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瀬戸焼とは

うつわの代名詞にまでなった「せともの」の実力と歴史

瀬戸本業窯の豆皿

瀬戸焼の基本情報

  • 工芸のジャンル

    陶器・磁器

  • 主な産地

    愛知県

瀬戸は、1000年以上の歴史を持つ、日本屈指の窯業地。多様な焼き物がつくられ、「せともの」は、陶磁器の代名詞にもなった。

今回は、そんな多種多様な瀬戸焼の魅力、それを支える自然の恵みや技術、歴史を紹介します。

※瀬戸焼の小鉢や平皿、飯碗など

<目次>
・瀬戸焼とは
・ここに注目「つくれないものはない」とも言われる陶磁器の一大産地
・瀬戸焼といえばこの人、この工房
・本業焼といえばここ。「瀬戸本業窯」
・「せともの」の名付け親は信長?
・瀬戸焼の歴史
・瀬戸に行ったら「窯垣(かまがき)の小径」を歩こう
・瀬戸焼のおさらい
・数字で見る瀬戸焼

瀬戸焼とは

瀬戸焼は、愛知県瀬戸市を中心に作られる焼き物の総称。瀬戸の地名は、焼き物の産地を表す「陶所(すえどころ)」が転じたと言う説もある。世界有数といわれる白く焼き上がる良質で豊富な陶土が、釉薬や絵付けが美しい焼き物を生み出している。

日本の中でも珍しい、陶器も磁器も焼かれる産地である。

陶器では国の伝統的工芸品「赤津焼」に代表される釉薬を駆使した装飾が特徴で、磁器は同じく「瀬戸染付焼」に代表される呉須と呼ばれる顔料を使った青色が美しい絵付が特徴だ。

藤四郎「鉄釉四耳壺」(慶長元年)
藤四郎「鉄釉四耳壺」(慶長元年)瀬戸蔵ミュージアム蔵
 品吉「黄瀬戸薄端」
品吉「黄瀬戸薄端」瀬戸蔵ミュージアム蔵

ここに注目「つくれないものはない」とも言われる陶磁器の一大産地

瀬戸ほど、多種多様な焼き物が焼かれる産地はない。

平安時代後期から焼き物づくりが始まった瀬戸では、鎌倉~室町時代には「古瀬戸」といった高級品が、江戸時代には石皿や馬の目皿のような日用雑器など幅広い陶器が焼かれた。

江戸時代後期に磁器生産が始まると、磁器を「新製焼」あるいは「染付焼」、陶器を本来の仕事という意味を込めて「本業焼」と称して呼び分けた。

赤津焼(黄瀬戸)
赤津焼 黄瀬戸
加藤民吉(初代)「染付山水図大花瓶」
初代加藤民吉「染付山水図大花瓶」瀬戸蔵ミュージアム蔵

明治時代以降、食器類や装飾具にとどまらず、建築陶材や碍子、自動車の部品といった新しい焼き物も生産され、現在も瀬戸は日本有数の陶磁器産地として君臨している。

瀬戸焼といえばこの人・この工房

陶器と磁器の両方を手掛ける瀬戸は、始祖も2人。

陶祖・加藤四郎左衛門景正(通称:藤四郎)は、曹洞宗の開祖である道元とともに中国に渡って陶法を学び、帰国後に瀬戸で陶業を興したこと、磁祖・加藤民吉は、九州で習得した製磁技術を瀬戸へ持ち帰り、染付磁器の改良・発展に大きく貢献したことが称えられている。

どちらも外部の技術を導入した功績が称賛されており、瀬戸の焼き物づくりの多様性を象徴したエピソードとなっている。

本業焼といえばここ。「瀬戸本業窯」

瀬戸は、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯を指す日本六古窯において唯一、施釉陶器が発展した産地だ。

19世紀に磁器生産が主流となっていくなかで、こうした陶器の手仕事を代々受け継いだ窯元が「瀬戸本業窯」。

民藝との出会いもあり、使いやすさと、長く使い続けても失われない美しさを兼ね備えた日常のうつわをメインに手がけている。

淡い黄色の黄瀬戸や織部へ発展する緑釉など、手づくりの釉薬を使った多彩なデザインが魅力。

現在の瀬戸ではなかなか見られなくなった土、釉薬などは地元産でほぼまかない、伝統を重んじつつ、新しいテイストも取り入れた焼き物づくりが行われている。

瀬戸本業窯

<関連の読みもの>
食卓に小さな「違和感」を。瀬戸本業窯の豆皿が新生活におすすめな理由

https://story.nakagawa-masashichi.jp/90713

わたしの一皿 瀬戸焼の本業を知る
https://story.nakagawa-masashichi.jp/55531

「せともの」の名付け親は信長?

「せともの」は、焼き物全体を指す言葉として使われるが、実は主に使われるのは東日本で、西日本では唐津物(からつもの)と呼ぶ。

1563(永禄6)年に織田信長が発給した、瀬戸物の売買の振興を促す制札にも用いられており、16世紀頃、美濃地域で作られた焼き物も瀬戸物と呼ばれていた。

この言葉が一般に普及したのは江戸時代後期に入り、日常食器類が広く流通し、庶民の生活に溶け込んでいった頃である。

瀬戸焼の歴史

○古代の大窯業地「猿投窯(さなげよう)」で施釉陶器を生産

瀬戸焼の起源は、現在の名古屋市・東山丘陵周辺で始まった「猿投窯(さなげよう)」(猿投山西南麓古窯跡群)に求めることができる。猿投窯では、5世紀後半に朝鮮から伝わった須恵器の生産が始まり、古墳時代から鎌倉時代にかけて日本屈指の大窯業地へと発展した。

8世紀頃、自然の灰がかかって釉薬の役割を果たす原始灰釉陶器の登場を経て、9世紀には日本で初めて人工的に施釉した灰釉陶器を完成させている。そして、猿投窯の北隣りに位置する瀬戸市でも10世紀後半から灰釉陶器の生産が始まる。

灰釉大碗・小碗(11世紀中期)
灰釉大碗・小碗(11世紀中期)瀬戸蔵ミュージアム蔵

その後、量産化によって製品自体が簡素化・粗雑化。

11世紀になると灰釉陶器に代わり、無釉の椀・皿・鉢を主体とする山茶碗(やまぢゃわん)が量産されるようになる。

そして12世紀後半瀬戸では「古瀬戸」と呼ばれる新たな施釉陶器の生産が始まる。瀬戸は国内唯一の施由陶器生産地として歩み始め、日本全国に流通していく。

鉄釉仏花瓶(14世紀前期)
鉄釉印花文仏花瓶(14世紀前期)瀬戸蔵ミュージアム蔵
灰釉締腰形瓶子(14世紀後期)
灰釉締腰形瓶子(14世紀後期)瀬戸蔵ミュージアム蔵

○窖窯から大窯、登窯へ。大量生産が可能に

瀬戸窯と美濃窯では大量生産を目指して新しい形式の窯への転換が行われる。15世紀後半に丘陵斜面を利用した地下式の窖窯(あながま)から地上式の大窯に変わり、17世紀初め頃に連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)が導入された。

また16世紀後半から17世紀初めにかけて、瀬戸窯は一時衰退する。窯業生産の中心は瀬戸から美濃へ移り、陶工達は離散。瀬戸焼振興協会によると、これは一説には織田信長の経済政策の一環ともいわれる。

○尾張藩の保護で再び活性化。磁器生産、始まる

瀬戸の陶工たちが移った美濃では黄瀬戸(きせと)や瀬戸黒、志野といった斬新な焼き物が生まれた。

1610(慶長15)年、初代尾張藩主徳川義直が離散していた陶工達を美濃から呼び戻したことで、瀬戸は再び活気を取り戻す。

加藤利右衛門・仁兵衛兄弟や、加藤新右衛門・三右衛門ら陶工は、尾張藩の保護を受けながら窯業生産を再開。それぞれ日用品を量産しつつ、茶陶など特色ある陶器を作るようになる。

江戸時代後期、瀬戸でも磁器生産が始まるが、有田の磁器に劣っていたため、1804(文化元)年、加藤民吉が先進の磁器生産技術を学ぶために肥前へ旅立つ。

3年後、素地土の精製や釉薬の調合、築窯や焼成法などを習得して帰村すると、瀬戸の磁器技術は急速に発展した。

すぐに、磁器は陶器生産をしのぐ勢いになり、陶器(本業焼)は生き残りをかけて、現在までも続く石皿や馬の目皿を始めとした独自の製品を生み出した。

○万国博覧会へ出品。世界で愛される焼き物に

明治時代に入ると、政府の殖産興業・輸出振興政策によって輸出用陶磁器の開発・生産が進む。

万国博覧会への参加が試みられ、1873(明治6)年のウィーン万博、1876(明治9)年のフィラデルフィア万博、1878(明治11)年のパリ万博に、瀬戸からも積極的に出品がなされ、高い評価を得る。

また、万博への参加によって欧米の最新技術が伝来するとともに、新たな海外市場が開拓されていった。

春龍「御深井釉水指」(19世紀前期)
春龍「御深井釉水指」(19世紀前期)瀬戸蔵ミュージアム蔵
川本桝吉(初代)「染付花鳥図獅子鈕蓋付大飾壷」(明治9年頃)(瀬戸蔵ミュージアム蔵)
初代川本桝吉「染付花鳥図獅子鈕蓋付大飾壷」(明治9年頃)瀬戸蔵ミュージアム蔵

○日用品から美術品まで何でもつくる、陶都瀬戸へ

明治時代、後の瀬戸窯業の基盤となる組織の設立や陶器学校の開校、インフラ整備が進められる。

石炭窯や動力ロクロが導入されて大量生産が可能となり、新たな技術・製品の研究開発も積極的に行われたことで、タイルや衛生陶器、碍子、ノベルティなどの新しい焼き物も登場。

瀬戸窯業の機械化・大量生産化が進む一方、焼き物の芸術性を高める陶芸分野も成立し、「陶都瀬戸」が確立していった。

20世紀後半、世界恐慌や戦争による軍需優先の影響を受けて、瀬戸窯業は企業整備や代用品生産など、受難の時代を迎える。

戦後は物資不足による生活用品の需要が高まり、瀬戸窯業は急速に復興。

1945(昭和20)年に輸出が再開されると、ノベルティや洋食器類が盛んにつくられた。こうして1970年代には、瀬戸窯業は最盛期を迎える。

円高や東アジアなどの陶磁器産地の台頭による輸出量の減少、後継者不足などの問題を抱えるが、先端科学技術を駆使したファインセラミックスを用いるなど、未来に向けた新しい瀬戸焼もつくられている。

丸山陶器株式会社「パーティーの前」(1960年)(瀬戸蔵ミュージアム蔵)
丸山陶器株式会社「パーティーの前」(1960年)瀬戸蔵ミュージアム蔵

瀬戸に行ったら「窯垣(かまがき)の小径」を歩こう

陶都瀬戸の歴史の深さが味わえるのが、洞地区の「窯垣の小径」。

窯垣とは、焼き物を焼くために用いた窯道具の廃材を利用した塀や石垣のこと。かつて窯の燃料や焼き物を運ぶために使われた道で、国内では瀬戸でしか見られない景観が続いている。

小径沿いには資料館があり、洞地区の歴史や文化を知ることができる。終着点周辺には、昔ながらの本業焼を受け継ぐ「瀬戸本業窯」があり、ギャラリーでは実際に製品を手に取れる。本業焼のうつわを使ったカフェもあるので、ぜひ一度訪れてみたい。

瀬戸本業窯

実際に歩いてみた様子はこちら
日本のタイル発祥の地「瀬戸」は壁を見ながら歩くのが面白い
https://story.nakagawa-masashichi.jp/89391

瀬戸焼のおさらい

●瀬戸焼の素材

・原土:
1000年以上前に花崗岩が風化・堆積してできた瀬戸陶土層から採掘。不純物が少なく耐火性が高く、可塑性に富む粘土、ガラスの原料になる珪砂が豊富に含まれる。

・主な産地:愛知県瀬戸市

・代表的な技法:灰釉、御深井釉(おふけゆう)、鉄釉、黄瀬戸釉、織部釉、志野釉、青磁釉、瑠璃釉、印花、画花、貼花、浮かし、浮彫り、櫛描、象嵌、化粧、刷毛目、掻き落し、掛け分け、流し掛け、ぼかし、吹き墨、イッチン、輪花、稜花、面取り、ヘラ目、沓形、透かし、練込

数字で見る瀬戸焼

誕生:鎌倉時代 ※諸説あり
製造品出荷額(窯業・土石):536億733万円
従業者(社)数(窯業・土石):2,680人(171事業所)
参考)※平成30年工業統計調査結果参照
http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2019092700048/files/kougyoH30.pdf

シェア率:
国の伝統的工芸品指定:2件
1977年に「赤津焼」、1997年に「瀬戸染付焼」が国の伝統的工芸品に指定されている。

<参考資料>
・『瀬戸焼ハンドブック』陶祖800年祭実行委員会(2014年)
・阿本香 著『瀬戸やきもの風土記』双葉社(1996年)
・唐澤昌宏 著『日本のやきもの 窯別ガイド 瀬戸』淡交社(2002年)
・納屋嘉人 編『なごみ 第38巻第2号』淡交社(2017年)
・仁木正格 著『わかりやすく、くわしい やきもの入門』主婦の友社(2018年)
・MUESUM 編『「旅する、千年、六古窯」ガイドブック』六古窯日本遺産活用協議会(2019年)
・やきもの愛好会 編『よくわかる やきもの大事典』ナツメ社(2008年)

<協力>
瀬戸蔵ミュージアム
http://www.seto-cul.jp/setogura-museum/
瀬戸焼振興協会
https://www.setoyakishinkokyokai.jp/

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