一楽・二萩・三唐津 茶の湯で愛された唐津焼

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佐賀 唐津焼

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。
肥前窯業圏において、歴史の中で茶の湯と深い関係を持ってきた焼き物があります。その名も「唐津焼」。かつて「一楽・二萩・三唐津」と格付けされ、茶の湯の中心で強く存在感を放っていた焼き物です。現在でも日本を代表する焼き物の一つとして名を馳せていますが、それは一時の衰退を乗り越える数々の努力や挑戦があってのこと。
本日は、そんな唐津焼の今までの歴史と、焼き物の枠に捉われない未来への挑戦をご紹介します。

茶の湯の中心に唐津あり

1592年の朝鮮出兵から数えて10,15年前の段階で、朝鮮から陶工が入ってきていた唐津には、すでに「古唐津」と呼ばれる焼き物が存在していました。朝鮮半島や南中国より陶技が伝えられ、全国に先駆けて釉薬(ゆうやく)のかかった焼き物がつくられていたのです。朝鮮陶工たちは日本初の「登り窯」と「蹴りろくろ」も伝え、波多氏の領地である岸岳の山にある窯でつくられた品質の高い唐津焼を、全国へと出荷していました。主に京都・大阪を中心とする西日本に広がり、東日本の「せともの」に対して「からつもの」と呼ばれるまでになっていたそうです。

その後豊臣秀吉の時代に、千利休により茶の湯が流行します。当時の茶席にも唐津の水指が用いられていたことがわかっており、茶の湯に欠かせない焼き物となっていました。「一楽・二萩・三唐津」と呼ばれ茶碗が格付けされていたことからもわかるように、唐津焼は茶の湯と切り離せない器となり、1615年までの慶長年間には最盛期を迎えます。ちなみに、「一楽・二萩・三唐津」という呼ばれ方が定着する以前には、「一井戸・二楽・三唐津」と呼ばれたそうで、唐津焼は時代を跨いで茶の湯の中で不動の地位を築いていたことが伺えます。強い主張を持たない「映り」の良さで特に茶道具として重用され、さらには一般雑器として、そして献上唐津と呼ばれる徳川家への献上品として、幅広く支持を受けていました。

27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。
27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。

こうして日本の陶器の礎をつくった唐津焼ですが、その後衰退の一途を辿ります。唐津の陶工が有田伊万里に流れていき、1616年に有田で磁器の生産がはじめられるタイミングを境に、肥前の焼き物は陶器から磁器へと推移していきます。陶器を生業としていた唐津焼は、徐々に肥前窯業圏での存在感を小さくしていってしまいました。その後の廃藩置県で藩の御用窯としての保護を失うことと合わせて、茶の湯を中心に栄えた唐津焼のかつての輝きは失われていきます。

十二代による陶技の復興

それでは現在のように名声を取り戻した、唐津焼の再興はどのようにして起こったのでしょうか。唐津焼の歴史を支えてきた中里家の、十四代中里太郎右衛門氏にお話を伺います。

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「唐津焼が再びかつての輝きを取り戻すのは、十二代中里太郎右衛門の尽力が大きかったと思います。古唐津の窯跡を発掘し、桃山~江戸時代初期の古唐津の技法を復活させることに成功したんです。元々「土味」と呼ばれていた粗くざっくりとした土の雰囲気、釉薬の流れの表現、深みのある色、その全てで素材に対する強い拘りを持つという唐津の本来の姿に回帰したのが良かったんですね」
藩の保護を失い衰退する中でアイデンティティを失いかけていた唐津焼を、十二代はかつて使用していた窯をつかいながら、昔ながらの古唐津のつくり方で本来の魅力を取り戻していきます。整いすぎない味わいが出せる蹴りろくろを用いた陶器の成形、従来は漏れ止めの役割しかなかった釉薬を用いた装飾、彩りの違う釉薬の意図的な使い分け、それら全ての手法の良さを見つめ直し、原点に立ち返りました。
「特に唐津焼は工程ごとの分業が主流となっていた肥前窯業圏の中で、全ての工程を一貫して同じ職人がつくるから、器により強く人間性を映すんですよ」と、十四代が教えてくれたように、伝統的な手法と十二代の個性が掛け合わされることで、唐津焼は再び唯一無二の存在となっていきます。

斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。

「その後を継いだ十三代である父は外国の技術を取り入れて、唐津焼のベースの上で新しい技法へとさらに挑戦を重ねていきました。魚の図案を多く取り入れたり、今までに無い切り口を唐津焼に付け加えていったんですよ」
そう言って見せてくれたスケッチブックには、たくさんのカラフルで美しい魚の図案が描かれていました。かつての唐津焼には見られなかった、独創的な絵柄です。伝統を守るだけではなく、積極的に、そして貪欲に進化させていく攻めの姿勢で、十三代は唐津焼の発展に大きく貢献しました。
こうして十二代で蘇った唐津焼のバトンは、十三代による新しいことへの挑戦というDNAとともに、十四代にしっかりと受け継がれていきます。

美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。
美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。

「過去をなぞるだけでは面白くないといつも考えますね。何かしら図案や形を新しく加えようとすると、力が湧いて良いものができると思っています。だから父親を特別意識したこともないですし、とにかく自分が良いと思う新しい挑戦を続けてきました」と、十四代は話します。炭化させて焼く方法も唐津の歴史には無かったことですし、白と黒の掻き落とし、青や緑の色使いも、今までにない新しい試みでした。それだけではなく、十四代は唐津焼の未来を見据え、従来の固定観念に捉われない新しい挑戦に次々と取り組んでいきます。

十四代が描く唐津の未来

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20年前は50窯元しかなかった唐津焼ですが、今では街をあげての唐津焼の魅力を発信する取り組みもあり、70窯元まで増えてきています。2012年からは、有田の陶器市と一緒に唐津やきもん祭りを5年連続で開催し、唐津に年に10万人もの観光客を集めることに成功。秋には窯元が点在する唐津を回遊させるために窯元ツーリズムもはじめ、産地全体を盛り上げる活動に取り組んでいます。
「唐津焼それ自体だけではなくて、他の何かと組み合わせた発信を意識してますね。例えば、2016年に唐津で行われたDINING OUT では、パリで最も注目されている渥美創太シェフの地域食材を使った料理に、このために作った器を合わせて提供するということをしました。唐津焼からは5つの窯元が参加したんです」
有田焼創業400年を記念して開かれたこの催しは、有田焼の歴史とその源流でもある唐津焼に対し「敬意」を持って見つめるRespectと、未来に向けて400年を捉え直すというRe(改めて)Spect(視点を持って見る)という意味を込めた「DO Re-Spect」をテーマに開催され、大きな話題を集めることに成功しました。

十四代の勢いは、それだけでは止まりません。「それに、唐津出身の篠笛(しのぶえ)奏者の佐藤和哉さんの演奏と、器の展示とトークイベントを合わせた催しもやりました。パリではお酒と合わせてやってみたんですが、これがとても反響が良くて。実は来年はバチカンでやりたいと思っているんですよ」と、大きな夢を持って唐津焼を、焼き物だけの枠にとらわれずに広めていく十四代。
「焼き物をつくるような気持ちで心を込めて唐津の街をつくりたい」と、十四代は考えています。4,5年後には唐津に古唐津を中心とした美術館をつくり、アジアに発信をしていく文化の交流の場所にするという計画があるそうです。日本だけではなく、海外進出も見据えて挑戦を続けていきます。

最後に、新しい挑戦へと十四代を突き動かすのは、どのような想いからなのか、伺ってみました。
「物をつくるうちに、物は表面に見えるだけの価値ではなく、中から出てくる価値だと自然と理解することができました。精進する気持ちで作陶することで、自然に即した在り方、生き方が一番良いと感じるようになったんです。それで、唐津の見える部分ではなくて中にある価値を、皆さんに興味を持ってもらえる形で広げて伝えていきたいと思ってます」
襲名した当初からの想いである、作陶だけに囚われない唐津焼を通した世界との結びつきを実践しています。
「それに、こういう活動をはじめてから、もうワクワクして仕方がないんですよ」と、十四代はキラキラとした目で最後にそう話してくれました。
唐津焼は、茶の湯の席を飛び出し、世界との結びつきを少しずつ増やしながら、唐津焼の伝統を守り、そして新しい唐津焼の歴史をつくっています。十四代がけん引する、茶の湯や作陶や日本国内といったあらゆる枠を打ち破るスケールの大きい挑戦から、今後も目が離せません。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

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