『羊と鋼の森』を観たピアノ調律師の確信。「私の求めた“音”は間違いじゃなかった」
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島村楽器の調律師・中野和彦さんを訪ねて
ピアノの“音”を創る職人がいる。映画『羊と鋼の森』で注目を集めたピアノ調律師だ。
本屋大賞を受賞した宮下奈都さんの小説『羊と鋼の森』を実写映画化したこの作品は、ある一人のピアノ調律師と出会った主人公の青年が、険しい調律の森へと迷い込みながらも、人として、調律師として成長していく静謐で美しい物語である。
ピアノの音は目に見えない。形などなく、触れることもできない。けれど、確かにそれはそこにあり、音という色を纏わせて、人の心を揺さぶるほどの力を秘めている。
ときに優しく、ときにキラキラ輝くように。
実際、ピアノ調律師は何を思い、迷い、どのように音を生み出すのだろうか。
いい音とは、何か?
「私はあの映画を観て本当に感動いたしました。
我々の仕事が細かく再現してあることはもちろんですが、劇中に流れるピアノの音色を聴いたとき、私がこれまで追求してきた“音”は間違いじゃなかったと心から思えたと同時に、自分の音色を確認でき、強く感動したことを覚えています」
そう語るのは1962年創業の総合楽器店「島村楽器」のピアノセレクションセンターで活躍する調律師の中野和彦さん。この道30年以上のベテランだ。
調律師の養成学校を卒業後、「調律のためにはピアノそのものを知らなければいけない。ピアノを作ってみたい!」と単身渡独。
ドイツ語はまったくしゃべれない。曰く「熱意だけで」ピアノの製造工場への就職を決めた。その後、師匠となるピアノマイスターと出会い調律の奥深さを学ぶ、という異色の経歴の持ち主である。
「私が追求してきた“音”は間違いじゃなかった」。中野さんが嬉しそうに語るこの言葉の奥底には、映画の主人公も悩み苦しんだ調律師としての大事な命題があった。
いい音とは、何か?
ここから調律師の普段の仕事について紐解いていこうと思う。
0.01㎜の差で音色は変わる
「そもそも調律師の主な仕事には整調、整音、調律の3つがあります」
「整調」とは簡単にいえばピアノを組み立てるパーツのメンテナンスとその動きの調整。
「車にたとえるなら機械整備にあたる部分ですね」と中野さん。
たとえば鍵盤調整。
鍵盤の高さや深さ、バランスを調節し、動きをスムースにするための大事な工程だ。鍵盤を持ち上げると緑のフェルトがあり、その下にはパンチングと呼ばれる丸い紙が挟まれている。
これは鍵盤の高さを調節する道具の一つ。
この厚さを変えることで鍵盤の沈む深さが変わり、自ずとタッチ(弾き心地)も変わる。1㎜にも満たない極薄の紙がピアノの音色を変えるというのだ。
また「整音」は、音量や発音のバランスを整える工程。中野さん曰く「ピアノの音をフォルテまできっちり出せるようにすることが大切です」
整音のカギとなるのがハンマーだ。ピアノは羊の毛で作られたハンマーが弦を打つことによって音が出る。
88音のすべてにハンマーがついていて、ピアノ1台につきおよそ3頭分の羊の毛が使われているという。
そして、このハンマーの質もまた音色を変える。毛並みや弾力、硬さ、羊毛の圧縮率から木の素材に至るまで考慮して調整することが必要で「とにかく大変な‥‥いえ、整音もまたやりがいのある工程です」と中野さんは笑う。
分からない。だからこその不安と苦しみ
「ただひたすら、コツコツ努力を重ねるしかありません。経験を積み、自問自答し、さらに技術と感覚を磨く。
でも最終的に出てくる音、そのピアノの個性を決定づけるのはやはり『調律技術』。ここですべてが決まります」
大事なのは平均律に合わせて音律を整えること(音程を合わせること)、ピアニストが弾いても音が狂いにくいように音を留めてあげること。そして響きと音色を創ること。
「はじめの2つは調律学校を出て、ある程度経験を積めばできるようになります。
自動車に例えるならば、免許取得=公道を走れることに似ている気がします。けれども、上手な運転というのは教習所を卒業しただけでは身につかない。
調律師も同じで、日々の研鑽が必要なんです。私の場合は、20年くらい経ってようやく自分に自信が持てるようになったかな、と(笑)。
でも、自分がどんな音をつくればいいのかはずっと分からないままでした」
そもそも美しい音色ってどんな音?どういう音が、正しいのだろうか?
──『羊と鋼の森』のなかで、青年も同じように苦悩する。そして尊敬している調律師はこう言った。
「この仕事に正しいかどうかという基準はありません」
調律師が10人いたら、10人の音色がでるという。そこに基準などない。でも、だとしたら一体どこに向かって音を創ればいいのだろう。
「毎日、毎日調律をして見つけたと思っても、翌日には違うと思い報される。毎日が自問自答の繰り返し。30年間は本当に不安と苦しみの連続でした」
大切なのは、ピアノが自然に響くこと。
長い調律師人生において中野さんは、何度もピアノから離れようとしたという。でも結局、辞めることはできなかった。
「やっぱり、いい音が何なのかを知りたかったから。どうしても掴みたかった。いい音を掴むまでは辞められないと思ったんです」
ある日、ショールームに響きわたるピアノの音に衝撃を受ける。それは同社を引退した大先輩がたまたま来社し、調律したピアノの音色だった。
「同じピアノなのに、僕が調律したのとはまったく違う音でした。透き通るような、広がるような、伸びやかな音。この世のものとは思えないほどの音色に感動しましたね。なんていうか、命に響いたんです」
それまで中野さんはスタインウェイはスタインウェイ、ヤマハならヤマハと、メーカー別に、そのピアノの個性を決めつけていた部分があった。でも、衝撃の音色を聞いて、それは間違いであることを知ったという。そしてあることに気づく。
追求すべきは「基音」である、と。
簡単にいうならドならドの、ソならソの、その音そのものの純粋な音のみを引っ張り出して揃えてあげること。そのピアノにとって無理のない音を出し、ピアノを自然に響かせてあげること。
そうすると濁りのない、澄んだ音になる。そんな基音を追求しなくてはならない。
大切なのは「響き」である。
「どこまでも、どこまでも響くような、透明感のある音。言葉で言い表すのはとても難しいですね(笑)」
「そのピアノで一番いい響きを出してあげること。響きをきっちり出してあげると、自然とそのピアノのもつ最上の音色が出てくる。いまはそう思います。
でも、もう少ししたらまた違う、なんて思ったりするかもしれない。永遠に答えなんて出ないでしょうね。でも、今はそれを追いかけるのがとても楽しいんです」
さて。
そんな調律師の厳しい世界を支える道具たちは、何だかへんてこなものばかり。
反り曲がった板、ミシン針を何本も射した棒っきれ、謎の形をしたドライバーのような道具……
一体、どうやって使うのだろう?
その答えは、後編でゆっくりと。
<取材協力>
島村楽器ピアノセレクションセンター
埼玉県さいたま市南区内谷5-15-3
https://www.shimamura.co.jp/shop/piano-selection/
文:葛山あかね
写真:尾島可奈子、「羊と鋼の森」製作委員会
引用文出典元:宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋 (2015)
*こちらは2018年7月13日の記事を再編集して公開しました。身近な楽器であるピアノにも初めて知ることがたくさんありました。改めて、奥深い世界です。