薩摩焼を代表する窯元「沈壽官窯」で手に入れたい白薩摩
エリア
作家・司馬遼太郎が通った、小さな村の窯元
工房を訪ねて、気に入った器を作り手さんから直接買い求める「窯元めぐり」。
今回訪れる窯元は、鹿児島県日置市にあります。鹿児島市内から西へ西へとバスに揺られて美山 (みやま) というバス停に降り立ちます。
すぐそばにあるのが、「沈壽官窯 (ちんじゅかんがま) 」。国の伝統的工芸品指定を受けている「薩摩焼」を代表する窯元のひとつです。
木々に囲まれた丘の上の工房は、窯元というよりさながら小さな美術館のよう。
大きく開かれた窓越しに、職人さんらしき人の姿が伺えます。
「朝の仕事は、社員全員でこの庭を掃除することから始まるんですよ」
出迎えてくれたのは沈壽官窯、営業担当の瀬川さん。
ぐるりと見渡すと、きれいに掃き清められた庭には小さな石碑が建っています。
「故郷忘じがたく候 文学碑」。
作家、司馬遼太郎が、現当主の先代にあたる14代沈壽官氏を主人公に綴った作品の、出版記念碑です。
タイトルにある「故郷」とは、はるか海の彼方にある朝鮮の地のこと。
ここ沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉による2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元です。
「初代をはじめ薩摩にたどり着いた陶工たちは、この美山の地が祖国に似ているとの理由で、この地に住みついたと言われています」
以来、沈壽官窯は島津家おかかえの御用窯として発展してきました。
沈壽官窯の代名詞、美しい白薩摩
「あれが白薩摩、あちらが黒薩摩です」
瀬川さんが窓の奥を示しながら説明してくれたのは、地元では白もん、黒もんとして親しまれる薩摩焼の種類。
中でも美しい白い器が、沈壽官窯の代名詞です。
「黒薩摩と白薩摩の違いは、土に鉄分を含んでいるかいないかの違いです。
鉄分を含んだ桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では、黒っぽい土ばかり採れていました」
「そこで島津家から白い焼き物を作れと命を受け、初代沈当吉たちは7年の歳月をかけて白い土を探したそうです。
ようやく見つけた白土で器を焼き、島津家に差し出すと、喜んだお殿様がその功績をたたえ、薩摩焼と名付けた。これが薩摩焼の始まりだと文献に残っています」
当時の日本は、朝鮮の美しい白磁器に強い憧れを抱いていました。しかし、鹿児島では磁器に適した土は見つからず、陶工たちは陶器で白い器を作ったのです。
喜んだ島津家はこれを独占し、民間には黒い器の使用だけを許しました。
こうして薩摩の地に、藩御用達の白薩摩と、庶民が使う黒薩摩が生まれます。
実は鹿児島には他にも白黒の対になっているものが多いのですが、薩摩焼はまさにその筆頭と言えます。その一部は「白黒はっきり鹿児島巡り。旅の秘訣は色にあり?」の記事でもご紹介しました。
御用窯の生きる道
工房はよく見ると、工程ごとに部屋が分かれています。これも実は島津家の「戦略」の名残だと聞いて驚きました。
「万が一陶工が他の藩に取られてしまった時に、分業制にしておけば器を完成させることができません。それで島津家は完全な分業制を窯に命じました。
今でもろくろを回す人はろくろを、絵付けの人は絵付けだけを生涯専門で行うのが、沈壽官窯の伝統です」
職人さんは、陶芸の学校を出て入門する人が大半とのこと。現当主である15代が、本人の希望とその仕事ぶりを見て任せる工程を決めるそうです。
成形で基本の形を作ったら、白薩摩は「透し彫り」や「絵付け」の工程に進みます。
「透し彫りは幕末から明治を生きた12代沈壽官が生み出した技術です。何種類もの道具を使い分けて、土がやわらかい内に表面に穴をあけていきます」
「形が整ったら、次は絵付けです。白薩摩の絵付けは、幕末の名君として知られる島津斉彬 (しまず・なりあきら) の命で始まりました。これを成功させたのも12代の時代です」
この繊細な透し彫りと絵付けの技術は、明治以降の窯の命運を助けました。
最大のお得意様であった薩摩藩がなくなったのち、沈壽官窯は海外の万博で美術工芸品として高い評価を受け、その名を世界に知られるようになったのです。
今回はその工程を、特別に中からも見学させてもらいました。
世界が称賛した透し彫り
透し彫りは土の乾燥を防ぐために、器全体は濡れたタオルやビニールを巻いて、必要な部分だけ露出させて行われます。
失敗の許されない絵付け
部屋の入り口には色見本のついた甕が置かれていました。
絵付けは、素焼きした器に色別に模様を描いたのち、窯で焼いて色を焼き付けます。
色によってきれいに発色する温度が違うため、色ごとに描いては窯の温度を変えて焼き付ける、を繰り返すそうです。なんて途方もない工程!
生き物は生きているように作る、飾り
先ほど透し彫りの部屋で飾りがついた器を見かけました。伺った日に職人さんが取りかかっていたのは、タツノオトシゴ。
こうした飾りは設計図があるわけではないので、図鑑などを参考にしたり、時には実際に見に出かけたりもするそうです。
二つの国のあいだで
施設をぐるりと巡ったところで、瀬川さんに「訪ねてきた人にどんなところを楽しんでほしいですか?」と伺いました。
「もちろん技術も見てほしいのですが、何より、この空間そのものを楽しんでもらいたいですね。
ここは日本のような、朝鮮を思わせるような、不思議な空間だと思います」
「初代がここに窯を築いた当時、島津家は陶工たちに朝鮮で暮らしていた通りの生活を命じたんです。ですから今でも朝鮮式の呼び名のついた道具なども残っています」
「それは焼き物の先端を行く朝鮮の器づくりを取り入れる目的ももちろんありますが、もう一つ、彼らや彼らの子供達を、日本語も朝鮮の言葉も話せる通訳として起用する狙いがあったようです。
そのために、もともとの民俗風習を忘れさせないようにしたんですね」
この場所では、何を見ても何を聞いても、あらゆるものが歴史の中の物語につながっていきます。
美術工芸的な器を作る窯元さんも見てみたい、そんな思いで訪ねた沈壽官窯でしたが、単にものづくりに触れるだけでなく、足元に流れる歴史を肌で感じるような、そんな感覚に終始浸っていました。
歴史の中の器を、暮らしの中に持ち帰る
最後は併設の売店でお買い物を。
私でも買えるものもあるだろうか‥‥とドキドキしていましたが、お土産に買って帰れる手頃な価格のものも多く揃っていました。
「現在は白薩摩と黒薩摩、半々くらいでお作りしていますが、お土産としてはせっかくなので、元々の沈壽官窯を代表する白薩摩がおすすめですね」
一番人気は大きめサイズのマグカップ。金の縁取りがあって4000円台と、白薩摩のなかでは手頃な価格なのも、人気の理由だそうです。
そんな陳列の向こうに‥‥
腰掛けていらっしゃったのはなんと、14代その人。
売店でお土産を購入した方に、お礼としていつも、名前入りで品名を一筆書かれているそうです。
どちらからいらっしゃったんですか、と気さくに声をかけてくださり、少しお話を伺うことができました。
「時代の影っていうのが、焼き物にも差すんですよね。
明治維新によってそれまで大名のものだった薩摩焼が、外国にも輸出され、一般の方にも手にとっていただけるようになりました。
陶工生活60年、こうして居ると、自分の作ったものがあの人の部屋にいって、今頃使われているかなと、色々思うことがあります」
当主を息子さんに譲られた今でも、建築現場を通りがかると、いい土が出ていないか、とつい足を止めて見入ってしまうそうです。
「420年、ずっと異邦人です。それがあるからかえって、焼き物に打ち込めるのかもしれませんね」
3回目となる窯元めぐり。
歴史の中を生きてきた器を、暮らしの中に持ち帰るという、稀有な体験をしました。
<取材協力>
沈壽官窯
鹿児島県日置市東市来町美山1715
099-274-2358
http://www.chin-jukan.co.jp/
文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、鹿児島市、公益社団法人 鹿児島県観光連盟
※こちらは、2018年1月20日の記事を再編集して公開しました。