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赤べことは
郷土玩具の宝庫・福島生まれの「幸運を運ぶ牛」
福島県会津若松市の郷土玩具「赤べこ」。
赤に下塗りした牛の型に、黒の斑点と白の縁取りを絵付けした張り子人形です。
古くは厄除けのお守りや縁起物として、今日では丸みを帯びたフォルムと首がゆらゆらと揺れる動きが人気の土産物としても親しまれています。
今回は「幸運を運ぶ牛」と言われる赤べこの誕生秘話、赤・黒・白で塗られる理由、全国で一躍人気となった歴史についてご紹介します。
<目次>
・赤べことは。首がゆらゆらと揺れる愛らしい郷土玩具
・ここに注目。東北最古とも言われる、会津張子の代表格
・赤べこの豆知識
・赤べこの歴史
・赤べこといえばこの人・この工房。郷土玩具の革新を続ける野沢民芸
・ここで買えます、見学できます
・関連する工芸品
・赤べこの基本データ
赤べことは。首がゆらゆらと揺れる愛らしい郷土玩具
赤べことは福島県の会津若松市でつくられてきた、牛の姿をした郷土玩具。
今日では東北地方における観光土産のひとつという印象のある赤べこだが、古くは「厄除け牛」や「幸運の牛」と呼ばれており、魔除けや疫病除けの縁起物として会津の人々に親しまれてきた。
また、赤べこは首の部分が動くように設計されており、ちょこんと触るとその首がゆらゆらと動く。その何とも愛らしい様子から、海外でも人気が高い。
ここに注目。東北最古とも言われる、会津張子の代表格
赤べこには仲間がいる。実は赤べこは、会津地方でつくられてきた「会津張り子」のひとつ。他には、学問の神様・菅原道真公をかたどった「会津天神」や何度転がしても起き上がる「起き上がり小法師」、「会津だるま」など。
張り子とは木型に何枚もの紙を貼り重ね、乾いたところで型を抜いてつくる工芸品のこと。会津張り子の発祥は、江戸時代の歌舞伎から着想を得てつくられた福島県三春町の「三春張り子」の模倣という説と、1590年に伊勢(現在の三重県)から会津に転封(てんぽう)された領主の蒲生氏郷(がもう・うじさと)が、京都から職人を招いて藩士たちに張り子づくりを学ばせたのが始まりとする説がある。
さらに、福島には会津張り子の他にも三春駒、こけし、七夕馬、会津唐人凧など様々な郷土玩具があり、それらを含めても会津張り子はもっとも古い。このことから、会津張り子のひとつである赤べこは、東北地方でもとくに歴史のある郷土玩具ということになる。
赤べこの豆知識
○赤べこのべこって何?
東北地方、とくに会津の方言では「牛」のことを「べこ(べーは牛の鳴き声、こは愛称のこと)」といい、また、アイヌの言葉では「ぺこ」という。赤く彩られた牛の玩具であることから「赤べこ」と、その名で呼ばれているわけである。
○赤・白・黒の秘密
では、なぜ赤べこは身体が赤く塗られているのだろうか?
赤べこ伝説の赤い牛にあやかって赤く塗られたという説もあるが、これには古くからの民間信仰が関係しており、赤色は呪術的な意味で病気を退散させる、と考えられてきたため。なお、この考えは会津特有のものではなく、全国の郷土玩具に見られる。
また、かつて会津では疱瘡(ほうそう)が流行したことがあったが、赤べこ伝説の牛が身代わりになり、病気から守ってくれるという、願いを込めて病が治った時の模様を黒と白で描き、家に飾ったという。
こうした言い伝えから赤べこは会津の人々から厄除けのお守りとして、子どもの誕生祝いや見舞いの品として送られることが多い。
○赤べこ伝説とは
福島県柳津町には、赤べこ伝説の発祥の地とされるお寺がある。およそ1200年前に創建された「圓蔵寺(円蔵寺。えんぞうじ)」だ。
807年(大同2年)、徳一大師(とくいつだいし)が圓蔵寺の福満虚空蔵尊堂(ふくまんこくぞうそんどう)を建設していたときのこと。資材運びが難航していると、どこからともなく牛の群れが現れて手伝ってくれたのだ。多くの牛たちが過酷な労働に倒れていくなか、お堂の完成まで懸命に働いたのが赤い牛だったそう。
このことから会津では赤べこ(赤い牛)を縁起の良いものとして捉えるようになり、いつしか「健康長寿の象徴」としても親しまれるようになった。ちなみに、圓蔵寺には今もなおこの伝説のモデルとなったと考えられる牛の石像が残されている。
赤べこの歴史
○東北最古とも言われる、赤べこの誕生
赤べこがつくられるようになった起源は諸説あるが、一説には今からおよそ400年ほど前のこと。当時、会津を治めていた城主の蒲生氏郷は、仕事がなく生活に困っていた藩士たちを守るために副業奨励策を推進していた。
その一環として、圓蔵寺の赤べこ伝説にならい、京都から職人を招いて藩士たちに張り子づくりを学ばせ、張り子のべこ(牛)人形をつくらせたという。これが郷土玩具「赤べこ」の原型とされる。
○明治時代には、今の形に
赤べこができた当初はとくに形の決まりはなく、四輪の台車のついたものなどもあり、職人ごとに個性が溢れていたのだそう。それが今日の赤べこに見られる、腰高で角ばった形となったのは明治初期のころである。
さらに、かつては青色や樺色(かばいろ:赤みのある橙色)など色彩が豊かであったが、大正末期には赤塗りに黒の斑点、白の縁取りに統一された。今でも工房によって描かれるデザインはちがうが、色使いは黒と白が使われている。
○昭和に年賀切手デビュー。一躍人気者に
その後、観光土産用としてラッカー(光沢のある塗料)で塗られた赤べこが量産されるようになる。また、1961年(昭和36年)の丑年には、このラッカー塗りの赤べこが岩手県花巻市の「金べこ」とともに年賀切手図案に採用され、一躍、全国的な人気者となった。
赤べこといえばこの人・この工房。郷土玩具の革新を続ける野沢民芸
会津にはおよそ50年前まで張り子をつくる工房が30軒ほどあったが、今日では職人の高齢化とともに数えるほどしかない。そのなかで赤べこづくりシェアのおよそ7割を占める工房が「野沢民芸」だ。福島県西会津町で50年以上にわたり、会津張り子を中心に郷土玩具や民芸品をつくり続けている。
工房には今でもおよそ40名ほどの職人が在籍しており、「真空成形法」という独自の製法によって1日およそ500体もの赤べこがつくられる。
福島県の赤べこに限らず、全国各地でつくられる郷土玩具には時代とともに育まれてきた技、伝統化されてきた形や色づかいがある。そのような伝統の世界にあって、古くから受け継がれてきたデザインを大切にしながら、新しいデザインやコラボレーションにも積極的に挑戦している工房だ。
<関連の読みもの>
ムンクの「叫び」を郷土玩具に。福島・野沢民芸が考える、これからの民芸品
ここで買えます、見学できます
○圓藏寺
会津にある日本三大虚空蔵尊堂(こくうぞうそんどう。虚空蔵菩薩を祀っているお堂)のひとつがある「圓藏寺 (えんぞうじ) 」。およそ1200年前に創建されたこのお寺は、赤べこ伝説の発祥の地と言われる。境内では、伝説のモデルとされる「なで牛(身体で不調のある部分をなでると治るとされる)」や、巨大な「赤べこ(ちゃんと首が揺れる)」に出会える。赤べこの歴史を肌に感じられる場所だ。
○野沢民芸
赤べこのシェア7割を占める、会津を代表する郷土玩具の工房。手がけた赤べこは会津地域にある土産物店のほか、野沢民芸のオンラインショップでも購入できる。
関連する工芸品
赤べこの基本データ
○主な素材
赤べこ特有の「牛の形」は木型の周りに紙を重ね、中の木型を外してつくられる。古くは反古紙 (書き損じなどで使えない紙) や和紙を用い、それらが大量にある会津の城下町でつくられることが多かった。今日では主に再生紙が使われている。
○主な産地
・福島県会津若松市
○・代表的な工程
・木型づくり:朴木(ホオノキ)をノミや小刀で削り型を作る
↓
・和紙を貼る:木型を包むように和紙を何枚も重ねて貼る
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・背割り:乾いた和紙を小刀で開き、中の木型を取りだす
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・下塗り:和紙をもう一度貼り合わせ、胡粉(ごふん。粉状の貝殻をニカワでねったもの)で下塗りをする
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・上塗り:赤色などの顔料をニカワで溶かし、上塗りをする
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・絵付け:さまざまな塗料を使い、赤べこの独特な模様を絵付けしていく
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・頭部の取り付け:後部に重りをつけた首を胴体に取り付ける
○数字で見る赤べこ
・誕生:1590年ごろ
・従事者(社)数:およそ50年前までは30軒ほどの工房があったが、今日では数えるほどしかない(2017年時点)
・伝統的工芸品指定:1997年に福島県の伝統工芸品に指定された
<協力>
<参考>
・斎藤良輔 編『新装普及版 郷土玩具辞典』株式会社東京堂出版(1997年)
・滝沢洋之 編『会津若松市史 民族編2 諸職 職人の世界 ~暮らしと手仕事~』会津若松市(2002年)
・会津若松市教育旅行用HP あいばせ「赤べこについて」
https://www.aizukanko.com/kk/aibase/01shirou/bussan/bussan_akabeko.htm
・一般社団法人 会津若松観光ビューロー「蒲生氏郷 時代(安土桃山時代)概要」
http://www.tsurugajo.com/history/gamou1.html
・福島県「福島の伝統工芸品」
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/32031c/fukushimadentoukougei.html#%E8%B5%A4%E3%83%99%E3%82%B3
(以上サイトアクセス日:2020年7月10日)