有田焼と波佐見焼の歴史と違い。1500文字でめぐる日本磁器誕生の歴史
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2016年、佐賀、長崎両県にまたがる肥前窯業圏が、日本文化遺産に登録されました。その歴史は日本磁器の誕生からおよそ400年を誇ります。
そんな日本有数の窯業圏の中で、2県の県境に位置する有田と波佐見の歴史には深い関係が。
同じルーツを持ち、江戸時代には有田で献上品としての磁器、波佐見では日常食器としての磁器が生産され、それぞれお互いの強みを活かしながら切磋琢磨してきました。
しかし2000年頃のある出来事をきっかけに、それぞれ別の道を歩むことに。一体何が起こったのでしょうか!?
肥前を代表する有田と波佐見のこれまでの歩みとこれからの未来に3話連続で迫ります!
チャンピョンとチャレンジャー
歴史を振り返る前に、まずは大きな流れを掴むために数字を見てみましょう。
有田焼は1991年のピーク時に肥前最大の出荷額330億円を誇りましたが、2015年にはその1/4程度にまで落ち込んでしまっています。
一方波佐見焼は、1991年の出荷額こそ220億円と有田焼に及ばないものの、2015年時点での落ち込みはピーク時の1/3程度にとどまっています。
さらに2014年から見ると2年連続の出荷額増で盛り返してきています。
肥前のチャンピオンとしての地位を守ってきた有田に対し、チャレンジャーである波佐見が今まさに勢いを見せているのです!
それでは早速、現在に至るまでの有田と波佐見の歴史を見ていきたいと思います。
日本磁器発祥の地。有田と波佐見の歴史的関係
2つの産地の歴史のはじまりは、およそ400年前にまで遡ります。
17世紀初頭の豊臣秀吉による朝鮮出兵をきっかけに、朝鮮陶工によって日本に磁器がもたらされました。
その中にいた2人の陶工こそ、李参平(りさんぺい)と、李祐慶(りゆうけい)。
元々李参平は佐賀の多久で陶器を焼いていましたが、より良い陶石を求めて、伊万里を経て有田にたどり着きます。
そして1616年、ついに鍋島藩内の有田の泉山(いずみやま)で良質の磁石鉱を発見、それが有田焼のはじまりです。
それとほぼ同時期に、李祐慶が波佐見で登り窯をつくり磁器の生産を開始したことにより、波佐見焼の歴史もはじまりました。
それはつまり、日本磁器が産声をあげた瞬間でした!
藩の管理下で開花した2つの磁器産地
江戸時代の窯業は、鍋島藩、平戸藩、大村藩といった藩の管轄下に置かれます。
有田焼は鍋島藩が有田の優秀な職人を囲って、繊細で華やかな絵付けを特徴とし、徳川御三家の献上品をつくらせていました。
一方の波佐見焼も大村藩の支援を受けながら白磁や青磁にあい色、淡色の絵付けを施したシンプルな磁器を基本とし、主に日用食器をつくりながら肥前の中核的な磁器産地に成長していきます。
1650年代になると、この2つの磁器は東インド会社を通して、ヨーロッパの国々に輸出されはじめます。
当時肥前の焼き物は伊万里港から海外へ積み出されていたため「IMARI」と呼ばれていました。
明治以降は鉄道の発達により出荷駅がある有田から全国に流通していたため、2つの産地の磁器は合わせて「有田焼」としてその名を全国に広めていきます。
そのため有田焼として流通したものの中には、実はたくさんの波佐見焼が含まれていました。
また、大量生産を得意とする波佐見焼の窯元や生地屋を有田焼も共有していたという背景もあり、同じ「有田焼」として密接に関係しながら歴史を刻んできました。
こうして2つの産地は売上を増やし続け、1980年後半のバブル期に最盛を迎えることになります。
そんな有田と波佐見に、2000年頃に激震が走ります!
他の産地で大きな問題となった産地偽装問題をきっかけとした、生産地表記の厳密化という波が突如押し寄せてきたのです。
産地を明記しなければならないことで、波佐見は有田焼の名称を使えなくなり、以降「波佐見焼」の名前で一からの再スタートを切ることになります。
同じ「有田焼」として歩んできた歴史に終止符を打ち、こうして有田と波佐見は別々の道を歩いていくことになったのです。
それではいよいよ次は、2000年頃の転換期を跨いだここ30年の歩みを、それぞれの歴史を知るキーパーソンからお話を伺いながら見ていきたいと思います。
第2話 「再興のキーは「先人の教えからゼロへの転換」 有田焼30年史に学ぶ」はこちら
文:庄司賢吾
写真:菅井俊之
※2017年2月1日の記事を再編集して掲載しています。