ピアノ調律師の仕事は、 100の道具を使いわけ、100万分の1の音色を創る。
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ピアノの“音”を創る職人、ピアノ調律師の仕事とは
映画『羊と鋼の森』で注目を集めた、ピアノ調律師の仕事。その日常は、一体どんなものだろうか。
前編では「島村楽器」ピアノセレクションセンターの調律師である中野和彦さんに、いい音とは何か?調律師ゆえの不安や苦悩などを伺った。
前編はこちら:『羊と鋼の森』を観たピアノ調律師の確信。「私の求めた“音”は間違いじゃなかった」
後編は、いい音を生み出す実践編。中野さんに作業場を見せていただくと、ピアノ調律師の仕事は、おびただしい数の道具が支えていることがわかってきた。
映画の中にもさまざまなアイテムが登場するが、実際のところ、ピアノ調律師はどんな道具を使い“羊と鋼の森”に分け入っていくのだろう。
繊細な仕事を支える“なにこれ?”な道具たち
早速、道具を披露してもらうと……なんだかへんてこなものばかり。
「これ。なんだと思います?」
まったく分かりません。
「ゲージです。グランドピアノのハンマーと弦の打弦距離を測る道具。先端から、針金の曲がった部分までの距離がぴったり45ミリなんです」
ピアノは羊の毛でできたハンマーが弦を打つことによって音が出る。打弦距離とはハンマーが弦に当たるまでの長さのことで、この距離によって音色や音質、音量なども変わる。
ピアノごとに数ミリ単位で調節するものの、まず基準値に合わせるための道具がこれ。一般的な定規では測りづらいためこうした形のゲージが便利なのだとか。
こちらはねじまわし。
ダンパー (足元についているペダルの一つ) を支えるダンパーブロックスクリュー (小さなネジ) を締める為のものだという。これ、その一箇所にしか使えない。
中野さんの道具は、たった一箇所のため、たった一つの工程だけに使うというものがほとんどだ。
次の道具もそうである。反り曲がった、使い古した板のような……これ、道具?
「決して不良品ではありませんよ(笑)。このカーブこそ重要なんです!」
中野さんが熱弁するように、これはハンマーの表面を削って調整するための大事な道具だ。
ハンマーは弦に直接当たるため、フェルト部分に弦の跡がついて硬くなったり、フェルトがこすれて摩耗する。当然ながら音色や音質にブレが生じ、ピアノのもつ自然な音が出なくなる。
それを調整するための道具である。表面にサンドペーパーがついていて、ハンマーの形状に合わせ、丸いカーブをつけながら削ることができるという、非常に理に適った道具である。もちろんこれも手づくりだ。
「またハンマーといえば忘れてはいけないのがピッカー。ハンマーのフェルト部分を刺して柔らかくする道具です」
「針を刺すことで、フェルトに空気を含ませて弾力をつけることができるんです。弾力がないと音が硬くなったり、つぶれてしまうのですが、これを適度に柔らかくすることで弾みがついてきれいな音になるんです」
市販品もあるけれど、「それだけでは正確な音創りができなかったので自分でつくってみました」と中野さん。全部で4種類を用意していた。
ちなみに針を刺す位置は音域や求める音質によって違うとか。高い音域の場合には真ん中より下の部分に針を刺し、弾力や伸びをつけたいときには上部分を刺すという。気が遠くなるような繊細で綿密な作業である。
恩師がくれた、角度の違うチューニングハンマー
ほかにも個性的な形のドライバーやペンチ、ピンセットなど、中野さんの鞄に入っていた道具は全部で100種類以上。いずれも思い入れのある道具ばかり。
「でもやっぱり、これは別格です」
取り出したのはチューニングハンマー。弦の張り具合を調節して音程を揃える、調律師になくてはならない道具である。中野さんが愛用していたのはドイツのヤーン製。年季の入った逸品だ。
「これは僕の恩師であるドイツ人のピアノマイスターがくれたもの。ご自分が使っていらしたものを僕に譲ってくれたんです」
実は中野さんはドイツから帰国した後、一度だけ、調律師とは無関係の仕事に就いたことがあるそうだ。それを聞きつけた恩師は、中野さんをもう一度ドイツに呼び寄せ、このハンマーをくれたのだという。
── そういえば映画『羊と鋼の森』でもチューニングハンマーはキーアイテムになっていた。尊敬する調律師が、悩める若き青年におくったのがまさにチューニングハンマーだったことを思い出す。
「たぶん、辞めるなよ、調律師を続けろよ、と言いたかったんだと思います。調律師にとって使いなれたチューニングハンマーは命みたいなものですから、それを自分にくれたというのは‥‥涙が出るほど嬉しかったですね」
しかもこのチューニングハンマー、一般的なそれとは少し違うとか。
「通常、ハンマーヘッドの角度は9°なのに対して、これは5°しかないんです」
チューニングの作業は、弦が巻き付いているチューニングピンにチューニングハンマーをはめて、前後に動かしながら音を調節していく。
「このとき、柄の角度が水平に近くなるため、微妙な手の動きを伝えやすく、より正確にコントロールできるんです」
中野さんの「宝物」である。
100万分の1の音色を創る
調律を始めると、それまで笑顔だった中野さんの表情がキュッと引き締まった。
ポーン、ポーン、ポーン。一定のスピードで同じ音を鳴らす。左手で鍵盤を叩き、右手でチューニングハンマーを操っている。
「音を決めるときに大切なのは、一度弦をグッと下げて、そこからゆっくり求める音に近づけていくこと。上から下げて合わせようとすると弦にたわみができて詰まった音になる。つまり、きれいに響かないんです」
ポーン、ポーン。1音源は3本の弦の音を揃えること(ユニゾン)で決まる。ラならラの、ドならドの、3本それぞれから基音を引っ張り出してあげるのだ。
ポーン、ポーン。ズレていた音が、次第に重なっていくのがわかる。
チューニングハンマーを握る手は動かしているというより、小刻みに震えているような状態だ。神経を研ぎ澄まし、感覚に近い動きで調律を行っているのだ。
「調律はコンマ何ミリという世界。微妙な動きで100万分の1の音色を見つけます」
ポーン。3本の弦が一つに重なり、その瞬間、音が伸びやかに広がった。透明感のある艶やかな音がスタジオ中に響いた。
調律師に一番必要なものとは?
──『羊と鋼の森』の終盤で、主人公の青年が先輩調律師に、こう尋ねる。「調律師に一番必要なものって何だと思いますか?」
中野さんはどうだろう。
「根気と探求心でしょうか。我慢して苦しみながらも、新しい音を目指して続けていくことですかね。
小説『羊と鋼の森』にもありましたけど、一つのものをこうでなければいけないと決めつけてしまうのは良くない。人それぞれ考え方があって、自分にとっては何がいいのか、弾く人にとってはどうなのか。自分の価値観と別の価値観を同時に追求しないといけません。
答えは出ませんね、きっと。ずーっと(笑)」
そして今日もまた、中野さんは調律という森へと足を踏み入れるのだ。
<取材協力>
島村楽器ピアノセレクションセンター
埼玉県さいたま市南区内谷5-15-3
https://www.shimamura.co.jp/shop/piano-selection/
文:葛山あかね
写真:尾島可奈子、「羊と鋼の森」製作委員会
参考:宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋 (2015)
*こちらは2018年8月9日の記事を再編集して公開しました。ピアノを弾くときは、職人の仕事に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。一音一音がより特別なものになりそうですね。