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京焼・清水焼とは
茶碗もオブジェも「全て手作業」を貫く、400年の歴史と技
京焼・清水焼の基本情報
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工芸のジャンル
陶器・磁器
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主な産地
京都府京都市
京焼・清水焼 (きよみずやき) とは
京都の窯で作られる陶磁器全般を指す (ただし、楽焼は除く) 。当初は、東山エリアを中心に茶陶として作られたものを「京焼」、清水寺の参道である清水坂・五条坂エリアで作られたものを「清水焼」と呼んでいたが、400年の歴史の中で生産地域が広がり、技法が多様化したことにより全体の総称として使われるようになった。
決まった技法やデザインはなく、原料の土や石も他産地のものを取りよせて作陶される。京都は、継承されてきた繊細な絵付けや優美な造形と、各地から取り入れられた時代ごとの新しい技芸が共存する稀有な地域だ。特筆すべきは、現代も手仕事にこだわり続けている点。高い技術と多様性を持って発展を続けていることが特徴と言える。
特徴と使われ方
原料や技法に制限を設けない京焼・清水焼だが、唯一の決まりがある。それは、轆轤 (ろくろ) も絵付けも全て手作業で行うということ。このアイデンティティを守りながら、窯元や作家ごとの個性が発揮された作品が作られている。
茶道具や高級食器に加え、日常使いできる器、置物やオブジェなど鑑賞のための作品も多数作られる京焼・清水焼。日常に彩りを添えてくれる器として、芸術鑑賞の機会として楽しめるものとなっている。
「京焼・清水焼」の歴史
古くから都であった京都は、流通の中心地であり、中世の頃には瀬戸・常滑・備前・信楽などの国産陶器や中国・朝鮮からの陶磁器が大量に流入する場であった。平安京の時代から須恵器などの生産は行われていたが、登窯によって陶磁器が作られ始めたのは桃山時代から江戸時代初頭の頃。商人が全国から職人を京都へ呼び、各地の焼き物を作らせた。茶の湯の流行とともに、茶道具や器が作られるようになり、茶人を中心に公家や大名などに献上されるまでに発展した。
江戸時代
京焼・清水焼の芸術性の歴史においては、江戸時代になると野々村仁清や尾形乾山などの名工が現れたことにより、その価値は高まりを見せた。さらに18世紀後半には、奥田頴川 (おくだ えいせん) が磁器焼成に成功し、京都の陶芸技術に新風を吹き込んだ。
一方、民衆の間での焼き物としては清水寺との関係性が挙げられる。清水寺の参道であった清水坂・五条坂エリアは、江戸中期頃に清水寺の門前として賑わい、参拝客などへの土産物として焼き物が作られ販売された。当時は地元の土で作られていたため、その土が縁起物として喜ばれたという側面もあった。
幕末・明治時代
明治維新により、京都の窯業も大きな打撃を受けた。東京遷都や廃藩置県によって、公家や諸大名などそれまでの需要層を一気に失うこととなった。1869年 (明治2年) には、勧業場を設けて産業振興を図り、欧米の陶芸技術も積極的に取り入れた。また、輸出用の製品に力を入れた時期もあったが、成功は長続きせず、伝統的な高級品へと回帰することとなった。
大正時代以降
大正時代になると、清水坂・五条坂周辺が手狭になり、新たに日吉と泉涌寺エリアに拡大した。これらの土地が選ばれたのは、清水坂・五条坂に近かっただけではなく、登り窯を作るのには傾斜地が必要だったためと言われている。
この時期、他産地では大規模な工場が開設され、機械による日用品の量産が次々と開始された。職を追われた優秀な職人たちは京都に移住。京都の工房や工場は小規模なものが主体であったが、高度な技術や茶道具などが生産され続けた。
大正期は、個人の芸術性が追求された時代でもあった。民藝運動が柳宗悦によって提唱され、陶芸にもスポットがあたった。河井寛次郎や富本憲吉がこれに参画。京都に居を定めた富本は「新匠美術工芸会」を設立。1927年 (昭和2年) には、石黒宗磨も京都で本格的な作陶を開始した。移住してきた職人たちとともに優れた陶芸家が京都に集まり、窯業基盤が拡大したことも、京焼きにおける芸術運動の高揚に繋がった。
太平洋戦争後、京都の陶芸を牽引したのは、六代清水六兵衛と楠部彌弌 (くすべ やいち) であった。六兵衛は、1948年 (昭和23年) に「京都陶芸家クラブ」を結成。彌弌は1953年 (昭和28年) に「搏埴会 (はくしょくかい) 」を結成し、さらに若手作家を集めて「青陶会」を作り、後進の指導に務めた。両者の指導により多くの陶芸家が育ち、現代京焼の礎となった。
加えて、人間国宝に認定された富本憲吉、石黒宗磨 (むねまろ) 、近藤悠三、清水卯一らを中心に、伝統技術に基づく新しい作品作りが行われ、その作品が日本伝統工芸展に発表されていく。また、前衛的な陶芸政策を思考する作家も現れ多様な作品が生まれ、広がりをみせた。
現在の「清水焼」
現在、清水焼の窯元の多くは山科区に集中している。工業団地として造成されたこの場所は「清水焼団地」と呼ばれる。また、京都市内からは離れた宇治市の炭山地区にも多くの窯元が存在する。これらの多くは、1960年代〜1970年代にかけて、清水坂・五条坂、日吉・泉涌寺から移転した窯元である。
移転の理由として、大気汚染防止法 (1968年) と京都府公害防止条例 (1971年) により、登り窯から出る煤煙 (ばいえん) が公害視され、周辺に多く住宅が建っていたため登窯を使い続けられなかったと説明されることが多いが、窯の新設や作業スペースの拡大など、消費の増大に合わせて生産性を上げたかった、という事情もあったようだ。
清水坂・五条坂の窯が使われたのは1980年が最後となったが、この時に窯が火元とみられる火災が起き、近隣住民から廃止を求める署名が提出されたことが登窯廃止の大きなきっかけとなり、電気窯やガス窯を中心とした現代の窯元が形成された。
現在の京都には、京焼・清水焼の技術を学べる学校や清水焼団地の就業を通じて修行できる環境があり、全国から京都に陶芸を志す若者がやってくる。多様で芸術性の高い京都でつくられる焼き物は、現在も日々新たな作り手によって生み出され続けている。
<参考資料・情報提供>
・岡佳子 著『近世京焼の研究』思文閣出版(2011年)
・岡佳子 著『日本のやきもの 窯別ガイド 京都』淡交社(2003年)
・織田尚文 編著『文化政策と臨池まちづくり』水曜社(2009年)
・中ノ堂一信 著『京都窯芸史』淡交社(1984年)
・京都陶磁器会館
http://kyototoujikikaikan.or.jp/
(以上サイトアクセス日:2020年2月18日)
<関連の読みもの>
いま、若手陶芸家が京都を目指す理由
https://sunchi.jp/sunchilist/kyoto/94309
清水焼が清水以外でも焼かれているわけ
https://sunchi.jp/sunchilist/kyoto/94300