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博多織とは
幕府の御用達から庶民にまで広がった織物の歴史と現在
国の伝統的工芸品の1つである「博多織」。
「トントントン、トーン」と、三つ打ち、打ち返しを一定のリズムで行い織り上げていく博多織は、いくつもの工程と職人たちの手を経て、完成までに数ヶ月から半年もの時間を要します。
手間暇かけて織り上げられ、今なお受け継がれる博多織の魅力に迫ってみましょう。
博多織とは
博多織は、福岡県と佐賀県で生産されている絹織物で、たくさんの経糸 (たていと) に数本の糸をまとめ合わせた太い緯糸 (よこいと) を強く打ち込んでつくられる、コシのある丈夫な生地が特徴とされる。
模様は平織りをベースとした生地に「浮けたて」と呼ばれる経糸で表現するのが一般的で、その技法は「献上・変り献上」「平博多」「間道 (かんどう) 」「総浮 (そううけ) 」「捩り織 (もじりおり) 」「重ね織」「絵緯博多 (えぬきはかた)」と幅広い。
献上博多の模様は仏具から
博多織の中でも、仏具の「独鈷 (どっこ) 柄」や「華皿」を模した紋と「縞」で表す「献上博多」は有名だ。
華皿は仏を供養する時の花を入れる器で、独鈷は密教において煩悩を砕くとされる法具の一つ。献上柄には、そうした仏具にあやかって、厄除けや家内安全の願いが込められている。
博多織といえば、帯。特徴は「音」にあり
博多織といえば「博多帯」。
博多織は、コシのあるしっかりとした生地で強く引っ張っても痛みにくいことから、着物の帯として人気が高い。
実はお相撲さんも愛用しており、十両以上の力士は博多帯を身に着けるのが定番とされる。
浮けたてで織られた博多帯は、締めた時に経糸同士が摩擦を生むため帯が緩みにくく、しっかりと締めることができる。帯を締めたときの「キュッ」という「絹鳴り」が特徴である。
この絹鳴りは、博多織の経糸の密度が高く、丹念にぎゅっと織り込まれることから生まれる。
「トリオ」と「ペア」で見る博多織の歴史
◯博多織の縁起は航海から。満田彌三右衛門と圓爾辯圓と謝太郎國明
博多織の始まりは明らかではなく、伝説として語られている。
鎌倉時代中期の1235年、満田彌三右衛門 (みつた・やざえもん) が随行者として東福寺の僧・圓爾辯圓 (えんに・べんえん) 、中国の貿易商人・謝太郎國明 (しゃたろうこくめい) と共に宋へ渡った。
満田彌三右衛門は、宋に滞在した6年間の間に、織物・朱焼・箔焼・そうめん・じゃこう丸の製法技術について学び、帰国後多くの人に広めた。
その後、博多の商人でもあった満田彌三右衛門は、宋で学んだものの中から織物づくりを自らはじめる。この織物が後に、博多織の誕生のきっかけになったと言われている。
◯「覇家台織」誕生。満田彦三郎と竹若親子
満田彌三右衛門の死後約250年が経った15世紀後半、満田彌三右衛門の子孫である満田彦三郎 (ひこさぶろう) が、さらに織物の技術を得るべく中国へ渡る。
日本に戻った後、満田が中国で新しく得た知識は竹若藤兵衛 (たけわか・とうべい) ・伊右衛門 (いえもん) 親子へ伝えられた。竹若親子と満田による更なる研究・改良の結果、浮線紋や柳条などの模様が織り込まれた厚手の織物が完成。当地の地名から「覇家台 (はかた) 織」と名づけられた。
この「覇家台織」はさらに改良が加えられ、竹若伊右衛門によって帯地に最適な寸尺が定められた。こうして誕生した「覇家台織」が現在の博多織の源流とされ、竹若親子は博多織の中興の祖と呼ばれている。
◯「献上博多」登場。黒田長政と竹若伊右衛門
竹若伊右衛門によって帯地に最適な寸尺が定められた博多織は、筑前藩の初代藩主となった黒田長政 (くろだ・ながまさ) の目に留まり、幕府への献上品に選ばれる。
毎年決まって献上する博多織を、長政は総称して「定格献上」と名付けた。
手がける織元12戸には「織屋株」と称する特権を与え、保護というかたちを取りながら藩からの注文品のみ作らせるようにした。
また、幕府への献上を機に、「定格献上」に選ばれた文様が「献上柄」と呼ばれるようになり、「献上博多」の名が誕生。藩の庇護により博多織の格が上がり、高い人気を誇る織物となった。
なお、江戸時代中期以降は帯地の生産が中心となったことから、博多織に対するイメージとして「帯」が定着したといわれている。
◯歌舞伎で宣伝し大流行。桝屋清兵衛と團十郎
幕末、桝屋清兵衛という商人が博多織を売るべく江戸へ行商に行ったが、思うように成績を伸ばせずにいた。
そこで、歌舞伎役者の七代目市川團十郎に博多織の宣伝について相談し、力添えを求めた。相談に応じた市川團十郎は「助六由縁江戸桜 (すけろくゆかりのえどざくら) 」の講演で博多織を身にまとい、博多織の由来や良さをアピール。
これが功を奏して博多織は江戸で大流行し、その人気ぶりをさらに全国へと広めることとなった。
その後、明治時代に入ると西洋文化の影響から洋服が普及し始め、着物の需要は減少へと向かう。
この状況を救ったのが1885年 (明治18年) の「ジャガード機」導入による大幅な技術改革であった。
ジャガード機が導入される以前の織り機は「空引機 (そらびきばた) 」が使用され、メインとなる織手と綜引きと呼ばれる助手の2名体制で織らなければならなかった。
しかしジャガード機は助手を必要とせず、様々な模様を効率よく1人で織り進めることが可能となった。これにより織物の苦境に立ち向かうことができ、紋織博多の生産が伸びるきっかけともなった。
またこの頃には男物の帯よりも、女物の帯の売り上げが増え、。チョッキ地、ネクタイ地やカーテン地など着物以外の生産も盛んに行われた。
現在の博多織
1976年、博多織は国の伝統的工芸品に指定される。
しかし、1975年 (昭和50年) をピークに博多織の生産量は少なくなっていた。
そこで現在は、帯地の生産だけではなく、博多織の生地で作った財布や名刺入れ、ネクタイ、鞄などといった、気軽に博多織に触れてもらえるような小物類を開発・生産するなど、新たなアプローチを始めている。
また、親子2代で人間国宝に認定された、小川規三郎 (おがわ・きさぶろう) 氏は、博多織の技術を絶やさぬよう、博多織業界と共に様々な活動を試みている。
2006年 (平成18年) には、全国では初の試みである博多織技能開発養成学校 (博多織デベロップメントカレッジ) が設立された。
博多織のおさらい
◯主な素材
絹
◯主な産地
・福岡県
・佐賀県◯主な工程
1. 図案 : 伝統的な文様や新しい模様を駆使して大まかなデザインを作り上げる
2. 意匠 : 図案のデザインから、経糸と緯糸の配置や数などの設計書を作る
3. 精練 : 生糸が持つ余分な油分や汚れを落とす
4. 染色 : 精練した糸を染める
5. 糸操り : 染めた糸を枠木に巻きなおす
6. 整経 : 意匠で設計した通りに糸を並べ、ロール状に巻重ねる
7. 経継ぎ : 整経で巻いた糸を織機に1本ずつセットしていく
8. 緯合わせ : 糸を重ね合わせ、太い緯糸を作る
9. 管巻き : 緯合わせで作った糸を、杼 (ひ) にセットするための管に巻きつける
10. 製織 : 経糸がセットされた織機と杼の緯糸で織り込んでいき、博多織が出来上がる
◯伝統的工芸品指定品目
・献上、変り献上
・平博多
・間道
・総浮
・捩り織
・重ね織
・絵緯博多
・着尺
・袴地◯代表的な作り手
・小川善三郎氏
・小川規三郎氏 (善三郎氏の息子)
(いずれも人間国宝)◯数字で見る博多織
・従事者数 : 約350名 (令和元年度)
・織機台数 : 233台 (令和元年度)
<参考>
・中江克己 (著)『日本の伝統染織事典』東京堂出版 (2013年)
・伝統的工芸品産業振興協会 (監修) 『ポプラディア情報館 伝統工芸』ポプラ社 (2006年)
・博多織工業組合「博多織産地の概況 (令和2年)」
・博多織工業組合「博多織」
・日本繊維機械学会 献上と博多織の歴史
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber/61/10/61_10_P_273/_pdf
(以上サイトアクセス日 : 2020年5月18日)
<協力・画像提供>
博多織工業組合
https://hakataori.or.jp/