「石垣の博物館」金沢城の楽しみ方。プロに教わる謎多き庭園の魅力

金沢の人気観光地、金沢城には別名があります。

出入口や庭園など、場所に応じて様式を使い分けた多種多彩な石垣が存在し、石垣に関する歴史資料が備わっていることなどから、ついた名前が「石垣の博物館」。

今回は、そんな金沢城の石垣の魅力をプロと一緒に巡ります!

まずは玉泉院丸庭園で、庭の景色として石垣を見る。

金沢城の石垣

金沢城は1583(天正11)年、前田利家の入城後、本格的な城作りが始まり、1869(明治2)年まで加賀藩前田家14代の居城として置かれました。

明治以降は陸軍の拠点、終戦後は金沢大学のキャンパスとして利用。金沢城公園として一般公開されたのは2001(平成13)年のこと。

公園整備をするため発掘調査や研究が行われ、そこではじめて石垣が注目されたそうです。

石川県金沢城調査研究所の冨田和気夫さんに、中でも一番金沢城らしい石垣が見られるという「玉泉院丸庭園(ぎょくせんいんまるていえん)」を案内していただきました。

金沢城玉泉院丸庭園

美しい風景が広がる、一般的な庭園のように見えますが、なんだかちょっと違う。

「庭というと、景色の一つに石を置いたりしますが、ここは石垣を見て楽しむ庭になっています」

金沢城玉泉院丸庭園

確かに、言われてみれば石垣ですが、あまりに景色に馴染んでいて石垣とは思えず、ここがお城であることを忘れてしまいそうです。

「たまたま石垣があって、それを庭の借景にしているのではなく、石の積み方を変えたり、石の色合いを変えるなど意匠的な石垣をしつらえています」

そもそもここに石垣は必要だったのでしょうか?

「斜面ではあるので、擁壁(ようへき)という本来の機能を持っていることは間違ありません。でも、もっと簡単に作ることもできるのに、あえて手の込んだ作りをしているのは、やはり石垣が庭の一部になっているからだと思います」

色、形も様々な石垣、実はものすごい労力が‥‥

回遊路に沿って、石垣に近づいてみます。

金沢城切石積石垣

「これは“切石積石垣”と言って、ぴっちりと隙間なく合わせて積み上げていく技法です」

同じ形の石を積む方法もあるそうですが、ここは形がバラバラ。

「形が違うので、ひとつ石を積んだら型取りをして、その形に合わせた石を作って隣に積んでいく。ものすごく時間がかかります」

想像しただけで気が遠くなる作業です。

「石は“戸室石”を使っています。戸室石には茶系の赤戸室と、灰色系の青戸室があって、その色使いもポイントになっていますね」

いろんな色があってパッチワークのようです。

「ほかのお城の石垣は形や積み方に変化はあっても、色の変化はありません。どこまで意識していたかわかりませんが、戸室石ならではのメリットだと思います」

石垣で庭に変化をもたせる

パッチワークの石垣の横には、刻印のある石垣が並んでいます。

金沢城玉泉院丸庭園

「刻印が面白いと発想した人がいて、わざわざここに集めたのではないかと」

これは何のマークなのでしょうか?

「重臣たちのマークなのか、ひとつの仕事をするグループのマークなのか、はっきりしたことはわかっていません。家紋とも違います」

刻印は城内に200種類以上あるそうです。

「他の藩の石垣にも刻印はありますが、金沢城は種類が多いので、百万石を構成する家臣の多さと関連しているのではないかという説もあります。あとは運用の仕方も違うのかもしれません」

それにしても、少し歩くだけでいろんな石垣を見ることができて、楽しくなります。

「庭というのは変化に飛んでいることが大事で、単調では面白くない。ここは石垣で変化をつけていたのではないかと思います」

石垣にあるまじき不自然な段差

こちらは、池に架かる「紅葉橋」の前にある石垣です。

金沢城玉泉院丸庭園

「元は庭の入り口になる大きな門を載せていた石垣ですが、全体のプロポーションを見ると、橋を渡る時に目を引くような石垣になっています」

プロポーション?

「普通、石垣というのは高さより幅が広く作られますが、ここは逆に幅より高さを大きく作られていて、存在感が際立っています。不自然な段差といってもよいでしょう」

なるほど。紅葉橋だけに、石垣で山を表現していたのかも。そんな想像をするのも楽しくなります。

石垣滝の景色を表現した「色紙短冊積石垣」

「これは“色紙短冊積石垣”と名付けられた石垣です」

金沢城色紙短冊積石垣

「上にあるV字型の黒い石が石樋で、そこから水が流れ、滝になっていました」

金沢城色紙短冊積石垣

石垣に滝を組み込むという、大胆な発想!このようなものは他にはなく、金沢城独自のものだそう。

「普通、石垣は頑丈にするために石を横にして積んでいきますが、ここは縦長の石を段差をつけて三段に組み込んでいるのも大きな特徴です。庭に石を置くとき、高さを変えて配石するのが定番ですが、それを石垣で表現したのでしょう。縦方向のラインは滝の水の流れとマッチしますから、全体としては庭の景の要である「滝石組み」の景色を石垣で表現したのではないかと考えられています」

なんと!滝を組み込むだけでなく、さらに水の流れを表現しているとは!

いったい誰がデザインしたのでしょうか?

「それがわからないんです。古文書にも記録されていないので。ただ、庭というのは一般の家臣が楽しむのではなく、藩主が楽しむものなので、当時の藩主の趣向は入っているのではないかと思います。これから研究されていくテーマのひとつですね」

どんな方が考えたのか。なんだかワクワクします。

「誰かデザインセンスに飛んだアーティスティックな方がいて、設計、全体をプランニングしていかないと、こういうカッコイイ景観にはならんのではないかと思いますね」

崖の下から石を積み、隙間に川原石を埋めて積み上げていく

金沢城の石垣の特徴がわかったところで、これらの石垣がどのように作られたのか、城内にある模型を見ながら教えていただきました。

「これが石垣の構造です」

金沢城の石垣
石切場や発掘調査で発掘された石を使った模型。城内2箇所に展示され、見ることができる

「崖の下の方から石を積んで、後ろや隙間に川原石で埋めながら積み上げていきます。

奥行きの長い石は重量もあるので頑丈です。構造としては、石と石の間にモルタルや粘土を挟んで一体化する剛構造の壁ではなく、大きな石をバランスよく積んでいく柔構造の壁ですね」

金沢城の石垣

左が原石に近いもの。右は石垣用に加工された石。どうやって、この形にしたのでしょうか。

「割って加工します。初めに穴をいくつも掘って、穴の中に鉄製の太い楔(くさび)を入れ、上から大きなハンマーで叩くと割れます」

穴を掘ったり削ったりするのは鉄のノミを使っていたそうです。

金沢城の石垣

江戸時代の設計士「穴生」とは

石垣に使われている戸室石は、金沢城から9キロほど離れた石切場から運ばれてきました。

「戸室石は火山のマグマが冷え固まった安山岩で、堅いけれど加工がしやすい。そのため、早くから加工の技術も発達しました」

ご案内いただいた石川県金沢城調査研究所の冨田和気夫さん
ご案内いただいた石川県金沢城調査研究所の冨田和気夫さん

石切場で形を作って、お城では積むだけというのが基本的な流れ。

ということは、設計段階で石の形や数が決まっていたということでしょうか?

「そうですね。まずはどういう石垣を作るか、高さ幅、そのためには石がいくつ必要か見積もらなければなりません」

設計士がいたのでしょうか。

「石垣作りの一番上にいる技術官僚を“穴太(あのう)”といいます。現場での指揮はもちろん、石垣を作るのに角石は何個必要か、この形はいくついるのか、企画寸法、数を積算し、それを作って持ってくるまでの人夫賃の経費まで積算するのが穴太の仕事です」

金沢城の石垣
石垣が露出しているところもあり、より構造がわかりやすい

穴太は、近江国(現在の滋賀県)坂本が発祥とされます。城郭の石垣などをつくる専門の技術者として幕府や諸藩に仕え、築城ラッシュの際には大きな活躍を果たしたそうです。

「信長が安土城の技術者として穴太を抱え、秀吉が継承し、秀吉につながる大名のところに穴太が散らばって、全国に広がっていったようです」

加賀藩では利家が穴太を抱え、武士と同様に「穴生」という職を置きます。

「職になると代々世襲になるので、技の伝承が図られていく。でも、一つの家だけだと途絶えることもあるので、穴太家(後の奥家)と後藤家が世襲していました」

金沢城の石垣に関する古文書の多くは、この後藤家の10代目、彦三郎氏によるものだそうです。

「普通、職人の技は文字に残すものではなく、一子相伝、秘密のもの。ところが、江戸後期になって世の中の様子が変わってくると現場の数が少なくなって、技術伝承が難しくなってくる。そこで、筆まめだった彦三郎さんが自分の家に伝わってきた技術を書き残さないといかんと、図面を入れながら残した。これが他にはない貴重なものになっています」

彦三郎さんが手がけた石垣。大火から建物を守った亀甲石(六角形の石)を入組み込むなど、陰陽五行思想の影響もみられる。玉泉院丸庭園の「色紙短冊積石垣」も彦三郎さんが命名
彦三郎さんが手がけた石垣。大火から建物を守った亀甲石(六角形の石)を入組み込むなど、陰陽五行思想の影響もみられる。玉泉院丸庭園の「色紙短冊積石垣」も彦三郎さんが命名

手仕事ならではの美しさがある

石切場で形作られた石は城に運ばれた後、そのまま積まれていくものもありますが、切石積み石垣はさらに表面加工を行います。

金沢城石垣

「戸室石はスパッと切れるわけではないので、割った後、削って平らにする必要があります。荒加工までを石切場でやって、現場に運んでから仕上げ加工をしていたようです」

金沢城の石垣

これは、表面を平らにし、さらに角を縁取り加工したもの。

「“縁取り”技法は、石垣で凹凸のない真っ平らな壁面を作る上でとても重要です。この縁に定規をあてて、石の出入りをミリ単位で微調整することになります」

なぜそこまでやったのでしょう。

「“縁取り”は庭園や重要な門など、人目に触れる所に多いので、見栄えだと思います。

今の工業製品のような均一性はありませんが、そこがまたいい。手仕事なのでひとつひとつ違う、工芸品のような美しさがあると思っています」

お宝が眠ってる!?ロマンを感じる利家時代の石垣

最後に東の丸北面にある、城内で最も古い石垣を見に行きました。

「こちらが利家時代に築かれた石垣です。自然石や荒割りしただけの石を積む“自然石積み”です」

金沢城石垣

無骨で荒々しく勇ましさを感じさせる石垣です。

「これまで見てきたものと違ってデザイン性などはありませんが、よく見ると、一つだけ大きな石があるでしょう」

金沢城の石垣
中央下に一つだけ大きな石

「あの石の裏に何かあるんじゃないかと思っているんです」

え!お宝ですか!?

実際何か入っていたことはあるんですか?

「石工の道具が入っていることはありますね。ここを発掘するということはまずないので、想像するしかないのですが」

これだけ石垣にこだわってきた金沢城です。きっとなにかある。あってほしいと期待してしまいます。

美的センスを持ち合わせた藩主

防御としてだけでなく、見せるための石垣。

今回ご紹介したのはごく一部ですが、どれもこれまでの石垣のイメージを覆すものばかりでした。

金沢城に限って、なぜこれほど多彩な石垣が作られたのでしょうか。

金沢城の石垣
奥は「切石積み」、手前は「金場取り残し積み」と、違った手法の石垣が組まれているところもある

「加工に適した戸室石があったこと、穴太家を家臣に抱えるなど石垣造りの技術的な体制が整備されていたこともありますが、やはり、藩主の意向がなければできなかったと思います」

美的センスを持った藩主、そしてそのセンスを家臣たちも認めていたからこそ、腕によりをかけたのかもしれません。

石垣の博物館であり美術館ともいえる金沢城。

当時の技の粋を見に出かけてみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
石川県金沢城調査研究所
*金沢城公園の散策には金沢城ARアプリのご利用もおすすめです。

文・写真 : 坂田未希子

この連載は‥‥
土壁、塗壁、漆喰、石壁、板壁。その土地に合った素材、職人の技、歴史が刻まれた各地の「壁」を紹介する、特集「さんちの壁」。壁を知ると、旅はもっと面白くなります。

*こちらは、2018年5月26日公開の記事を再編集して掲載しました。金沢城を訪れたら、数百年も前の手仕事に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

東京駅には「試作品」があった。専門家と歩く東京の「壁」

東京駅の「試作品」があったのをご存知ですか?

なんでも東京駅の「習作」、つまり練習として造られた建築が今も残っているというので出かけてきました。

やってきたのは、神田川にかかる万世橋。

「向こうに見えるのが1912年(明治45年)にできた、万世橋高架橋です。実は昔、あの高架橋の上に駅があったんですよ」

高架橋
橋の向こうに見える赤煉瓦が高架橋
高架橋

そう話すのは、本日ご案内いただく小野田滋さん。駅、橋梁、トンネル、そして今見えているような高架橋などを専門とする、鉄道技術史研究の第一人者です。

高架橋
小野田滋 (おのだ しげる) さん 鉄道総合技術研究所勤務。工学博士、土木学会フェロー。1957年愛知県生まれ。日本大学文理学部応用地学科卒業。日本国有鉄道勤務を経て現職。著書に『高架鉄道と東京駅 (上・下) 』(交通新聞社)、『東京鉄道遺産「鉄道技術の歴史」をめぐる』(講談社)など。NHK「ブラタモリ」にも出演

ということは、ここが東京駅の「試作品」だった駅ですか!?

「それは後ほどご説明しますが、高架橋の上にプラットホームがありました。万世橋駅です。

1889年(明治22年)に開業した甲武鉄道 (私鉄) の終着駅でした。最初は飯田橋が終点でしたが、鉄道国有化によって国鉄の中央線になり、明治45年にここまで線を伸ばしたんです。

当時はあらゆる路線が、東京を目指していました」

万世橋の辺りは、路面電車が集まるターミナルになっていたとのこと。

万世橋駅前を走る市電の様子
当時の様子。正面奥が万世橋駅。駅前を市電が走っている(写真提供:小野田滋さん)

「今の大手町駅のように、いろいろな路線の市電が万世橋に集中して、かなり賑わっていたようです。

中央線も飯田橋からまっすぐ東京駅に行けば楽なのに、遠回りをしたのは、ターミナル駅である万世橋を通りたかったんでしょう」

その後、東京駅、神田駅、秋葉原駅ができ、地下には銀座線が開通。乗り換え客が減少したことから、昭和18年に万世橋駅は廃止になりました。

「高架橋は今も使われていて、中央線が走っています。数年前に高架下が再開発され、かつての駅の面影をたどれるようになりました。行ってみましょう」

電車好きにはたまらないスポット発見

万世橋を渡って、高架橋の裏側に回ると、何やらガラス扉の向こうに階段があります。

高架橋

「1935年に造られた階段です」

階段や空間そのものが展示品のようになっています。

高架橋
高架橋

階段を上って行くと‥‥

高架橋
高架橋

ガラス張りの、見晴らしのいいところに出ました。

「ここは駅が開業した当時のプラットホームで、今は展望デッキになっています」

え!?ここが!

高架橋
高架橋

すごい!デッキの両側を電車が通過していきます。

高架橋

「駅が廃止される頃は草ぼうぼうだったのを、きれいに整備しました。昔は、反対側にもう一つプラットホームがあったんですよ」

これはもう、電車好きにはたまらないスポットです。

高架橋
デッキに続く別の階段 (1912階段) は、開業時に造られたもの。昔の階段によく見られた蹴込み(けこみ)がある

懐かしくて新しい空間

さらに、高架下のスペースには、こんな空間が広がっていました。

高架橋
高架橋
通路の両側には店舗がずらり。穴ぐらを探検しているようでワクワクしてきます

「壁にコンクリートを巻いて補強していますが、そのほかは昔の高架橋の姿のままです」

高架橋
白い部分が補強したところ。グリーンの線路の桁も見える

小野田さんは専門家としてレンガの補強方法などをアドバイスしていたそうです。

高架橋

通路の天井部分が三角形でかわいらしいですね。

「これも最初からこの形で、連絡通路として使われていました」

高架橋
高架橋
線路の下に、こんなくつろぎの空間。ついつい長居してしまいそう
高架橋
神田川に面したオープンデッキは、施設開業時にできたもの

幻の駅のレンガに触れる

どこか懐かしくて新しい、おしゃれな空間に生まれ変わった万世橋高架橋を堪能し、再び外へ。

高架橋の前に広場があります。

高架橋

「ここに万世橋駅の駅舎がありました」

写真パネルで当時の駅舎を見ることができます。

高架橋
駅前の広場には日露戦争の英雄である広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた
高架橋
高架橋の上にあった昔のプラットホーム。左側にかつての駅舎が見える

2階建ての駅舎は、当時としては大きな建物だったそうです。

現在はビルが建っていますが、周辺に駅の面影を見ることができます。

ひとつはこちら。地面にあるガラス板を覗いてみると…

高架橋
高架橋

「新しくビルを建てる時に、駅の基礎部分が出てきたので、そのまま残しています」

高架橋

こちらの壁には、駅に使われていたレンガの破片が埋め込まれています。

高架橋
高架橋
高架橋
まるで有田のトンバイ塀のよう!

万世橋駅は東京駅の「試作品」だった

それではいよいよ核心へ。なぜここが東京駅の「試作品」なのでしょうか?

「実は万世橋駅を設計したのは、東京駅を設計した辰野金吾さんなんです」

え、そうなんですか!

万世橋駅の様子
万世橋駅の様子。東京駅の雰囲気とよく似ている(写真提供:小野田滋さん)

「万世橋駅は1912年(明治45年)、東京駅は1914(大正3年)に開業したので、両方掛け持ちでやっていたようです。

万世橋駅は、駅としては初めて鉄骨とレンガを組み合わせた構造が使われていますが、“これでできる”と確信して東京駅も同じ構造で造ったようです」

なんと、万世橋駅は東京駅の練習もかねて造られていた。

歴史的にも貴重な建物と言えますが、残念ながら関東大震災で焼失。幻の駅となりました。

水辺の景観を考えた高架橋

駅舎が再建された後、昭和11年には交通博物館が併設され、再び観光客の訪れる人気スポットに。

高架橋
交通博物館があった頃。懐かしく思う人もいるのでは

高架下は博物館の展示スペースとバックヤードとして利用されていました。

2006年に博物館閉館(大宮の鉄道博物館が後継施設)された後、高架橋は先ほど探索したマーチエキュート神田万世橋に生まれ変わりました。

高架橋

最後に万世橋の西側にある昌平橋から、万世橋高架橋の全景を見てみることに。

高架橋
昌平橋から見る万世橋高架橋。レンガ部分は高架下に土が埋められている。黒く見えるのは赤レンガの壁を保護するためのネット

「ドイツのベルリンにある高架橋がモデルになっています」

高架橋

赤レンガがきれいですね。

「神田川の水に映るのがポイントです」

ポイントとは?

「例えば、レンガの橋脚の隅にある白い石。レンガは強度が弱く角が欠けやすいので、隅に石を入れて強くしているのですが、高架橋の反対側には入っていないんです」

高架橋

水辺の景観を考えたということですか?

「おそらくそうではないかと」

確かに、石の入れ方もデザインされています。

「ところどころに装飾があるのも、ただの壁では寂しいから。ヨーロッパの古典建築から引用していると思います」

高架橋
高架橋
高架橋
反対側の柱には隅石がない

装飾を施すことで華やかになる。高架橋を見ることで、かつて万世橋駅がターミナル駅として栄えていたことがよくわかりました。

高架橋

「この辺り、実は高架橋の宝庫なんですよ。他にも特徴的な橋がいくつもあります」

高架橋の宝庫!?

いったいどんな高架橋があるのでしょうか。次回へ続きます!

<取材協力>
小野田茂さん
マーチエキュート神田万世橋

文 : 坂田未希子
写真 : 尾島可奈子

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有田のトンバイ塀

トンバイ塀です。

トンバイ塀とは、登窯の内壁に使われた耐火レンガの廃材や使い捨ての窯道具、陶片を赤土で固めた塀のことで、江戸時代から作られています。

有田のトンバイ塀

今は少なくなってしまいましたが、町の中心部である内山地区の裏通りに点在し、全て合わせると900メートルほどになるそうです。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀、眺めるほどに、窯のあと

トンバイ塀にはどんな歴史が刻まれているのでしょうか。

有田町役場商工観光課の深江亮平さんに、現存する中でも一番古い、1830年頃に建てられたトンバイ塀を案内していただきました。

「こちらが、17世紀のはじめに操業、1668年から皇室に納め続けている窯元、辻精磁社さんです。ここのトンバイ塀が最古のものと言われています」

有田のトンバイ塀

「登窯の耐用年数は10数年で、使い終わると窯を壊します。その時に廃材がたくさん出るので、それを使って築かれたものです」

よく見ると、レンガだけではなくいろいろなものが埋まっています。丸いものはなんでしょう。

有田のトンバイ塀

「これは窯道具のハマとかトチンです。焼き物を窯に入れる時に、焼成中の歪みを防いだり、窯の効率をよくするために使うものです」

有田のトンバイ塀
丸いものがハマ
有田のトンバイ塀_左中程、ドーナツ型のものがトチン
ドーナツ型のものがトチン

ツルツルしているのは釉薬がかかっているのでしょうか。

有田のトンバイ塀の松ヤニ

「登窯は松の木などの薪をくべて焼くので、松の油が飛んだり、灰がかかったりして、自然に釉薬がかかって、いろんな色になっているようです」

有田のトンバイ塀
いろいろな釉薬が混ざり合い複雑な色合いに

窯の中で高温に熱され、釉薬のかかったレンガや道具は廃材とはいえ、なんとも美しい色合いになっています。

「おそらくですが、元はこの上に漆喰が塗られていたと思われます。これは基礎部分。本当は白い壁だったものが、漆喰が剥がれ落ちて、中の基礎部分が露わになっている状態ですね」

漆喰が残っているトンバイ塀
漆喰が残っているトンバイ塀

なるほど、レンガが不規則に並んでいるのは基礎部分だから。偶然の産物とはいえ、風化したことで味わい深い壁になったんですね。

トンバイ塀に見る有田の歴史

有田焼は17世紀初頭、朝鮮陶工の李参平が泉山に陶石を発見し、窯を築いたのがはじまりといわれています。その後、有田の磁器は国内外で珍重されるほど人気となり、有田は焼き物の町として発展していきます。

「トンバイ塀のある裏通り」とよばれるこの辺りには、多くの窯元が立ち並んでいました。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀はいつ頃から作られたものなのでしょうか。

「実はよくわかっていません。有田は1828年の大火で町が全焼して、古文書が残っていないんです」

1828年、有田の町は「文政の大火」に見舞われました。台風による大風で窯の火が燃え広がり、町は全焼。その後、復興を遂げるまで、焼け出された町民の中には、登窯で生活した人もいたそうです。

「今ある家やトンバイ塀は1830年以降に建てられたものがほとんどです」

家の壁がトンバイでできているもところも
家の壁がトンバイでできているもところも

技術の漏洩を防ぐため

「表通りは器の卸をする商家で、裏通りに窯元や職人たちの住まいがありました。町並みを流れる川沿いに窯元があったのが特徴ですね」

有田焼は陶石を粉にし、水に溶かして粘土にしたもので作っていきますが、かつては陶石を粉にするために「唐臼」が使われていました。唐臼は水力で動かすため、窯元が川沿いに多く立ち並んでいたようです。

有田川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる
町並みに沿って流れる川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる

その窯元を囲むように築かれていたトンバイ塀。廃材を利用したリサイクルとしてだけでなく、陶工の技術の漏洩を防ぐ意味もあったそうです。

「有田焼の工程は歴史的に分業になっています。それは、一つ一つの技術のレベルを上げるためでもありますが、一人で全部でき、その技術を持って逃げる人が出ないように分業にしていたようです。そういう意味でも各窯元でトンバイ塀を作って技法を守っていたんだと思います」

壁を作ることで中を覗かれないようにしていた。でも、それにしては塀が少し低いような気もします。

「この高さだと中が覗けますが、本当は2メートル以上あります。昭和に入って道路が高くなったため、塀の高さが当初よりも低くなっているんです」

有田のトンバイ塀
内側から見ると塀の高さが分かる
有田のトンバイ塀
左から右に行くにつれ高くなっている。高いところは2メートル以上ある

うーん、知れば知るほど歴史がつまっています。

そもそも、なぜ、「トンバイ塀」なの?

今も、トンバイ塀は作られているのでしょうか。

「現在は登窯も少ないので、新しく作られることはあまりありませんが、壊れたら窯元さんが補修しているようです」

かつては技術を守るために築かれたトンバイ塀ですが、今は焼き物の町を象徴する風景として、大切に守られているんですね。

有田のトンバイ塀

登窯を再利用して作られた壁は、焼き物の町ならでは。

ほかでは見ることができない風景です。

最後になりましたが、なぜ「トンバイ塀」と呼ぶのでしょうか?

「“トンバイ”とは、耐火レンガのことです。語源がわかっていないのですが、朝鮮語説、中国語説など、いくつかの説があります。窯道具の“トチン”や“ハマ”もそうですね」

朝鮮や中国から技術が伝わってきた歴史を感じます。

高温で焼かれ、釉薬のかかったレンガに触れると、技術を磨き、切磋琢磨していた陶工たちの姿がよみがえるよう。

今回はそんな「さんちの壁」でした。

取材協力:有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之