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笠間焼とは

多様な顔を持つ、関東で最も古い焼き物産地

関東でもっとも歴史の古い焼き物産地、笠間。その作風は窯元ごとに多様です。

今日はそんな笠間焼の歴史と特徴について見ていきましょう。

<目次>
・笠間焼とは。関東で最古。益子焼とは兄弟産地
・ここに注目。作り手の95%は作家?
・笠間の焼き物あれこれ
・笠間焼の歴史
・現在の笠間焼 お隣産地・益子と取り組む「かさましこ」
・200軒以上の作り手が集結。笠間の陶炎祭
・関連する工芸品
・笠間焼のおさらい

笠間焼とは。関東で最古。益子焼とは兄弟産地

笠間焼は茨城県笠間地域で採れた粘土を使って作られる、関東で最も古い歴史を持つ焼き物である。

江戸時代中期、笠間藩・箱田村の名主であった久野半右衛門が、信楽焼の陶工 (長右衛門) から教えを受け開窯。

江戸時代末期になると笠間焼の技術は他の地域にも広がりをみせ、焼き物産地の成立に一役買うこととなった。

特に栃木県益子町の益子焼は笠間焼の製法を受け継いでおり、笠間焼とは兄弟産地の関係にある。このほか、山形県山形市の平清水焼、栃木県馬頭町の小砂子焼などが笠間焼と関わりを持つ産地として知られている。

現在焼き物としては、主に生活雑器 (皿、カップ、鉢、湯呑、酒器等) 、その他人形やオブジェ、モニュメントなども製作されている。

ここに注目。作り手の95%は作家?

戦後の生活様式の変化とともに笠間焼は急速に衰退したものの、市が笠間焼に活気をもたらすための政策を打ち出し、「陶芸団地」や「窯業団地」を建設。

1960年代時に巻き起こった民藝ブームの際に、多くの作家志望者や若手の陶芸家たちを呼び込んだ。

その名残で、現在の窯元の95%は作家系で占められているといわれている。

「◯◯焼はこうあるべき」といった型にとわられず、作家たちが自由な活動を行ってきたことが、窯ごとに表情が異なる、現在の笠間焼の幅広さに繋がっている。

笠間の焼き物あれこれ

笠間焼向山窯のサンプル
笠間焼向山窯のサンプル

笠間焼に使われる笠間粘土は、花崗岩 (かこうがん) (※)質であり鉄分を多く含む。そのまま焼くと赤黒い陶器が出来上がる。

※花崗岩 (かこうがん)
石英・長石・雲母などからなる火成岩の一種。石碑などに広く用いられる。別名 : 御影石

江戸時代は釉薬の一種である「柿釉」と呼ばれる、赤みを帯びた色合いに仕上がる薬を使い水甕や壺を主に作った。明治時代には飴釉や青釉などの色味が加わり、すり鉢と茶壺が主力製品となる。

昭和以降は新たな陶芸家を誘致し、伝統的な製法だけでなく個性あふれる作品が増え、インテリア製品までアイテムの幅が広がった。

現在の笠間焼は、制作される焼物の種類も一層広がりを見せ、近年では、贈り物や結婚式の引き出物などといったオーダーメイドの受注が人気の窯元も登場している。

<関連の読み物>
引き出物を「オーダーメイドの笠間焼」で作ってみました

笠間焼の歴史

窯に入る前の作品
窯に入る前の作品

◯信楽焼の流れをくむ関東最初の焼き物産地の誕生

江戸時代中期の安永年間 (1772〜1781年) 、笠間藩・箱田村 (現在の笠間市箱田地区) の名主であった久野半右衛門 (くの・はんうえもん) が、信楽焼の陶工の指導を受けて開窯したことが始まりとされる。

その後、久野家を含む6窯元が笠間藩の御用窯である「仕法窯」に選ばれ、藩の保護下で産業として発展した。

江戸時代末期の1850年頃には、関東の伝統ある焼き物産地笠間で修行した陶芸家たちが笠間焼の技術を近隣へ広めていった。なかでも益子焼は笠間の陶芸家が栃木県益子で開窯したこときっかけに生まれたとされ、産地として兄弟関係にあたる。

◯明治維新後

江戸時代に発展していた笠間焼も、明治時代に入ると一時低迷。

そんな中で復興に尽力し中興の祖と呼ばれた人物に、行商の身であった田中友三郎がいる。

田中友三郎は笠間焼の主力製品としてすり鉢と茶釜の知名度を上げ、積極的に販売した。それまですり鉢は備前産が名をあげていたが、努力の甲斐あり「頑丈で安い」と高い評価を受けるようになった。

1868年 (明治10年) の内国博覧会では、笠間焼の茶壺が一等を受賞。全国で笠間焼の名が知られるようになり、さらに知名度を上げた。

1889年 (明治22年) の水戸線開通で列車を使っての運搬が可能になったことで販売経路が東日本一帯へと広がり、笠間焼は隆盛期を迎える。

販売の増加に伴って、主力製品のすり鉢・茶壺にとどまらず、甕・壺・徳利・行平・火鉢・土瓶・湯たんぽなどの様々な日用品が生産されるようになった。

◯戦後

終戦後、プラスチックの登場や工場での大量生産など、時代の変化によって笠間焼の需要は減り、今までに無いほどの窮地に追い込まれる。これは焼き物需要の低下だけでなく、産地のまとめ役である「問屋」が笠間に無かったことが大いに関係すると言われている。

そこで動いたのが行政である。茨城県は業界の要望で1950年 (昭和25年) に県立窯業指導所を設立し、試験・研究・指導機関としてスタートした。また笠間市は地場産業の窮地を救うべく「芸術の村」建設の政策に踏み切った。

「芸術の村」を作り上げる政策のなかで、陶芸家を誘致するため、1963年に陶芸団地、1972年に窯業団地を建築。そのお陰で若手の陶芸作家たちが集まり、笠間焼の活気を取り戻すとともに、伝統に縛られた作風だけではない自由な制作を可能とする風潮を作り出すことに成功。

1992年 (平成4年)、笠間焼は国の伝統的工芸品に指定された。

現在の笠間焼 お隣産地・益子と取り組む「かさましこ」

益子焼の産地である栃木県の益子町と、笠間焼の産地である茨城県の笠間市は地理的にも近く、東日本大震災後の復興への取り組みをきっかけに親交をさらに深め、地場産業の発展に取り組んでいる。

「かさましこ」は「かさま」と「ましこ」を組み合わせた言葉で、公式サイトやパンフレットを通じて、笠間と益子の窯元めぐりやそれぞれの焼き物の紹介を行なっている。

200軒以上の作り手が集結。笠間の陶炎祭

笠間の陶炎祭の様子
笠間の陶炎祭の様子

「笠間の陶炎祭 (ひまつり) 」は、笠間焼の魅力を存分に知り、楽しむことができるイベントだ。茨城県で最大級の祭りとされ、毎年4月29日〜5月5日に笠間芸術の森公園で開催される。

陶芸家・窯元・地元販売店など200軒以上の参加があり、飲食ブースを出店する陶芸家たちも。個性的な陶芸家が多いことでも知られる笠間の会場では、趣向を凝らしたユニークな食べ物や手作りのお店に視点を向けても楽しいだろう。

関連する工芸品

益子焼

https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/107938

笠間焼のおさらい

◯素材

茨城県笠間地域で採れる、笠間粘土を使用。花崗岩質で鉄分を多く含む。

◯代表的な技法

戦前は主に藁灰釉・柿釉・青釉など釉薬の単色の掛け流しや、重ね掛けで味わいを表現した。登り窯による焼成。現在は伝統を残しつつ、陶芸作家ごとに様々な作風が見られる。

◯主な産地

茨城県笠間市

◯数字で見る笠間焼

・誕生 : 1772〜1781年ごろ

・事業所数 : 約250件

・年間生産額 : 約20億円

・伝統工芸指定 : 1992年 (平成4年)、国の伝統的工芸品に指定

<参考>

平凡社『やきもの事典』平凡社 (2000年)

やきもの愛好会編『よくわかる やきもの大辞典』ナツメ社 (2008年)

伝統的工芸品産業振興協会監修『ポプラディア情報館 伝統工芸』ポプラ社 (2006年)

仁木著『わかりやすく、くわしい やきもの入門』主婦の友社 (2018年)

公益財団法人未来工学研究所 『伝統的工芸品産地調査・診断事業報告書 笠間焼』

http://www.ifeng.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/06/CR-2002-10-4.pdf

笠間の陶炎祭

http://www.himatsuri.net/

笠間焼協同組合

https://kasamayaki.or.jp/

陶の里 かさましこ

http://www.kasamashiko.jp/

<協力>

笠間焼協同組合
https://kasamayaki.or.jp/

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