めがね列伝
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こんにちは。ライターの石原藍です。
国産めがねフレームの9割以上を生産している福井県。なかでも鯖江市はめがねの製造会社が集積していることから「めがねの聖地」として全国から注目を集めています。どうしてこの地がめがねの一大産地と言われるようになったのでしょうか。
今回は鯖江のめがねに詳しい方々に話を伺い、過去を遡りながらその背景を読み解いていきます。
めがねのすべてを知るならここ!
北陸自動車道・鯖江ICから車で3分の場所にある「めがねミュージアム」。
めがねの産地、鯖江を代表する建物で、めがねの歴史を学ぶことができるほか、著名人のめがねも多数展示しています。
ミュージアムで長年、案内人をされている榊幹雄さんに、めがね発祥の歴史から教えていただきました。
榊幹雄(さかき・みきお)さん/めがねミュージアムの案内人
福井市出身。めがね職人として40年の経歴を活かし、めがねの歴史や素材、製造方法など幅広い知識を持つ
日本最古のめがねは室町時代!?
めがねが発明されたのは、13世紀後半のヨーロッパ。その後海外に広がり、日本には15世紀頃伝わったと言われています。
「16世紀くらいまではレンズに水晶やトパーズが使われていたんですよ。鼻パッドや耳にかける部分はなく、今のめがねと形は違いますが、当時から海外の加工技術は高かったことがわかると思います」
例えば下の写真は15世紀頃に中国で使われていためがねケースですが、鮫皮が貼られ、彫刻と彩色が施されています。何百年も昔のものとは思えないほど美しいですよね。
日本のめがねに関する最も古い記録は1551年。宣教師フランシスコ・ザビエルが山口・周防の大名、大内義隆(おおうち・よしたか)にめがねを献上したことが記されています。現存する日本最古のめがねは室町幕府第8代将軍の足利義晴が使用したものだそう。
また、あの徳川家康も好んでめがねをかけたといわれていて、家康が使用しためがねは今でも静岡県の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)に残されています。
江戸時代のめがねは職人たちの必需品
日本でめがねがつくられるようになったのは、江戸時代初期の頃。朱印船の船長だった浜田弥兵衛(はまだ・やひょうえ)が南蛮でめがねづくりを学んだことがきっかけでした。西洋ではめがねはインテリ階級の人が使うもの。しかし、日本では絵師や彫り師といった職人もめがねを使い、仕事の必需品として一般庶民に浸透していたそうです。
むむっ、榊さん、こちらのめがねは?
「これは日本人の顔のつくりを考えためがねです。日本人の顔は西洋の人に比べて扁平だから、そのままめがねをかけると目とレンズがひっついてしまう。当時はまだ鼻パッドが誕生していないので、額の部分に立ち上がりをつくることで、顔とレンズの間に隙間を開けているんですよ」
明治になり文明開化。一気に西洋ブームへ
明治維新を経て1870年頃から文明開化のスタート。当時は日本橋でめがね専門店がオープンしたり、レンズ制作の技術を海外から持ち帰ったりとめがね業界の動きも活発だったようです。
めがねの産地として歩み始めた歴史的な年
1905年といえば、アインシュタインの「相対性理論」が発表された年。福井県麻生津村(現在の福井市生野町)では、村会議員だった増永五左衛門が大阪からめがねフレームの製造技術を持ち込みました。めがねの産地としてスタートするきっかけとなった歴史的な出来事です!
農地が少なく、貧しい暮らしをしていた麻生津村。冬の時期は農業ができないことから、五左衛門は農閑期にできる仕事を考えていました。当時、新聞が普及し始めたことから「これからは活字文化になる(=つまりめがねも必要になるに違いない)」と予想し、めがねの製造職人を工場に招くため大阪へ。優秀な職人の教育に尽力したほか、福井市の隣の河和田村(現在の鯖江市河和田地区)にも工場を開きました。
「五左衛門がすごかったのは、親方と弟子でチームを組んで競わせる『帳場制』を採用したこと。職人同士が切磋琢磨するようになり、見込みのある人を次々に独立させたんですよ」
これによって産地として規模がますます大きくなり、技術も飛躍的に向上したそうです。すごいシステムです。
終戦とともにめがねの需要が一気に高まる
その後、東京や大阪をしのぐめがねの産地に成長した福井・鯖江。戦争の空襲で他の産地が壊滅的になったことからますますめがねの製造量が増えます。さらに明治時代から鯖江に駐屯にしていた旧日本陸軍の部隊「三十六連隊」が終戦とともに引き上げたことから、続々と跡地がめがね工場に転用。こうして、鯖江はめがねの産地としてゆるぎない地位を確立していきました。
鯖江が産地として歩みだした背景には、こんな歴史があったんですね。
戦後から現代へ。鯖江のめがねマスターが語る
ここからは場所を変えて、鯖江のめがね業界に携わるお二人に、戦後から現在に至るまでのめがねを取り巻く環境について話していただきます。
田中幹也(たなかみきや)さん/田中眼鏡店主
唯一無二のセレクトで異彩を放つ、鯖江では数少ない小売店「田中眼鏡」を経営。
めがねの知識は鯖江一と言われるほどの勉強家である
増永昇司(ますながしょうじ)さん/(株)マコト眼鏡代表取締役
オリジナルブランド「歩(あゆみ)」の生みの親。
福井の産地にめがね製造を取り入れた増永五左衛門の血を受け継ぐ
3万5千ダースのめがねを燃やした「めがねの火祭り」
(以下、田中さんの発言は「田中:」、増永さんの発言は「増永:」と表記。)
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田中:戦後はアメリカの文化が入ってきたので、海外の有名人が使った眼鏡やサングラスが話題になったそうですね。マリリン・モンローやレイ・チャールズ、オードリー・ヘップバーンがかけたサングラスがヒットして日本でもブームになったと聞きました。
増永:でもブームが過ぎ去ったあとは福井でも企業が次々倒産してしまうんです。過剰生産で売れ残ったサングラスをどうするか。本来なら値段を落として売りさばくのが普通なんだろうけど、安売りして産地としての価値を壊してはいけないと、3万5千ダースのめがねをすべて燃やしてしまったんですよ。すごい決断だったと思います。
田中:「めがねの火祭り」と呼ばれているやつですね。でもその結果、だぶついていた在庫が一掃されて新しい商品を製造する余地が生まれたので、産地としてまたうまく循環するようになっていくんですよね。海外にも地道にPRを続けていたので、国外からの注文も多かったと聞きます。
増永:私がめがね業界に入った1980年代は海外ブランドのブームで、めがねの問屋はこぞってブランドのライセンス契約を取得していました。ポロ・ラルフローレンやレノマ、バーバリーなど、鯖江内でも偽物がつくられて問題になったことがあったんですよ。
田中:そんなライセンスブームのなか、自社ブランドを先駆けてつくった金子眼鏡のようなメーカーも現れるなど、鯖江のめがね業界はさまざまなタイプのメーカーが生まれていくんですね。
ここでしかつくれないめがねを求めて
増永:鯖江のめがねの歴史で大きなターニングポイントになったのは、チタン・フレームの誕生です。チタンは軽くて強いし錆びない、そして金属アレルギーも出ない。理想的な素材にもかかわらず、空気中で溶接できないという弱点があったんです。
田中:鯖江がチタンフレームの製造に成功したのは、産地全体で技術開発を熱心に続けてきた賜物ですよね。これまで欧米諸国がめがねづくりをリードするなか、この加工技術が生まれたことで、鯖江は世界と戦える産地になったんだと思います。
田中:1992年には福井県のめがね関連出荷額が1200億円を超えるほどに成長しましたが、バブル後の不況や海外への技術の流出などにより落ち込みました。産地を取り巻く状況は山と谷を繰り返していますよね。
増永:ただ、どんなに不況になろうと“ものづくりの精神”は変わっていなくて、かける人のことを考え抜いためがねづくりを続けているのが日本の良さだと思うんです。海外製の安価なめがねが増えているのは事実ですが、日本製のめがねを手に取ってもらうとその良さが必ずわかるはずです。
田中:これまで矯正器具だったものがおしゃれアイテムに変わり、めがねは多くの人にとってより身近なものになったと思います。わざわざ県外から足を運んでくださるお客様も多く、ありがたい限りです。小売店として、一人ひとりの顔にぴったり合わせられるフィッティング技術に責任を持ちながら、日本のめがねの良さを多くの人に伝えていきたいですね。
増永:つくり手としては、産地として培ったスピリットがめがねにこめられているか。それに尽きると思います。2003年には福井の産地統一ブランド「THE291」が立ち上がり、最近では若いデザイナーによる新しい感性のめがねも誕生しているなど、めがねの新時代が創られようとしています。これからも“産地の力”を集結させ、思わず手に取りたくなる、ずっとかけていたくなるようなめがねを鯖江から届けていきたいですね。
<取材協力>
めがねミュージアム
福井県鯖江市新横江2−3−4 めがね会館
0778-42-8311
田中眼鏡
福井県鯖江市神明町1-2-8
0778-51-4742
株式会社マコト眼鏡
福井県鯖江市丸山町2-5-16
0778-51-5063
<参考資料>
MODE OPTIQUE vol.40 「ニッポンのメガネ 近現代史」
文・写真:石原藍