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有松絞りとは

江戸時代から多くの人に愛されてきた技と歴史

有松絞り

有松絞りの基本情報

有松絞りは、愛知県名古屋市の有松町・鳴海町地域でつくられる木綿絞りの総称。布をくくって染める絞りの技術で、さまざまな文様を描き出す。

軽やかで涼しい感触のため、主に浴衣地として愛用されており、有松町・鳴海町地域は全国一の絞り染め産地となっている。

1975年に「有松・鳴海絞」の名前で国の伝統的工芸品に指定された。



  • 工芸のジャンル

    染物

  • 主な産地

    愛知県名古屋市

美しい柄と涼やかな感触が魅力の有松絞り。浴衣など見かけるとうっとりと眺めてしまう美しさです。

江戸時代から多くの人に愛されてきた「有松絞り」の技と歴史を見てみましょう。

<目次>
・ここに注目。模様の種類は100以上
・そもそも絞りとは?
・なぜ有松・鳴海が日本一の産地に?
・有松絞りの歴史
・風情を味わうなら、有松絞りまつりへ
・ここで買えます、見学できます「有松・鳴海絞会館」
・関連する工芸品
・有松絞りのおさらい

有松絞り

ここに注目。模様の種類は100以上

もともと上等な絹に絞りを施した京都の鹿の子絞り (京鹿の子) が有名であったが、その着物はとても高価で、庶民の手に届くものではなかった。

しかし木綿の生産が増え、藍染が盛んになると、他の地域でも木綿に藍を使った絞り染めが行われるように。中でも有松鳴海地方の絞り染めは圧倒的な種類を誇り、その数は100種類にも及ぶといわれる。

手蜘蛛絞り
手蜘蛛絞り
羅仙鹿の子絞り
羅仙鹿の子絞り

そもそも絞りとは?

こうした模様の数々は、どのように生み出されるのだろうか。

そもそも絞りとは、布を縫ったりたたんだり、ヒダをとって糸で巻く、板で挟むなどして防染し、それによって模様を表現する染色技法を指す。書籍『日本 伝統絞りの技』によると、絞り染めには6つの特徴がある。

1、独特の防染方法

絞ることによって、表と裏が同時に防染できるため、布の両面を一度に白く抜くことができる (型染めや筒描きでは、布の両面に糊置きしなければ、両面を白く抜くことはできない) 。

2、100種類もの技法

絞り染めは、布のくくり方、縫い方、ヒダの取り方などによって模様を表現する。つまり模様ごとに技法を変えて染める。

一方、同じ染めでも型染めや友禅染めなどは、模様が複雑になるほど工程は増えるが、糊で防染して染液に浸す、色を挿して模様を表現するといった技法自体は模様が変わっても変わらない。

この点、絞りは1つの模様につき1つの技法があるといっても過言ではなく、江戸時代から今日までに100近い技法が考案されたと言われている。

3、布にできる凹凸

布を縫ったりくくったり巻いたりするため、布に凹凸ができる。
それがまた絞り染め特有の風合いとなっている。

4、単色染めが一般的

浸し染め (布を染液に浸して染めること) のため、多色染めを行うには大変な手間がかかる。そのため、有松絞りは、ほとんどが木綿と相性の良い藍のみで染められてきた。

5、抽象的な模様・ぼかしの味わい

点や線で模様を表現するため、友禅染のような写実的な表現よりは抽象的、または省略された模様を得意とする。また、他の染色技法では意図的にぼかし染めを用いるが、絞り染めの場合は、その技法の性格上、必然的に染めの際に独特のぼかしが出て、柄の味わいとなっている。

6、下絵なしの手技

下絵を描かずに手先の技だけで作業する技法があるのも有松染めならではの特徴だ。型染めなどのように下絵を描いたり、図案の型を使うものもあるが、山道絞り、手蜘蛛絞り、手筋絞り、と手の感覚だけで絞る技法が複数発展している。

有松絞り
有松絞り

なぜ有松・鳴海が日本一の産地に?

数ある絞り染めの中で、なぜ有松・鳴海地方が日本一の産地になったのだろうか。

有松絞りが栄えた最大の理由は、尾張藩の手厚い庇護にあった。江戸時代、尾張藩により有松は絞り生産の独占権を与えられ、分業化した産業として発展した。

また、木綿の生産地である知多郡がそばにあり、流通の大きなパイプである東海道筋にあったため、資材や商品を運ぶ必要なくして商いできたことも大きい。

有松・鳴海地方は参勤交代で江戸と行き来する西の諸大名たちの宿場でもあり、旅人が故郷への土産物としてこぞって絞りの手ぬぐいや浴衣などを買い求め、これが街道一の名産品となった。その繁栄ぶりは、北斎や広重の浮世絵に描かれたほどだった。

広重『東海道五拾三次 鳴海・〔名物有松絞〕』 (国立国会図書館デジタルコレクション)
広重『東海道五拾三次 鳴海・〔名物有松絞〕』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

有松絞りの歴史

有松絞りの起源以前

絞り染めは古くから世界各地で行われてきた技法であった。とくに、インドや中国での歴史は古く、奈良時代には高度な絞り技術が伝来したと考えられている。

日本での歴史を見てみると、238年に卑弥呼が魏文帝に絞り染めを貢したと記録が残っている。また、「日本書紀」には7世紀に外交使臣に献上したことが記載されている。

奈良時代には様々な絞り染めが作られ、東大寺献物帳などにその記録があり、正倉院にも保存されている。

室町時代後半から江戸時代初期にかけて、絞り染めは大きく発展した。新たに生まれた「辻ヶ花」という技法は、これまでの伝統技法を結集したというべきもので、豪華絢爛な衣装として時の権力者をはじめとした富裕層にもてはやされた。かの徳川家康も愛用したと言われ、遺品として現代に伝わるものの一部が徳川美術館に保存されている。

有松絞りのはじまり

有松は、1608年に東海道の保全のため徳川家尾張藩の布告による移住政策で作られた町であった。もともと耕地面積が少なく農業には向かない土地だったため、村人たちは、農業以外の収入源を求めていた。

そのような折、開拓者の1人であった竹田庄九郎が何か特産物を作らなければと考え出したのが有松絞りだ。名古屋城を築城する際に訪れていた九州豊後の人々が着ていた絞り染めを見て、手法を研究し考案したという。はじめは手ぬぐいにして軒先に吊るして販売していたが、やがて旅人が土産物として買うようになり街道一の名産品となった。

17世紀後半に浴衣が一般的に用いられるようになると、絞りの需要が拡大。これに伴って、有松絞りの技術も発達する。

技術の発展に貢献したのは、2代目竹田庄九郎であった。同氏は衣料としての絞り製品を開発。また、従来の藍染に加えて、紅染、紫染めなど染色技術も開発し、産業の基礎を築いた。

有松絞りの衰退と隆盛

明治時代に入ると全国で絞りの生産が盛んになり、一時的に有松での産業は衰退する。窮地を迎えるが、有松絞りの老舗である竹屋、橋本屋、井桁屋などが販売網の拡充や新たな技法の考案で復興させ、全盛期を迎えた。

改良開発の取り組みは精力的に行われ、1897年からの45年のあいだに、絞り染め技術の改良や新しい意匠の登録、特許取得を行い、独自の絞り染め産地としての地位は確固たるものとなった。

戦前戦後の有松絞り

地域を挙げての努力の甲斐あり、戦前の有松絞りの生産高は年間100〜120万反にもおよび、業況は隆盛であった。しかし、戦時中は徴兵・徴用にとられ、大部分の業者は転廃業に追い込まれた。

戦後は生産が回復したが、工芸士の高齢化や技法や種類の減少に至るなど課題も多いため、現在も産地をあげて新たな価値創出に取り組んでいる。

高級浴衣としての存在感は現代においても健在だが、加えて洋服や小物、インテリアへの応用など新たな製品への展開を進めたり、生地の形状記憶技術を開発して、立体的なシボの美しさを魅せる商品開発なども行われている。

風情を味わうなら、有松絞りまつりへ

有松絞りまつり

毎年6月に開催される「有松絞りまつり」。街中にさまざまな柄の絞り布が飾られ、鮮やかな藍色で彩られる。

有松絞りの体験や実演、有松地区に受け継がれる山車の展示が楽しめるほか、ミス絞り・有松福男のパレードやトークショー、撮影会も人気。また、浴衣の反物やのれん、ハンカチなどさまざまな製品が特別価格で販売されることも見逃せない。毎年10万人以上の来場者で賑わう。

ここで買えます、見学できます「有松・鳴海絞会館」

有松・鳴海絞会館

有松・鳴海絞会館

絞りの歴史資料や実物の展示、伝統工芸士による絞り実演が行われ、総合的に有松絞りについて学べる会館。研修室では絞り体験教室も開かれる。

館内の展示即売場では、絞りの反物、浴衣、ハンカチ、ネクタイ、スカーフ、エプロンなどの衣類をはじめ、テーブルクロス、のれん、袋物などの小物まで様々な絞り製品が手に入る。

有松・鳴海絞会館
愛知県名古屋市緑区有松3008番地
https://shibori-kaikan.com/

関連する工芸品

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藍染:「『藍染』とは。江戸っ子に親しまれたジャパン・ブルーの歴史と現在」
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有松絞りのおさらい

素材

木綿

キーパーソン

竹田庄九郎

関連の読みもの

関連商品

染物・織物