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高崎だるまとは

全国シェア一位の理由と歴史

高崎だるま

「どうしてだるまさんには目がないの?」

「それは願い事が叶った時に描くからよ」

幼い頃、こんなやり取りをしたことがある人も多いのではないでしょうか。

だるまは転んでも転んでも起き上がることから、古くから縁起物として親しまれてきましたが、意外と知らないことも多いものです。

今回は、だるまの一大産地である群馬県高崎市の「高崎だるま」に焦点を当てて、だるまの世界を覗いてみたいと思います。

高崎だるまとは

高崎だるまとは、群馬県高崎市豊岡・八幡エリアで作られているだるま。現在でも眉や口などの顔塗りや文字入れなど、工程の多くは手作業で行われている。群馬県高崎市豊岡・八幡では年間約90万個のダルマが出荷されており、これは全国の張り子だるまの生産量の8割を占める。

群馬県ではからっ風と言われる上州の乾いた風が吹き、風土が紙を張ったり色を塗ったりするだるま作りの工程に適していたため発展した。

ここに注目。鶴と亀が描かれた縁起の良いお顔

眉毛、鶴の形になっているのに注目。
眉毛、鶴の形になっているのに注目。

高崎だるまには「鶴は千年、亀は万年」とよくいわれるように、吉祥や長寿を表す鶴と亀が眉毛と口ひげに表現されている。またお腹には「福入」、両肩には「家内安全」「商売繁盛」など金色の文字が書かれるが、高崎だるまのように文字が書かれるだるまは、全国的に見ても珍しい。

なぜ高崎はだるまの一大産地になったのか?

装飾が施される高崎だるま
装飾が施される高崎だるま

だるまの起源は、中国の明時代 (1368~1644年) に発明された、張り子 (木の型に和紙などを貼り付けて成形する技法)の人形にある。

老爺や女の子の形をした人形で、張り子の底に土の重りがつけてあるため、倒れてもすぐ起き上がることから「起き上がり」と呼ばれた。「起き上がり」は室町時代 (1334~1573年) に日本へと輸入され、江戸時代 (1603~1867年) の終わり頃、達磨大師をモデルにした起き上がりのだるまが完成した。

一方高崎だるまが生産されている現在の群馬県は、昔から養蚕が盛んに行われている地域であり、蚕が古い殻を割って脱皮することを「起きる」と呼んだ。

養蚕農家の人々は、良質な繭が数多く採れるようにという願いを、何度転んでも「起きる」だるまに込めて願掛けが行われた。その後養蚕の守り神として祀られた高崎だるまは縁起物として一般家庭へも広まり、人気を呼んだ。

また、群馬県は冬から春先にかけて赤城山から吹き下す、冷たく乾燥した「からっ風」が吹く土地として知られる。

紙を張ったり色を塗ったりするだるま作りの工程に、この乾いたからっ風が吹く気候が適していたことも、高崎がだるまの一大産地となった理由の一つである。

高崎だるまの選び方、飾り方

選挙の際に、目を入れる光景でよく知られるだるまだが、だるまの目は飾ってすぐに入れたほうがいいとも言われる。

だるまの目に隠された意外な事実だるまの選び方、飾り方について、高崎だるまの職人さんに直接話を伺った。

「だるまの目はすぐに入れよう!意外と知らないだるまの飾り方」
https://sunchi.jp/sunchilist/takasaki/6704

高崎だるまの歴史

各製作工程の高崎だるま
各製作工程の高崎だるま

◯厄災と養蚕がもたらした高崎の名物

高崎だるまの起源には諸説ある。

まず、江戸時代に江戸で疱瘡 (天然痘) が流行したことが、だるまが広まる契機になった。当時赤いものが厄除けになると信じられており、赤く塗られただるまは疱瘡除けの願掛けに用いられたため、人々が求めるようになったのだ。

人形職人になるため、江戸・武州 (現埼玉県) の人形店で修行していた山縣友五郎 (1793〜1862年) はこの光景を目の当たりにし、故郷である上豊岡村 (現在の高崎市) に戻り、だるまを作り始める。これが高崎だるまの始まりといわれている。

この他に、天明の大飢饉 (1782~1788年) 後に、少林山達磨寺 (しょうりんざんだるまじ) の9代目である東嶽 (とうがく) 和尚が、飢饉に苦しむ農民たちにだるま作りを教えたとする説もある。

東嶽和尚は、達磨大師の座禅像をもとに木型を彫り、これに紙を張ったものを農民たちに作らせた。出来上がっただるまは七草大祭の時に売り出され、売り上げは農民たちの収入とされたという。

いずれの説でも、厄災の中を生き抜く人々の知恵として高崎だるまが誕生している。

1859年 (安政6年) 、横浜港が開港されると、だるまの鮮やかな赤色を作り出す「スカーレット」という赤の顔料が海外から輸入され、だるまの生産は、より盛んになっていった。

◯だるま市が本格化。高崎の一大産業へ

「高崎談図抄」の市の様子

1866年 (明治初年) 、少林山達磨寺のだるま市が本格化し、次第に製造業者は増えていった。1915年 (大正4年) には、だるまの製造業者は40数戸になり、売上額は当時の3万円に激増。またこの時代、ダルマを売るのには「物品、小売営業」といった村役場発行の鑑札書が使われていた。

だるまづくりの様子
だるまづくりの様子

◯選挙だるまはこの頃から

1955年 (昭和30年) 、初めて選挙の必勝だるまが作られた。高崎だるまは1970年 (昭和45年) から生地が機械で作られるようになり、大量生産が可能になったことで、日本一の生産量を誇るようになる。

現在の高崎だるま

1993年 (平成5年) 、高崎だるまが群馬県知事より「群馬県ふるさと伝統工芸品」(※)に指定された。1999年 (平成11年) には2名の高崎だるまの工芸士が群馬県ふるさと伝統工芸士に選ばれ、地域ブランドの育成に資するべく2006年 (平成18年) に特許庁が創設した「地域団体商標制度」に、「高崎だるま」の名称で商標登録された。

群馬県達磨製造協同組合の組合員数は、2001年 (平成13年) 時点で66名、2011年 (平成23年) には60名となっている。

※群馬県ふるさと伝統工芸品、群馬県ふるさと伝統工芸士
「群馬県ふるさと伝統工芸品指定要綱」に基づいて知事が指定するもの。

ここで買えます、見学できます。高崎だるま市

高崎駅に展示されている巨大だるま
高崎駅に展示されている巨大だるま

高崎だるま市は高崎駅西口駅前通りにて開催され、2020年には約37万人が訪れた。初春の縁起物として伝統的な高崎だるまやカラーだるまなど、様々なだるまが並ぶ。展示される高さ2.8メートルもある特大だるまは、撮影スポットとしても人気である。

高崎だるま市
http://takasaki-darumaichi.com/

高崎だるまのおさらい

◯素材

・型 : 木、漆喰

・張子 (はりこ) 紙

・ふのり

・着色 : 胡粉 (ごふん) (貝を焼いた白い粉) 、膠 (にかわ) 、金彩、墨汁

◯主な産地

・群馬県高崎市

◯代表的な技法

・「眉毛は鶴、鼻から口ひげは亀」を顔にあしらい、日本の吉祥を表現

◯代表的な作り手

・山縣友五郎:だるまづくりの技法を生み出した人物

・葦名鉄十郎盛幸:木型彫を始めた人物

◯数字で見る高崎だるま (2007年時点)

・誕生 : 1789~1801年 (寛政年間)

・出荷数 : 約90万個

・従事者数 : 約70軒

・シェア率 : 全国の張り子だるま生産量の8割

<参考>

・井上重義 著 『ふるさと玩具図鑑 (おもちゃずかん) 』平凡社 (2011年)

・畑野栄三、岩井宏實 監『「郷土玩具」で知る日本人の暮らしと心① 大漁・豊作・開運…豊かな暮らしを願う 郷土玩具』くもん出版 (2004年)

・中川重年 監 『調べてみよう ふるさとの産業・文化・自然④ 地場産業と名産品 2』農村漁村文化協会 (2007年)

・群馬県達磨製造協同組合

http://takasakidaruma.net/

・高崎だるま市

http://takasaki-darumaichi.com/

(以上サイトアクセス日:2020年4月13日)

<画像提供・協力>

群馬県達磨製造協同組合

http://takasakidaruma.net/

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