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土佐和紙とは

「薄くて丈夫」な日本三大和紙のひとつ

土佐和紙の基本情報

土佐和紙とは高知県のいの町、土佐市周辺などで1000年以上前から作られてきた和紙。清流として名高い一級河川の仁淀川から恵みを受け、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)など原料の生産とともに製紙技術が発展してきた。福井県の「越前和紙」、岐阜県の「美濃和紙」と並び、日本三大和紙のひとつとされている。

  • 工芸のジャンル

    和紙

  • 主な産地

    高知県のいの町・土佐市周辺

高知県のいの町と土佐市周辺を中心につくられてきた「土佐和紙」。

薄さと丈夫さをかね備えた和紙として知られ、中でも文化財の修復に主に使用される「土佐典具帖紙」は0.03〜0.05mmと手すき和紙では屈指の薄さです。

今回は、国内外から高い評価を得てきた土佐和紙の歴史と特徴をご紹介します。

土佐典具帖紙(提供:いの町紙の博物館)

ここに注目。土佐和紙の特徴は「薄くて丈夫」にあり

土佐和紙の特徴は、薄くて破れにくいという丈夫さ。いの町のみで製造される土佐典具帖紙は、厚さがわずか0.03〜0.05mmと手すき和紙の中でも非常に薄く、丈夫さもかね備えることから博物館や寺社、海外でも古文書の修復などに用いられ高い評価を得ている。

その品質の良さから、土佐典具帖紙は1973年(昭和48年)に国の無形文化財に、土佐和紙全体としては、1976年(昭和51年)に伝統的工芸品に指定されている。

知っておきたい土佐和紙の今

土佐和紙は、古くから書や絵の用紙としてだけでなく、土佐藩の下級武士の「紙衣(衣類)」や、和紙を重ねて漆を塗った弁当箱、髪を結ぶ「元結」など幅広い用途に用いられてきた。

今では職人と市内のデザイン会社がタッグを組み、領収書やカレンダー、ご祝儀袋など新たなプロダクトも企画、製作されている。さらに近年では、演劇の舞台演出に用いられる事例も。土佐和紙の「今」の姿をさんちでは取材してきた。

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舞台で演じる浜田あゆみさん

土佐和紙といえばこの人。吉井源太

かつていの町には土佐和紙の発展のみならず、他の産地の和紙にまで影響を与えた人物がいた。1826年(文政9年)、旧伊野村の御用紙漉きの家に生まれた吉井源太だ。彼はその多大な功績から「土佐紙業界の恩人」「紙聖」とまで称され、1894年(明治27年)には社会奉仕で優れた功績を残した者に与えられる緑綬褒章を受賞している。

1860年(万延元年)に大型簀桁(すけた)を考案。これまで1度に半紙を2枚漉いていたものを8枚にまで増やし、生産効率を3倍以上にした。さらにインクのにじみを防いでくれる脂入りの紙や、薄くて軽いために1度に数多くを送ることができる郵便半切紙、事務用のコッピー紙(別名「圧写紙」。特殊なインキで書かれた複写原板の上に数枚の紙を重ね、圧写する)など28種類の紙を改良・開発してきた。

中でも、彼が改良したことで大ヒットとなったのが土佐典具帖紙(てんぐじょうし)。美濃で漉かれていた典具帖紙を改良し、わずか0.03〜0.05mmという手すき和紙ではもっとも薄く、丈夫さもかね備えるこの紙は、吉井源太が生み出したものだ。最盛期には県内の約200戸で生産され、タイプライターの原紙用紙として欧米諸国に輸出されていたという。

また、かつて伊野や三瀬の山間部は一面が三椏の風景であったのだが、これは吉井源太らが地域内で原料を調達できるようにと静岡から三椏の種を取り寄せ、栽培を実用化させたためである。これらの活動から高知県では和紙の生産が飛躍的に発展し、1887年(明治20年)には和紙の生産額で全国の12.9%を占めるほどであった。

そして何より、彼の功績として外せないのが、これまでに培ってきた製紙技術を惜しむことなく全国の産地に広めたこと。その範囲は東京や大阪、京都をはじめおよそ全国にまでおよび、要請があれば伊野から技術者を送ったり、自身で現地まで赴いた。ときにははるばる台湾から、彼の製紙技術を学びにきていたほどだ。

土佐和紙の歴史

1000年前の書物に記録が残る

土佐和紙の歴史は古く、平安時代の927年(延長5年)にできた書物「延喜式(えんぎしき)」には、現在の高知県にあたる地域で紙の製造がされていた記録が残っている。

また、鎌倉時代には幕府の公用紙となり、大量に生産されるようになった、上質な紙「杉原紙」を現在の高知県いの町、高知市から献上しており、この時代には土佐和紙の基盤となる高度な製紙技術があったことが伺える。

江戸時代には生産が本格化

本格的に土佐和紙として産業が定着したのは江戸時代で、幕藩体制の確立と紙の需要が増えたことが要因となった。この頃に土佐和紙の祖といわれる安芸三郎左衛門家友が考案した「七色紙」は、土佐藩御用紙として幕府への献上品となった。

吉井の活躍と大戦後の不況

明治期になると、吉井源太の発明した連漉器(れんすきき)により、技術・販売ともに土佐和紙は大きく飛躍することになる。連漉器で漉けるように改良された典具帖紙は、当時の欧米で普及しはじめていたタイプライター用紙として、この頃から昭和の時代までアメリカやヨーロッパへ盛んに輸出されてきた。

その後、明治19年には高知県紙業組合が組織された。岩倉具視らによる欧米視察に同行し、その後も残ってドイツに留学して製紙技術を学んだ山崎喜都真により、西洋の製紙技術も加えられた。しかし、大正初期まで農閑期などの副業として盛んに行われていた手漉き和紙づくりは、第一次世界大戦後の不況により大幅に減少。機械での製紙が主流となっていく。

新たな活躍の場への期待

土佐和紙は昭和51年に国の伝統的工芸品に指定されるが、二度の世界大戦や経済の変化の中で、紙業界でも洋紙化の流れが進んでいった。IT化が進み、紙はかつてのような記録媒体ではなくなっている現在、高級品とみなされる和紙は需要が著しく低下し、和紙業界は全国的に消失の危機にさらされている。

しかし、薄くて丈夫な土佐和紙は文化財の修復用紙として国内外で評価されている側面も。また、アートの表現材料として和紙を活用するプロジェクトを行政がバックアップするなど、伝統ある和紙としての新たな捉え方や発信の取り組みが広がりつつある。

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土佐和紙の基本データ

主な素材

・楮(こうぞ)

・三椏(みつまた)

・雁皮(がんぴ)

紙漉きの様子(提供:いの町紙の博物館)

数字で見る土佐和紙

・誕生:定かではないが、1000年以上前にはつくられていたとされる

・工房数:1952年(昭和27年)には地域内だけで714戸で手すき和紙が生産されていたが、2003年(平成15年)には実質20戸が残るのみ。

・生産量(額):1953年(昭和28年)の生産量は2,305t、生産額は10億4,000万円。2000年(平成12年)には生産量は44t、生産額は2億4,000万円となっている。

・1973年(昭和48年)に土佐典具帖紙が国の無形文化財に指定

・1976年(昭和51年)に「土佐和紙」として伝統的工芸品に指定

・1977年(昭和52年)に土佐清帳紙が国の無形文化財に指定

関連の読みもの

和紙