの副業だ。江戸での震災や度重なる大火により釘の需要は著しく増え、徳川期から明治初期にかけては燕産業の80%が和釘の生産であったとされる。

和釘産業を追いかけるように、燕では一帯を支配していた村上藩の命で、1650年ごろより銅細工の製作が行われるようになる。以後、鍋などの銅器の生産が盛んになり、幕末の元治元年 (1864年) には「越後産物番付」にて燕銅器が25位に挙げられた。

その後、和釘は明治維新の波とともに国内に入ってきた洋釘に需要を奪われ、産業として急速に衰退。その一方で、燕で続いてきたこの銅細工と江戸の明和 (1764〜1772) 年間に開発されていた間瀬銅山(まぜどうざん) の存在が「燕鎚起銅器」誕生の契機となる。

燕市の西北に位置する霊山・弥彦山で開発された間瀬銅山からは良質な銅が採れ、その色は美しい緋色 (ひいろ) をしていた。ここに仙台生まれの藤七という人物が燕にやってきて伝えたのが、1枚の銅板を鎚で叩いて継ぎ目なく作る「燕鎚起銅器」の技術である。複数いたとされる継承者のうち、1816年、学んだ技術を生かして家業を銅器製作から鎚起銅器製作へと移行したのが玉川覚兵衛。現代まで続く燕の鎚起銅器作りの礎を築いた玉川堂 (ぎょくせんどう) の初代である。創業当初から鍋・釜・やかんなど日用品を製作し、弟子も5人以上抱えていたという。

銅板を成形する際に使われる鳥口
銅板を成形する際に使われる鳥口という道具

明治・大正・昭和

時代が明治に入ると、廃刀令の発令等により多くの工芸職人が失職を余儀なくされた。これは金工だけでなく革や漆なども同様に、一流の職人でさえ生活用具作りに従事していたほどで、工芸の高い技術が生活の中に溶け込む一因ともなった。

一方、これら職人の現状を知った明治政府は、「殖産興業」「輸出貿易振興」を計る。各展覧会にも日本の金工作品を積極的に出展させ、1873年(明治6年)のウィーン万博博覧会においては各国から高い評価を得た。この頃には2代目・玉川覚次郎が継承した玉川堂の燕鎚起銅器製作も、日用品から美術工芸品へシフトしており、先のウィーン万博へも出品。3代目玉川覚平の時代には銅器に彫りで模様をつける彫金の技術を取り入れ、1894年 (明治27年) に皇室献上の栄誉を受ける。

しかし、その後の度重なる戦争により銅は資源として国に供出され、原料の価格高騰を受けた燕の銅器生産は壊滅的なダメージを受けた。玉川堂も幾度となく廃業の危機に追い込まれるがものづくりを絶やすことなく終戦を迎え、1958年(昭和33年)、その技術が「新潟県無形文化財」に指定される。これをきっかけに玉川堂の経営も回復し、玉川堂から独立した銅器屋を中心とした銅器組合も設立。鎚起銅器を燕の伝統産業として打ち出す機運が高まり、1981年、「燕鎚起銅器」は通商産業大臣による伝統的工芸品の指定を受けた。

平成以降

高度成長期からバブル期にかけては燕の銅器が贈答品需要に恵まれる。玉川堂では当時、贈答品の売り上げが全体の8割を占めたという。バブル崩壊後は贈答需要は落ち込んだものの海外見本市への出展など海外進出を図り、2010年には玉川宣夫が重要無形文化財 (人間国宝) に認定。これら活動の成果により、海外からの受注も増加したという。

現在の燕鎚起銅器

燕鎚起銅器には打ち起こし、打ち絞り、焼き鈍し、成形、彫金、着色仕上げなど数々の工程があり、それら技術を収めるには弟子入りから6年〜10年ほどかかるとさえ言われている。そのため、現在では継承者もその数を減らし、燕一帯の一部の工房で制作されるのみだ。

玉川堂の本店
お話を伺った玉川堂さん本店

そんな中でも、玉川堂では燕鎚起銅器の技術を次代に繋げるため、平成の初期から他のメーカーに先駆けて工場見学やワークショップを開催。東京都の銀座に店舗を進出させるなど、地域を代表するメーカーとして、ものづくりの町の旗振り役となっている。

また、燕市・三条市では2013年から毎年10月初めの4日間に、合同で工場見学イベント「燕三条 工場の祭典」を開催。燕鎚起銅器を含めた金工や木工、鍛治などの70以上の工房が参加し、全国から5万人以上もの来場者が集まる一大イベントだ。なお、会場内では各工房の技術や作品に触れられ、購入もできる。

銅板を金槌で叩く職人
玉川堂さんでは間近でものづくりを見ることができる工房見学を実施している

さらに燕鎚起銅器を知る

<関連の読みもの>
・わたしの相棒 〜1つの湯沸かし、20の鳥口〜
https://sunchi.jp/sunchilist/tsubamesanjyo/2380
・燕三条に見る産業観光の未来
https://sunchi.jp/sunchilist/tsubamesanjyo/4142

燕鎚起銅器

<参考文献、協力>
・玉川基行・渡邊和也・燕市 著『鎚起銅器』燕市産業史料館(2016年)
・鎚起銅器 玉川堂
https://www.gyokusendo.com/about
(以上サイトアクセス日:2020年2月11日)

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    1枚の銅板から生み出される日用品であり芸術品