【心地好い暮らし】第6話 庭仕事の季節
実家は田舎だったのでそこそこ広い庭があった。祖父が作ったという鯉が泳ぐ小さな堀もあって、その周辺に四季折々の草花が植えてある。主に世話をしていたのは祖母のように記憶している。休みの日には父も加わって、私たち子供も掃除を手伝わされていた。大きな竹箒を使って草刈りの済んだ庭を掃くのが仕事なのだけれど、掃いた後の筋目がきれいになるようにと言われ、えーめんどくさいー…と思いながらも一生懸命掃いた記憶がある。子供ながらにもめんどうくさいが、そういうとこが大事なんだろうなと薄々気がついていた。いや気がつく機会だったのかもしれない。
庭には季節ごとに花が咲くので、祖母や母は時々の花を玄関に飾っていた。春は水仙にはじまり、その後はシャガ、八重山吹、菖蒲、紫陽花、向日葵、カンナ、秋桜、ケイトウ、お正月には松と千両なども活けられていた。そういえば神棚の榊も裏の山に採りに行っていた。スーパーではコンパクトに売られている枝ものだが、山の榊はりっぱな木だった。手が届く範囲のものを頂きますと挨拶してから採るように教えられた。
二人とも流派があるような活け方ではなかったが、聞けば何の花か教えてくれた。ひいおじいさんが好きだったとか、これは外国から来た花だとか、たわいもない話だったけれどどの花もシンプルに美しくて、いつのまにか当たり前に庭の花を自分の部屋にも飾る習慣ができたように思う。
何はともあれ、実家の庭が私の後の感性みたいなものに多分に影響したのは間違いない。
大学時代はまだその感覚を引きずっていてその辺に咲いている雑草を摘んできて飾ったり、バイト代に余裕があれば買ってきたりもしていたが、大阪で就職して忙しい日々が始まると一気に世界が変わってしまった。まず季節ごとにそろそろあの花が咲く時期だと察する感覚も、それを感じる時間の余裕もなくなってしまった。その代わり仕事を覚え、自分の経験が積みあがっていく楽しさに夢中になった。たまに花を買ってもすぐに枯らしてしまう。都会の暮らしもそれなりに楽しくて、そのことを疑問にも思わなかった。「忙しいから仕方ない」と切り替えるスピードがぐんぐん早くなっていったのだなと今振り返ればそう思う。
で、35歳で転職の為に奈良に来た。大阪から電車で1時間程度なのに住環境がぐっと野山に近くなった。それでもまだまだ自分で育てるほどの場所も余裕もなかったが、毎日の自転車通勤で季節ごとの花が咲くことを視覚から取り戻していった。あぁもう梅が咲いた。鈴蘭が咲いた。そういう気づきが体にしみ込んでいくような感覚。別に心身が弱っていたわけではなかったけれど、人間はそういうことに癒されるとこがある。あまりにも自然から切り離されると単純に疲れるんだと思う。
一昨年奈良市内ですぐ裏に雑木林があるようなマンションに引越して、少し広いテラスも使えるようになった。というかテラスに惹かれてその物件に決めた。あぁこれで大きな木も植えれるぞ!(植木鉢だけどね)と思ってからテラスの半分が埋まるまであっという間だった。
暖かくなってきたらプランターに新しい苗を植え、冬の間は控えていた鉢の植え替えを始める。本当は手袋をした方が汚れなくていいのだけれど、根元を押さえたり土を足したりしているとついつい素手になってしまう。その方がダイレクトに土の密度を感じ取れる気がして。爪に入った土を取る時にたいてい後悔するのだけれど…。
ふと見渡すと実家の庭にあった植物ばかりに囲まれている。三つ子の魂というけれど、私の中には確実にあの頃の風景が生きている。
<掲載商品>
信楽丸鉢
近藤製作所 移植ゴテ 小
書き手 千石あや
この連載は、暮らしの中のさまざまな家仕事に向き合いながら「心地好い暮らし」について考えていくエッセイです。
次回もお楽しみに。
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