フィギュアスケート選手からの転身。若きブレード研磨職人の妙技
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平昌オリンピックが開幕しました。
「さんち」では、人気競技フィギュアスケートに欠かせない、スケート靴の刃「ブレード」に注目。
昨日から前後編に分けて、ブレード研磨職人の櫻井公貴 (さくらい・きみたか) さんにお話を伺っています。
前編でわかったのは、ブレードの研ぎ方が演技の成否を大きく握っているということ。幅わずか4ミリの世界です。
今回はいよいよ、ブレード研磨の瞬間に立ち会います。
>>前編はこちら:「平昌五輪、フィギュアスケート。選手の個性はブレードに宿る?」
依頼は年間500足以上。ブレード研磨とは?
通常、ブレード研磨は住んでいる地域のスケート用品専門店に頼むことが多いそう。お店に研磨の設備が併設されているのです。
ですが櫻井さんが研磨を担当する横浜のお店には、全国のみならず時には海外から、研磨の依頼が舞い込みます。
その数、年間で500足以上。2人のアシスタントと共に、次々とやってくる依頼をこなしています。
「靴やブレードの状態は、一つひとつまるで違います。それぞれの個体にあわせて研磨していきます」
ブレードの刃は、わずかにU字にくぼんでいます。実際に氷の上を滑るのは、ブレード全体ではなく左右のエッジの部分のみ。
このエッジが氷との摩擦で削られて滑りにくくなるのを元に戻すのが、研磨の仕事です。
「刃を研ぐというのはブレードの中ほどを研ぐ感じです。中を研いだ分、U字の左右の頂点、つまりエッジが際立ちます。
エッジをどんな状態にするかが、人によって違うんです。
例えば包丁は一番よく切れる状態がベストですが、フィギュアのブレードの場合は鋭ければいいというわけではないんですね」
前回のインタビューではちょうど羽生結弦選手や宮原知子選手を例に、研ぎ方は個人の好み次第、と伺いました。
年間500足もあると、いろいろなリクエストがありそうです。いったいどんな研磨の依頼があるのでしょうか。
研ぎの好みは料理と同じ
「実は『滑りやすいようにお願いします』ってオーダーが一番多いですね (笑)
でも滑りやすく感じる研ぎ具合って、人それぞれにまったく違うんです。
料理と一緒で、いつでも同じ味を出したいと思うように、シーズンを通してずっと安定していいものを出していきたい、というのが本人の願いです。
でも料理だって家庭ごとに味が違いますよね。
だから季節や本人の好みにあわせて、同じ人のブレードでも研ぎ方を変えていったりします」
一体どのように研ぎ具合を調整するのでしょう。まだメーカーから届いたばかりの新品ブレードを使って、研磨の様子を見せていただきました。
火花散る研磨の現場
研磨は機械研ぎと手研ぎの2段階に分かれます。
大きな機械音が鳴り響くこと数分。
この機械研磨でまず、U字の溝の深さが大まかに決まり、エッジの左右にバリ (引っかかり) が生まれます。
「今はまず、氷と接する面に引っかかりができた状態です。次の手研ぎでこの引っかかりを狙った鋭さ、形に整えてきます。
氷の上を滑るレールのように、エッジを作っていくんです」
場所を移動して、次は手研ぎへ。作業の合間合間に、印象深いお話を伺いました。
試合本番で、心強い相棒となるように
はじめに「研ぎは個人の好みに合わせて」と語っていた櫻井さんですが、なんとその人が次にどのリンクで滑るかによっても、この手研ぎで微調整をするそうです。
「リンクによって氷の状態が違うんですね。
中身がしっかり詰まっている固い氷もあれば、リンクの温度が低すぎて表面がぱりぱり割れてしまう場合もある。
ジャンプを飛ぼうと思っても氷にはじかれちゃって飛べない、ということもあるんですよ。
だから選手は試合前の公式練習で氷の感じを確かめて、身体の感覚をそこに合わせていくんです」
当日になってみないとわからない、リンクの状態や自身のコンディション。
そんな中で「いつもと同じ」味を出してくれるスケート靴の存在は、選手にとって相当に心強いはずです。
「選手にはよく、試合のために頑張れるのであれば、道具に対しても意識を高く持ってと言っています。
自分の好きなブレードの消耗具合があるんだから、それを見越して研磨にきてねと」
「時々、大会2、3日前になって不安から『刃が上滑りしているんじゃないか』って研ぎを頼みに来る子がいるんです。
それで刃をいじって調子をかえって狂わしては、もったいないですからね」
そう櫻井さんが説くのは、自身にも身に覚えがあるからでした。
「選手って案外そういうところには無頓着だったりするんです。自分もそうだったんですけど」
実は櫻井さん、大学時代には全日本選手権にも出場経験のある、元フィギュアスケート選手なのです。
選手時代に出会ったブレード研磨の世界
研磨との出会いは選手時代にありました。インストラクターとして指導を受けていたのが、坂田清治 (さかた・せいじ) さん。
かつて浅田真央選手から靴の相談や、キム ヨナ選手からブレード研磨の依頼も受けたという、ブレード研磨のプロフェッショナルです。
櫻井さんが研磨をおこなう工房は、もともと坂田さんが自身のフィギュアスケート専門用品店の中に構えたものでした。
櫻井さんは学生時代から坂田さんについて、このお店で研磨を手伝っていました。
その後、大学卒業と共に選手生活を終え、ご実家の精密機械工場に就職。
ところが就職して6年ほどたった頃、研磨の仕事が忙しくなってきた坂田さんから、手伝ってほしいと声がかかりました。
「学生時代は仕上がりの精度に差しさわりがない範囲での手伝いでした。
みっちり坂田の下で研磨を教えてもらったのは社会人になってからですね。
坂田が病気で倒れるまでの、ちょうど1年間でした」
ブレード研磨のバトンは、思ってもみないかたちで櫻井さん一人の手に受け継がれることに。
まさに技術を教わっていた最中に、師事すべき人が現場から離れざるを得なくなってしまったのです。
突然の世代交代
突然、櫻井さんが主担当として研磨を行う日々が始まりました。今に続く、ご実家の工場と研磨の、二足のわらじ生活です。
「それでも1年間、坂田の仕事をそばで見ながら学んだことで、ある程度の基礎はつかんだ手応えがありました」
「実家で精密機械を動かしたりパーツを組み立てていく技術や感覚を持っていたのも幸いでしたね」
「あとは自分の経験と、他のお店の方の意見も取り入れながら自力で技術を構築していった感じです」
突然の世代交代から5年。
海外からもわざわざ依頼がくるほどの腕前を支えたのは、選手時代の経験でした。
試合まであと2週間。研磨職人の腕の見せどころ
「選手が試合に向けて研磨を持ってくるのはだいたい2週間前くらいです。
通常だと、エッジに少し余分なバリを残して仕上げるんですね。
試合までの2週間の練習でだんだんバリが取れていって、刃を守りながら試合本番の頃に一番本人が滑りやすい状態に持っていけるようにしています」
しかし「一番滑りやすい状態」は、人によって千差万別。
そのため来店時に、次の試合の予定や開催場所、前回の研磨がどうだったかなど、本人の好みや使用状況を細かく聞いていきます。
あとは全て、経験に基づく想像の世界。
あのときはこう研いでもらったから滑りやすかった、あのリンクなら氷はこんな感じだろう。
それらを依頼者の意向と擦り合わせ、試合までの日数を計算し、目指す刃の姿をイメージしていきます。
「もし依頼が試合直前であれば、バリも全部落としてすぐに滑れるようにしてしまいます。
今ちょうど、大会にすぐ滑れるような尖ったエッジの状態に研いでみました」
「見た目にはとてもわかりづらいんですが、氷の上で滑るとなめらかさが全く違うんですよ」
これは手で触ってみるとはっきりとわかりました。機械研ぎ、手研ぎを経て、ブレードの両サイド、エッジの部分の輪郭がどんどんはっきりしています。
感覚のスポーツ、フィギュアスケート
「でも、エッジがあまり尖らず丸い方が滑りやすい、という子もいます。
大事なのは、その子のフィーリングに合わせて刃の具合を整えてあげること。スケーターにとってはエッジが浅い、深いという事実よりも、感覚が全てなんですね。
氷に降りた一瞬の気持ちよさ。それでテンションがばぁっと上がってくれれば。
上がった時のジャンプって、飛べるんです。なにより自分が、そうでしたからね。
選手からのフィードバックですか?
『特に問題なかったです、またいつもと同じ感じでお願いします』っていう子が多いかな (笑) まぁ、便りがないのがいい知らせです」
実は取材中、撮影のためにブレードを数種類並べていたら、テーブルに駆け寄ってきた方がいました。ちょうど研磨を頼みに来ていた若い女性でした。
「趣味ではじめて、気づいたらもう10年滑っています。
そろそろブレードを変えようかなと思っているんですけど、これだけの種類を見られるのもなかなか無いので。ちょっと、見てもいいですか?」
ブレードを見つめる目がとても真剣で、何より嬉しそうです。
ファントムかゴールドシールあたりかなぁ、と候補に考えているブレードの名前を彼女が挙げると、
「今、コロネーションを使っているなら、次はパターン99 (ナインティナイン) かファントムを間に入れるのがいいですよ」
とスタッフの女性がアドバイス。
「そうですね、ゴールドシールは本当に、選手用って感じだもんなぁ」
話しているうちに、頼まれていた研磨を終えて櫻井さんが工房から戻ってきました。
「では滑って違和感なければ、この研ぎ方で続けてみましょう。また様子見て、持ってきてください」
安心した様子で身支度をする女性に、普段頼んでいる研磨のことを伺ってみました。
「固い氷をぐっと噛んでくれるのがいいとか、今度の試合はここなので、というと微調整してくれるんです。
研磨の後の感覚ですか?もう、全然違いますね。
今までこんな平らな刃で滑ってたのかって、氷に乗った瞬間にわかるんです」
氷上の華、フィギュアスケート。
オリンピックの舞台に立てるスケーターはほんの一握りですが、あの美しい世界に魅せられ、子供の頃から選手を目指す人、大人になってスケートを始める人が、全国に居ます。
今でも時おり滑りに行くという櫻井さんも、氷の上で滑る楽しさを知っている一人。
よき理解者に足元をしっかり磨き上げられて、氷上のスケーターたちは今日も、自分の一番気持ち良い滑りを楽しんでいます。
<取材協力>
アイススペース株式会社
神奈川県横浜市神奈川区広台太田町4-2 ベルハウス神奈川202
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文・写真:尾島可奈子