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やちむんとは
「ゆいまーる」の精神に支えられた歴史と現在
沖縄でつくられる焼き物の総称「やちむん」。
質実剛健なうつわもあれば、南国感溢れるカラフルな絵柄のものもあり、沖縄の人々の日用雑器として、観光客のお土産として親しまれてきました。
沖縄のお酒「泡盛」を飲むためだけの酒器の数々、泡盛を寝かせるための甕など、沖縄ならではの種類も。
今回は、沖縄の「ゆいまーる(沖縄のことばで相互扶助の意味)」な精神に育まれてきた、やちむんの歴史や特徴、豆知識についてご紹介します。
<目次>
・やちむんとは。多様な技術を吸収してきた沖縄の焼き物文化
・ここに注目 沖縄の風土に育まれた色・かたち
・やちむんとかたち:「カラカラ」「チューカー」「ゆしびん」とは?
・やちむんと色
・やちむんとデザイン 今も愛される魚紋
・やちむんといえばこの人。人間国宝 金城次郎
・やちむんの豆知識 泡盛とやちむんの美味しい関係
・やちむんの歴史
・やちむんの現在
・ここで買えます、見学できます
・やちむんのおさらい
やちむんとは。多様な技術を吸収してきた沖縄の焼き物文化
「やちむん」とは琉球(現在の沖縄)のことばで「焼き物」をあらわし、やちむんの「やち」は「焼き」、「むん」は「物」を意味している。
やちむんは琉球王国が東南アジア諸国との交易をしてきた過程で生まれた焼き物で、多種多様な技法を吸収しながら育まれてきた。そのため、どこか特定の窯、技法を指すものではなく、多様なデザインや造形のプロダクトがある。
その中でも、やちむんを代表するのが、沖縄県那覇市壺屋地区を中心に焼かれる「壺屋焼(つぼややき)」。壺屋焼には大きく分けて「荒焼(あらやち)」と「上焼(じょうやち)」の2種類がある。
「荒焼」は琉球南蛮焼ともいわれ、釉薬をかけずに1,100度前後で焼き締めたもので、陶土の生きた表情が魅力的。一方で、「上焼」は絵付けや線彫りなどで文様付けし、釉薬をかけて1,200度以上の高温で焼き上げたもので、今日では沖縄の焼き物の主流とされる。
ここに注目 沖縄の風土に育まれた色・かたち
朝鮮半島、中国、日本や南方諸国からの焼き物技術を取り込み、沖縄の風土に合わせて発展させてきたやちむん。泡盛専用の酒器には祝いの席用や携帯用など用途によって様々な形が存在する。その他にも遺骨を納めるための厨子甕(ずしがめ。ジシガーミとも呼ばれる)など、沖縄独特のものづくりが今に伝わっている。
やちむんとかたち:「カラカラ」「チューカー」「ゆしびん」とは?
やちむんは沖縄の風土、人々の暮らしに合わせて様々な用途の形が生まれてきた。特徴的なのが泡盛を飲むためだけにつくられる酒器の数々。
振るとカラカラと音がなることからその名がついたとも言われ、座りのよい丸い形でじっくりと酒を酌むのにいい「カラカラ」。ひょうたんのような独特の形で、めでたい席で酒をもつのに用いられる「嘉瓶(ゆしびん)」。胴体に紐を通して肩から下げられる携帯用の酒瓶「抱瓶(だちびん)」。沖縄の方言で「急須」を意味し、酒や茶を入れる「チューカー」。貴重な古酒を飲むときに用いられる小さなお猪口などがある。
また、沖縄では遺骨を納めるための容器にも、やちむんが用いられてきた。「厨子 甕(ずしがめ)」と呼ばれる骨壺である。
かつての沖縄では洗骨といって遺体を墓内や洞窟に数年ほど安置し、その後に骨を洗い、厨子甕に納めて墓の中に安置し供養していたという。明治時代以降、沖縄でも火葬が推奨されるようになると、1970年ごろには洗骨の風習はおよそなくなったが、厨子甕は今も祖先の骨を納めるのに使われている。
やちむんと色
やちむんの個性を際立たせる要因のひとつが、地域で原料を調達してつくられる独特な釉薬にある。代表的な釉薬としては「シルグスイ」と「オーグスヤー」の2つ。
シルグスイはサンゴを焼いてできる消石灰に籾殻を加えて20時間ほど焼成し、具志頭(ぐしちゃん)白土と白化粧土を加えた透明釉。
オーグスヤーはもみ灰に真鍮を混ぜ水を加え、団子状にしたものを1,000度から1,100度で焼成。そうしてできた「セージモト」に土灰、具志頭白土、透明釉を混ぜてつくる緑色の釉薬である。
この他にも、ニービ(砂岩石の一種)とマンガンを主原料とした黒色の釉薬「クルグスイ」、クルグスイをもとにつくられる飴釉薬「アカーグゥー」、サトウキビの灰からできるキビ乳白釉薬「ミーシルー」。明治以降に輸入された酸化コバルトを原材料とした、鮮やかな青の釉薬「コバルト」などもあり、これら釉薬によってやちむんは鮮やかに彩られ、多彩な絵柄が描かれる。
やちむんとデザイン 今も愛される魚紋
大正から昭和にかけて、沖縄を訪れた県外の実業家たちの多くが、やちむんの焼き物を土産物として求めたそうだ。それらは「古典焼」とも呼ばれ、器面全体に絵を描く大胆な構図、エキゾチックな異国模様の壺屋焼が人気を集めていた。
その中のひとつに「魚紋(文)」がある。魚紋は人間国宝の金城次郎も、好んで描いていた。線彫(U字に加工した細い針金を使って描く技法)によって器面を掘り進めると、魚や、エビや貝など沖縄の生き物が姿をあらわす。金城次郎が描く魚はまるで笑っているようだと言われ、なんともいえない親しみやすさを感じる。魚紋は今もなおやちむんの定番柄して愛されている。
やちむんといえばこの人。人間国宝 金城次郎
やちむんといえば、まずイメージされる定番の図柄「魚紋」。
その魚紋で広く知られているのが、陶工の金城次郎である。線彫など、壺屋焼の伝統的な技法を駆使し、素朴な日用雑器をつくり続け、沖縄初の人間国宝(琉球陶器)に指定された人物だ。
戦前、やちむんは民藝運動の指導者たちから注目を集め、展覧会が催されたり、新たな作品が生み出されたり、と普及活動が行われた。こうした民藝運動は当時の陶工たちに影響を与え、金城次郎もそのひとりであったという。
第二次世界大戦後、公害対策のために壺屋地区での登り窯の使用が禁止となり、壺屋焼が存続の岐路に立たされると、金城次郎は登り窯の設置ができる環境を求めて読谷村に作業場を移す。その後、多くの陶工たちが読谷村に移り、「やちむんの里」として整備され、共同の登り窯がいくつも開かれた。
現在、読谷村には数十軒の窯元が集まっている。それは、いちはやく読谷村に活路を見出し、壺屋焼の伝統的な技法を守った金城次郎の功績が大きい。
やちむんの豆知識 泡盛とやちむんの美味しい関係
沖縄の代表的なお酒「泡盛」。個性の強いお酒、というイメージを持たれやすい泡盛だが、寝かせておくとデザートのように甘くまろやかな「古酒」に変わる。
そんな泡盛を古酒へと変化させるのに欠かせないのが、やちむんの「荒焼」だ。釉薬を塗らずにじっくりと焼き締められた荒焼の甕に含まれるミネラル分が、高級脂肪酸とアルコールの化学変化を引き起こし、古酒化を促進させる。
また、荒焼の甕には十分な空気が含まれることから、適度に酸化が進み味が変化するともいわれる。沖縄県工業技術センターの調べでは、ステンレス容器やガラス瓶に比べて、甕で寝かした泡盛は古酒化が1.5倍早まったというデータもあるほど。
なお、泡盛を寝かせる甕は黒く焼き上がっていて、表面に凹凸がなく、傷が入っていないものがいいとされる。とはいえ、実際に泡盛を入れてみないと、どうなるかは分からない。中には好きな窯元を訪ねてまで甕にこだわる方もおり、泡盛を美味しくするのにやちむんはそれほど欠かせないものなのであろう。
<関連の読みもの>
沖縄みやげは「やちむん」と泡盛を。選び方や古酒の楽しみ方をマイスターに聞く
https://sunchi.jp/sunchilist/https://story.nakagawa-masashichi.jp/62686okinawa/62686
やちむんの歴史
○琉球王国の焼き物、誕生
15世紀ごろ、沖縄本島や各離島で権勢を振るっていた有力者たちを統一し、王都を 首里(現在の那覇市)を中心とした中央集権国家「琉球王国」が建国される。
17世紀初頭、琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれたものの、人質として連行されていた王子が薩摩から3人の朝鮮人陶工を連れ帰り、湧田窯(現在の那覇市泉崎)で焼き物技術を指導させた。沖縄で本格的な陶器の生産が始まったのはこの頃である。
○壺屋焼の始まり
1682年、琉球王国は製陶産業の振興のために、県内に分散していた湧田、知花、宝口の3つの窯を統合し、牧志村の南(現在の那覇市壺屋)に配置した。これが今日にまで受け継がれている、やちむんの「壺屋焼」の始まりである。
当初は荒焼が主流で、水甕や酒甕、味噌甕などの大物から、升瓶など小物が焼かれていた。のちに、釉薬を用い、絵付けなどの装飾がされる上焼が焼かれるようになると、皿、碗、鉢など日用雑器から酒器、花瓶などより多様なな製品がつくられるようになる。
当時の王府は焼き物づくりの発展に積極的で、中国や薩摩に技術官僚を派遣して新しい窯業技術の導入を進めていた。これにより多様な釉薬、白化粧、線彫、飛びカンナ、染付、赤絵などの技法が伝わり、沖縄で独自に発展していく。
○琉球王国から沖縄県へ。「古典焼」と「民藝」の時代
1879年の廃藩置県を経て、琉球王国は「沖縄県」になる。この頃の沖縄では泡盛が主要な移出品で、保存容器として荒焼の需要は確かなものであった。一方で、上焼は瀬戸焼などの陶磁器の台頭に押されてシェアは落ち込んでいく。
そんな上焼に新たな光が当てられたのが、大正から昭和初期にかけて。県外から訪れた多くの実業家が、土産物としてやちむんの焼き物を求めたのだ。それらは「古典焼」とも呼ばれ、掻き落とし(釉薬を引っ掻いて図柄をつける)の技法でエキゾチックな異国模様が表現された器は、高い評価を得ていた。
時を同じくして、壺屋焼に注目したのが民藝運動の指導者たちである。運動の中心人物であった柳宗悦は、その実用的な美しさに惹かれ、普及のために壺屋地区を訪れたり、東京で展覧会を開催した。また、陶芸家の濱田庄司は壺屋地区で作陶し、代表作「黍文(きびもん。黍というイネ科の植物の絵柄)」を生み出している。こうした民藝運動は金城次郎を始め、当時の陶工たちに影響を与えた。
○戦後、やちむんの変化と広がり
第二次世界大戦後、1972年、沖縄が日本に返還された年、住宅密集地となっていた壺屋では登り窯の煙が問題視され、当時の社会問題であった公害対策のために那覇市では登り窯の使用を規制した。壺屋焼は存続の岐路に立つが、窯を煙の少ないガス窯、灯油窯、電気窯へ転換することで、壺屋の地での作陶を継続することができた。
一方、返還された基地の跡地の活用を模索していた読谷村は、「ゆいまーる」の精神に基づく「やちむんの里」構想を立ち上げ、薪窯の設置にも柔軟に対応し、積極的に窯元を誘致していたそう。
また、金城次郎が作業場を移したこと、原料となる陶土が良質で豊富だったことも後押しとなり、賛同した陶工たちによって読谷村には共同の登り窯が築かれた。現在、読谷村には数十件の窯元が集まり、薪を使った登り窯の伝統も受け継がれている。
これまでにさんちで紹介した、やちむんの現在
唐草・縞・水玉の伝統的な模様で懐かしさが漂う、やちむんの豆皿がある。読谷村座喜味(ざきみ)地区に窯をおく「陶眞窯(とうしんがま)」のプロダクトだ。
陶眞窯は独特の赤絵や染付、魚紋、イッチン(スポイトで釉薬や化粧土を流しこむ技法)を得意とする窯元。昔ながらの製法で伝統的な模様を描きつつも、若手の陶工を中心に「常に新しいものを」を合言葉にやちむん普及に取り組んでいる。
ここで買えます、見学できます
○壺屋やちむん通り
沖縄県那覇市の壺屋やちむん通りには、壺屋焼の窯元の直売所や共同売店が軒を連ねており、様々なやちむんを見て回りながら、購入することができる。また、周辺には登り窯をはじめ、文化財が残っており、かつての壺屋の風景を感じることができる。通りの入り口にある那覇市立壺屋焼物博物館では、沖縄の焼物の歴史と文化を学ぶことができる。
○読谷やちむんの里
沖縄県読谷村で16の窯元(2020年3月時点)が集まるエリア「やちむんの里」。エリア内には共同売店が2箇所あり、各窯元、陶工が手がける様々なやちむんの器、作品を買うことができる。窯元によっては工房にギャラリーが設けられており見学や購入ができる。ただし、各窯元は独立して営業しているため、営業時間や定休日は異なるので、見学を申し込むときはそれぞれの窯元に直接問い合わせたい。
<ここでも手に取れます>
・沖縄の旬のうつわに出会える“楽園”:「GARB DOMINGO」
・今沖縄で注目の作家、今村能章さんのうつわでドリンクを提供:「タイムレスチョコレート」
・大人気の薬膳朝食は、うつわにも注目:「沖縄第一ホテル」
・沖縄の食とうつわを好きになるカフェ:「CONTE」
やちむんのおさらい
○特徴的な釉薬
・壺屋焼に用いられる緑色の釉薬「オーグスヤー」
・サンゴが原材料の透明な釉薬「シルグスイ」
○主な産地
・沖縄県那覇市壺屋
・沖縄県読谷村
○代表的な工芸品
・食器などの日用雑器
・泡盛専用の酒器
・酒器や遺骨を納める厨子甕 (ずしがめ)
○代表的な人・工房
・金城次郎(沖縄初の人間国宝)
○数字で見るやちむん 「やちむんの里」に16の工房がある
・誕生:1682年ごろに、やちむんの「壺屋焼」が始まった
・従事者(社)数:沖縄県那覇市壺屋に14、沖縄県読谷村「やちむんの里」に16の工房、それ以外の地域にも多数の工房がある。(2020年03月時点)
<参考>
岡田陽示 著『特集 沖縄の風と土が育てた「やちむん」の現在形』誠文堂新光社(2018年)
竹地里加子 編『ニッポンを解剖する!沖縄図鑑』JTBパブリッシング(2016年)
『特集 やちむん-沖縄のやきもの』東京国立博物館(2019年)
大山崎山荘美術館 「濱田庄司《刷毛目蝋抜黍文扁壺》」
https://www.asahibeer-oyamazaki.com/collection/011.html
(以上サイトアクセス日:2020年04月16日)
<協力>
那覇市立壺屋焼物博物館
http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/
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