江戸の火事から越後の鍛冶へ

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こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
どの時代に暮らしてみたい?という会話を友人としたことのある人は意外と多いと思いますが、中でも人気だったなぁと記憶しているのが江戸時代。粋に着物を着こなして、ちょいと覗きに行く貸本屋や歌舞伎見物。顔を合わせればすぐ始まる長屋の井戸端会議。情に厚くてケンカっぱやい江戸っ子気質は、「火事とケンカは江戸の華」なんて謳われていました。実は、この江戸の華と言われた「火事」が、はるか遠くのある街のものづくりを支えていた、らしいのです。教科書からちょっと寄り道して、気軽な歴史探検に出かけてみましょう。

当時世界でも有数の人口を抱えていた江戸の町は、木造の家屋がひしめき合って、ひとたび火が起こればあっという間に大火事に。1657年(明暦3年)の大火は,江戸城の天守閣をはじめ町地の6割を焼きつくしたと言います。街を火から守る「火消し」は浮世絵にも描かれる花形職業でしたし、逆に火の不始末やましてや放火は、重い罪に処せられました。「八百屋お七」の話は有名ですね。

絵の題材にもなった江戸の火事や火消し。
絵の題材にもなった江戸の火事や火消し。

江戸の火消しは、かなり派手です。木造の家屋が立ち並ぶ街では、1度ついてしまった火はいかに早く燃え広がるのを防ぐかが命。延焼を少しでも防ぐため、火の先にある家はうち壊してしまいます。

後にはただ更地が広がるばかり。江戸では火事が起こるたびに、建物を再建していたわけですね。ここが、今回のお話のポイント。材木同士をくみ上げる時、釘を使います。日本の釘の歴史は古く、正倉院文書にもその記録が見られます。形は今私たちが一般的に使っている釘と、似ているようで少し異なります。現代の一般的な釘は洋釘と言って、丸い軸を持つ釘。対して日本に昔からあった釘は和釘と言い、太く角張った軸を持っています。洋釘は喰いこむ力が弱い分打ち直しなどの調整がしやすい一方、和釘は一度打ち込んだらしっかり材木に食い込んで、抜けにくいのが特徴です。

東京には今も江東区深川や木場のあたりにかつての材木場の名残がありますが、街の再建の度に多くの材木と、そして和釘が必要とされました。和釘は金属を熱して打ち鍛える「鍛冶」によって作られます。この大量に必要となった和釘の生産で栄えたのが、鍛冶の街、越後三条でした。

ここで心強い水先案内人をご紹介しましょう。市史を全巻読破されたという三条市役所の、澁谷さん。今や日本有数の鍛冶の街として名を馳せる三条の、その土台となった歴史物語を伺います。

「三条の街は、14世紀には、信濃川の水運を利用した市場が開かれ、都市が形成されていました。武士が活躍した時代には、軍事上も重要な拠点でした。17世紀に入り、平和な時代が訪れると、三条城は江戸幕府により取り壊され、武士は街を去ります。
武器に代わり、田畑を開く農具や江戸の度重なる大火により、膨大な和釘の需要を受け、鍛冶を専業とする職人が生まれ、集落を形成しました。また、河川を利用して全国に製品を届けた商人たちが、各地で発見した製品やニーズを持ち帰り、鍛冶職人に提案を行うことで、庖丁や鋏などさまざまな刃物を作るようになりました。三条は職人と商人たちが長い間、街を支えてきたのです」

信濃川と五十嵐川に挟まれた肥沃な新潟平野の一角に位置する現・三条市は、江戸よりはるか昔、なんと弥生時代の遺跡からも、農業が盛んだったこの土地で必要な道具を自ら作っていたと思われる、庖丁、砥石、鉄滓(てっさい)、鞴(ふいご)の羽口が出土されているそうです。そして興味深いことに鍛冶という職能について土地の文献に明記されるのが、先ほどの江戸の6割を焼いたという明暦の大火の頃と重なります。

「はっきりと鍛冶について記述されてくるのは明暦年間(1655年〜)以降です。明暦年間には領主・松平和守直矩の命令で18軒の鍛冶が集団移転し、三条に鍛冶町という地名が発生しました。万治元年(1658年)の万治検地町には鍛冶町の記載があります。またこの時代、農家は農閑期に和釘を作り、家計の一助としていたことが、三条の鍛冶は和釘が始まりと言われる所以です」

今では包丁から鉈、鍬や爪切りまで、日用や業務用の様々な刃物が作られている三条市。その産業としての鍛冶の起こりは、実はこの和釘作りから始まったとされるのが通説です。となると、江戸の火事が鍛冶の街三条を作ったとも、言える?

歴史の教科書ではほんの数行で、あるいは違うページで別々に語られていたかもしれないふたつの街のお話。ですが、江戸からはるか離れた地で、ある風土がひとつのものづくりを育み、それを商う人が現れ、水運を生かして全国を行脚する。一方で世界有数の人口過密都市になった江戸で、人口に追いつくように木造の建物が急増し、風物詩になるほど火事が起き、街を作り直す度に材料が各地から運ばれてくる。供給元の一つははるか北、越後三条に遡り、商人が持ち帰ってくる追加追加の注文に、やれ忙しくなってきたと鍛冶町が出来てくる。農家の農閑期の手仕事ができる。そんな物語が、ふたつの街の間に確かに存在していたようです。

あくまで「と言われている」「と思われる」のが歴史物語のお約束。三条の鍛冶の起源についても、和釘以外にも諸説あります。それでも。この間また火事があったばかりの江戸の街で、大工さんが急ピッチでトンテンカンテン和釘を打ち付けている。その脇を、先ほど無事品物を納めてきたばかりの三条の商人がさっと通り過ぎて、ちょっと蕎麦でもすすって帰路につく。そんな風景もきっとあったのかなぁと思うと、江戸の火事が越後の鍛冶を支えた、なんてうまいこと言おうとするのも、ちょっとは大目に見てもらえるような気がしてくるのです。


文:尾島可奈子

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