長崎・佐世保を歩いたら街中が独楽づくしだった

米軍基地があり、佐世保バーガーや夜の外国人バーなど独特の文化で知られる佐世保。異国情緒ある街を歩くと、あるモチーフが目に入ってきます。

まずは駅。JR佐世保駅の改札をでると…

JR佐世保駅の独楽のモニュメント
お、大きい…!

モチーフの正体は佐世保独楽。

長崎県の伝統的工芸品指定を受けている、佐世保の郷土玩具です。

他県からやってきた人たちを出迎えるように、駅には巨大な佐世保独楽が設置されていました。

それにしてもユニークな形。日本各地には100近い独楽の種類があるそうですが、佐世保独楽は全国的にも珍しい「らっきょう型」に分類されるそうです。

佐世保市民なら一度はこの独楽で遊んだことがあるとか。

今日は港町・佐世保のもう一つの顔、独楽を探して街を歩いてみましょう。

佐世保の独楽は喧嘩が得意!?

早速、駅を出たところで独楽を発見。

佐世保独楽
佐世保独楽
まん丸い形と、上部の色使いは先ほどの巨大独楽と一緒です

実はこの絵、2つの独楽が並んでいるのがポイント。

佐世保独楽は独楽同士を激しくぶつけて戦わせる独楽なのです。

そんな遊び方から、ついた別名が「喧嘩独楽」。なんと「喧嘩ごま」という名前のお菓子まで佐世保市内にはあります。

それがこちら。

松月堂の「喧嘩ごま」

作ったのは佐世保市内にある和菓子屋「松月堂」さん。

松月堂
老舗の風格を感じる趣のある店構え
松月堂

松月堂は、佐世保で創業113年を誇る老舗和菓子屋です。初代の池田松吉さんが廻船問屋から転身し、当時日露戦争の特需に沸く佐世保で一旗あげるべく、和菓子屋を立ち上げたそう。

松月堂「入船」
佐世保みやげの定番「入船」はロングセラー商品。入船=景気がいいから、という港町らしいお菓子

現在は、4代目である池田育郎さんがその味を守りつつ、オリジナル商品を生み出しています。

「喧嘩ごま」のお菓子も池田さんが発案した一つ。やはり池田さんも子どもの頃は独楽で遊んだそう。

「子どもの頃から、公園などで喧嘩独楽をしていましたね。だから、『独楽』っていったら、この形が普通だと思ってました(笑)」

銘菓「喧嘩ごま」誕生物語

銘菓「喧嘩ごま」が誕生したのは、およそ20年前。市内にある亀山八幡宮の秋の例祭「佐世保くんち」で、松月堂のある上京町が6年に一度回ってくる「踊り町」という当番に当たった時のことでした。

「踊り町になると、出し物をするんです。それまでは『川船』という木造の船を男衆が引いたり回したりしていたのですが、趣旨を変えて何か新しい出し物をしようということになって。そこで出たのが佐世保独楽だったんです。独楽の美しさや回る時の元気のよさ、それらを表現した出し物をやることにしました」

独楽の踊りに、独楽の歌、そして駅にあった巨大な独楽のモニュメントも町のみんなで作ったのだそう。その際に、佐世保独楽にちなんで考えられたお菓子が「喧嘩ごま」でした。

卵の黄身が主原料の和菓子の焼き生地「桃山」で、こしあんと蜜漬けした栗を包んだお菓子。ひとくち食べると、栗の風味が口に広がります。

松月堂「喧嘩ごま」

佐世保独楽の独特な形を再現するために苦労したのが、型づくり。業者に依頼してもなかなか思い通りのものが出来上がらなかったといいます。

「結局、うちの工場長がかかりつけの歯医者さんから入れ歯などを作るときに使うシリコンを分けていただいて、それでまず独楽の型をとって、木型に起こしたんですよ」

松月堂「喧嘩ごま」の木型
独楽の形そのものの木型!

くぼみの部分には、食紅などで一筆ずつ線を入れて着色していき、佐世保独楽の鮮やかな模様を表現。

「本来の佐世保独楽には5色の線が入っているのですが、お菓子の『喧嘩ごま』には5色ないんですよ。それをどう佐世保独楽らしい雰囲気に再現するのかは、ちょっと難しかったですね」

こうしてさまざまな工夫を重ねて、見事にお菓子の「喧嘩ごま」が生まれたのでした。

松月堂「喧嘩ごま」

ちなみに、「喧嘩ごま」ができたばかりの頃に買っていかれたのは意外にも町内の方が中心だったそう。

「作った時には珍しがられましたね」と池田さん。

子どものおもちゃから工芸品へ。佐世保独楽の現在の形

さまざまな形で佐世保の街に溶け込んでいる独楽。ここまでくると、実物を見たくなってきました。

かつては佐世保の子どもなら一度は遊んだことがあった佐世保独楽も、今では身近なおもちゃというよりは工芸品の一つとして特別なものになっているそう。

そんな現在形の佐世保独楽を作っている場所があります。

松月堂さんもお菓子作りの際に許可をとったという、現在では唯一の作り手となった佐世保独楽本舗さんです。

佐世保独楽本舗
建物自体が独楽のデザイン!

次回、佐世保独楽本舗さんを訪ねて、この街と深く繋がっている佐世保独楽のことを教えてもらいます。

<取材協力>

御菓子司 松月堂

長崎県佐世保市上京町5-6

0956-22-4458

https://www.showgetsudow.co.jp/

文:岩本恵美

写真:藤本幸一郎

おまけ

佐世保 独楽の形をした街灯
よく見ると…
佐世保 独楽の形をした街灯
ちょっと色あせていますが、まさしくこの姿は佐世保独楽。佐世保の街にはまだまだ他にも色んな姿になった独楽が潜んでいそうです

有田で目にうつる全ての坂は登り窯、かもしれない

日本磁器発祥の地、有田。

その町並みは、江戸時代に作られた焼き物の「工業団地」の姿がほぼそのまま残されているそうです。

有田古地図看板
町歩き中に出会った古地図の看板。現在もこの地図を手に町を歩けてしまうそう

今日は有田町役場の深江亮平さんのご案内で、そんな焼き物の里を町歩き。

前編では泉山磁石場を訪ね、有田焼に欠かせない陶石がどのように採掘されていたのか知ることができました。

後編のキーワードは、深江さんがご案内中に何度も口にした「有田で坂を見たら登り窯」。

一体、なんのことでしょうか?

まずは、有田の町を焼き尽くした「文政の大火」 (1828年) をまぬがれた池田家で、貴重な資料を見せていただきます。

有田火災を免れた家
水を多く含むため、そばに建つ池田家を守った大イチョウ

共同で使っていた登り窯

有田池田家

窯元の名前が書かれ、判が押されています。一番左には「池田」のお名前も見てとれます。

「これは有田ではとても珍しいものです。今は各窯元に窯がありますが、昔は共同で登り窯を使っていたことがわかる資料なんです。

来月この日に窯入れするから、あなたは下から1番目、あなたは2番目の位置ね、と割り当てられているんですね。

この時の窯入れの取りまとめ役だった池田家に、割り当て表が残されていたんです」

昔は窯を焚くのは大変なことで、色々と決め事もあったそうです。

「天気が悪かったら温度が上がらないとか、自然の状態に左右されるので、全てきれいに焼き上げるのは大変だったと思います」

有田池田家
赤絵師の池田久男さん

庭を掘り返したら、捨てられた失敗作がたくさん出てくるそう。

青が美しい杯

今は天然のコバルトがないので、こんなにきれいな青は出ないそうです。

有田池田家色の調合書

こちらは絵具の調合を記したもの。文化8年と書かれています。

「昔は各窯元で絵具の原料を微妙に合わせて独自の色をつくっていました。今も調合はするけど、これは本当に元から絵具を作っているのがわかります」

有田の年に一度のハレの日、奉納相撲

さて、また面白いものを見せていただきました。これはなんでしょう?

有田池田家お弁当箱

なんと、お相撲を見に行く時に使われていた、お弁当箱です!

「有田の人にとって磁石場は神聖な所なので、昔から石場神社で奉納相撲が行われています。昔は娯楽もなく、一年中休みなく焼き物を作っていたので、相撲が唯一の楽しみだったんです」

立派なお弁当箱からも楽しみにしていた様子がよくわかります。

おにぎりやのり巻き、卵焼きを入れたり、下にはお酒も入っていたのかもしれません。

「他の窯元には負けたくない。ライバルなので、観戦にも力が入りますね」

当時は機械もなく、土をこねたりろくろひいたり、窯元の仕事は力仕事。力自慢がたくさんいたようです。

かつてほどの賑わいはないものの、現在も毎年、奉納相撲が行われ、町の大切なお祭りになっています。深江さんもその場内放送係で参加されているそうですよ。

トンバイ塀のある裏通り

池田家を後に、再び町へ。

「昔は表通りに器の卸をする商家、裏通りに窯元や職人たちの住まい、裏通りに沿って流れる川沿いに窯元があったのが特徴です」

有田川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる

かつては採石された陶石を粉にするために「唐臼」が使われていました。唐臼は水力で動かすため、窯元が川沿いに多く立ち並んでいたようです。

窯元が多くあったという内山地区の裏通りには有田ならではの風景、「トンバイ塀」を見ることができます。

トンバイ塀とは、登窯の内壁に使われた耐火レンガの廃材や使い捨ての窯道具、陶片を赤土で固めた塀のこと。江戸時代から作られており、有田らしい風景として訪れる人の目を楽しませています。

トンバイ塀については、「旅先では『壁』を見るのがおもしろい。焼き物の町・有田のトンバイ塀」で詳しく紹介しておりますのでこちらも見てみてくださいね。

坂道を見たら登り窯の跡

最後に、町の西にある「天神森窯跡」を訪れました。

有田天神森窯跡

「ここは、有田で最初に成立した窯場の一つであったと考えられています」

鳥居をくぐってさらに奥へ進むと、ぽっかりと広がる空間があります。

有田天神森窯跡

この坂が、登り窯の土台の跡だそう。有田で焼き物づくりが始まった初期の姿が、こうして残されているのですね。

「有田で坂を見たら登り窯の跡、ということが多いんですよ。

登り窯は耐用年数があって、使えなくなったらその隣に作るんです。同じ斜面を利用して。

こっちを使っているときに、あっちを作って、あっちを使い始めたらこっちを壊す、またあっちを使いながら作る、みたいな。近くに何個かあるのが登り窯の特徴ですね」

当時、朝鮮人陶工のグループがいくつかあり、初めはこの辺りで唐津焼(陶器)を焼いていたとのこと。

「窯では、陶器と一緒に最初期の磁器も焼いていたことがわかっています。

白い原料を求めて移動していくうちに、ついに泉山を見つけたという流れです」

山々に囲まれた有田の町。

有田の町並み

かつてここには磁器の原料となる石があり、唐臼を使うための川があり、登り窯を作るための傾斜地があり、窯の燃料となる赤松がある、焼き物の理想郷でした。

この土地で生まれるべくして生まれた有田焼。

そんな運命を感じさせる町歩きになりました。

<取材協力>
有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

まるで特撮の舞台。日本磁器が産声を上げた有田を歩く

白く美しい磁器、有田焼。

その歴史は、さかのぼること400年ほど前、李参平率いる陶工集団が有田の町で磁器に使える陶石を発見したことに始まります。

現在の有田の町並みは、焼き物が盛んになった江戸初期に作られたものと考えられ、今もほとんど変わっていないそう。

有田の焼き物がどのように誕生し、町が作られていったのか。

有田町役場の深江亮平さんにご案内いただきながら、史跡を巡りました。

有田の歴史を語るのに欠かせない、泉山磁石場へ

有田泉山磁石場の入り口

まずはJR上有田駅すぐそばにある採石場、泉山磁石場へ向かいました。

採掘というと、山奥から石を掘り出してくるイメージがありますが、町中に採石場があるというのが不思議な感じがします。

はじめに立ち寄ったのが、磁石場のそばに建つ「石場神社」。

向かう途中、足元を見ると…

なんとなく、白っぽい。

有田石場神社境内

「この白っぽい石が、李参平率いる陶工集団が、日本で最初に発見した陶石です。この辺りは、元は山の中だったんですよ」

え?山の中とは?

「陶石を採取するために、もともと山だったところを今の地面の高さまで掘り下げてきたんですね。

採掘をした後の穴には作業の無事などを願って神様を祀っていました。そうしてたくさんあった土穴の神様を、1860年代に合祀したのが、この石場神社です」

境内には焼き物でできた有田焼陶祖の李参平も祀られています。

神社の裏手にまわると、今も観音様が祀られているところがあります。

実はこの観音様…

石場神社裏の観音様

見上げる高さにあるのです。以前はあの位置に地面があったことが窺えます。

ヒーローが出てきそうな景色が広がる採石場

神社を離れて、いよいよ磁石場へ。

「ここが泉山磁石場です」

有田泉山磁石場
野球場がいくつも入りそうな広さの磁石場

おぉ!なんだか特撮ものの撮影ができそうな景色!

ここで石を採っていたんですね。

通常は立ち入りできませんが、今回は特別に、中までご案内いただきました。

「あそこを見ると、山を上から掘り下げていったのがよくわかると思います」

有田泉山磁石場

植物が生えているところがもともとは地表だったとすると、いかに深く掘り下げてきたかがよくわかります。

例えるならお饅頭のあんを食べて残された皮

「石にも等級があるんです。ひとつは白いか白くないか。鉄分の含有が少ないほど白いので、等級が高い。もうひとつが粘り気。粘り気がある方が等級が高いです」

つまり、白くて粘り気があるものが最上となるわけですね。

「当時の人たちも、いい石を狙って掘っているので、今残っているこの辺りは等級としては低いものですね。

江戸時代の地図を見ると、佐賀藩の御用窯で使う石を採る「御用土」もあったようです」

一番いい石が採れた場所は、お殿様のためのものだったのですね。

泉山磁石場
崩落し、石が落ちてくることも。採石には危険が伴うことがよくわかる

磁石場は山をえぐるように採石されたため、全体がすり鉢状になっています。

「地質学に詳しい方に聞いた話です。210万年前の地熱活動で、一帯の山を成形する流紋岩 (火山岩の一種) が熱水と反応して陶石に変化した。

山をお饅頭に例えるなら、中のあんこに当たる部分が質が良く掘りつくされて、周りの白い皮が残っている、というのが今の状態です」

お饅頭のあんこと皮!とてもわかりやすいです。

「この辺りの石は焼き物のボディの為の石ですが、この山の向こう側には釉薬に使う石が採れます。耐火度といって、火に耐えられる温度が違うんです。採る場所によって石を使い分けていました」

2種類の石が採れるなんて、贅沢な山です。

 

壁に刻まれたつるはしの跡

実際に採石をしていた穴の中に入ってみることに。

泉山磁石場
泉山磁石場

人の背丈以上の高さをよじ登って中へ。

薄暗く、中はひんやりしています。

泉山磁石場穴

「寒いと地中の水分が凍るので、膨張収縮が繰り返されて崩落します。10年くらい前も寒さでこの辺が全部ごろっと落ちてきました」

泉山磁石場
ご案内いただいた深江亮平さん

「これは、つるはしで掘った跡です」

泉山磁石場つるはしの跡

機械ではなく、手で掘っていたのがよくわかります。大変な作業です。

泉山はその陶石の多くを掘り尽くし、現在、有田焼の材料には熊本の天草のものを使っているそうですが、ここが日本で一番最初の陶石発見の場だと思うと、感慨深いものがあります。

焼き物をするためにあるような場所

有田焼の産業が始まった場所、泉山磁石場。

「当時は、原料がある所に家を建て、窯を築いて生活し、原料が無くなると移動していたようです。

泉山で陶石を発見した李参平らもここより西の方で器を焼いていて、原料が枯渇したため、探し歩いた結果、ここにたどり着いたと考えられています」

泉山磁石場
穴の中から見た景色

泉山で良質な陶石が安定して採れるようになってから、佐賀藩による本格的な焼き物作りがはじまります。

「ここで採れた石を使い、町の北と南にある山の斜面の地形を利用して登り窯を築いた。今にも続く有田の町並みは1637年頃にはできていたようです。400年近く前に佐賀藩が作った工業団地ですね」

なるほど。町なかに磁石場があるように感じましたが、山のひとつから石が見つかったため、そこを起点に窯場ができ、町が作られていったんですね。

「有田は焼き物にとって本当に奇跡的な場所で、原料の石のほか、窯焚く燃料の赤松が自生していました。原料と燃料が揃っていたんです」

焼き物をするためにあるような場所なんですね。

安政6年から変わらない街並み

磁石場を後に、再び町を歩いていると、古地図の看板がありました。

「安政6 (1859) 年の地図です。当時から街並みがほとんど変わっていないのがよくわかります。江戸時代に作られた工業団地が今もそのままです」

東西に細長く、北と南に山。この地形を上手く利用して山の斜面に登り窯が作られた有田の町並み。

地図には小さく、「番所」という印が示されています。

有田古地図看板
左上、山の下部分に並んでいるのが登り窯

役人さんが常駐して、原料や技術を持って陶工が逃げないように監視をしていたそうです。

町を焼き尽くした大火

しかし、1828年、有田の町は「文政の大火」に見舞われます。台風による大風で窯の火が燃え広がり、町は焼き尽くされてしまいました。

そのため、有田には江戸後期より以前の紙の資料がほとんど残っていないと言います。

「火事で焼けなかった家はほんの数軒でした。そのうちの一軒が燃えなかった理由がこれなんです」

有田大公孫樹

なんて大きなイチョウの木!

「イチョウの木は水を含む性質があるので、木が家に覆い被さって、火事から守ったと言われています」

有田火災を免れた家

大火をまぬがれたのは、江戸時代は窯元で、現在は赤絵師 (焼き上げた白磁の器に上絵付を施す仕事)をしている池田家。

今回は特別に、火事から守られたご自宅の貴重な資料を見せていただけることに。

次回、有田の歴史を語るお宝の数々を拝見します。

<取材協力>
有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

有田池田家お弁当箱
これは一体…?

世界で有田にしかない。仕掛け人に聞く「贅沢な日用品店」bowlができるまで

「さんち必訪の店」。

産地のものや工芸品を扱い、地元に暮らす人が営むその土地の色を感じられるお店のこと。

必訪 (ひっぽう) はさんち編集部の造語です。産地を旅する中で、みなさんにぜひ訪れていただきたいお店をご紹介していきます。

来る4月1日、「有田焼」で知られる佐賀県有田町にオープンするお店があります。

名前を「bowl (ボウル) 」。

bowl入り口

有田の地域活性を手がける「有田まちづくり公社」がクラウドファンディングを活用し、築100年の陶磁器商家にオープンさせたセレクトショップです。

JR有田駅から徒歩5分ほどで到着
JR有田駅から徒歩5分ほどで到着

さんちでは少し前に、開店準備中のお店にお邪魔していました。

中に入ると、落ち着いた木の什器にはすでにバッグやカトラリーなどの日用品が並び、お店の雰囲気ができあがりつつあるところでした。

白壁に木の什器がよく映えます。この時点でまだ品揃えは1/3程度だそう
白壁に木の什器がよく映えます。この時点でまだ品揃えは1/3程度だそう

内装、商品のセレクトを一手に引き受けるのは店長の高塚裕子 (たかつか・ひろこ) さん。

高塚さん

ここを「有田にしかない」日用品店にしたいと語ります。

日用品を扱うのに「有田にしかない」とは、これいかに?

有田に新しい「必訪の店」が生まれるまでを、立ち上げの現場で伺います。

ドレスっぽい有田焼

「この町との最初の縁は有田の窯業学校に入ったこと。結婚を機にお隣の波佐見町に住んで、今も波佐見からこのお店に通っています。車で15分くらいですかね」

高塚さんが焼き物を学んだのは日本磁器発祥の地、佐賀県有田町。移り住んだのは和食器出荷額・全国第3位の「波佐見焼」の産地、長崎県波佐見町。

県は違えど隣り合う両町は、日本で初めて磁器づくりが始まった400年前から、ともに磁器の産地として発展してきました。

華やかな絵付けの伝統的な有田焼。有田観光協会提供。
華やかな絵付けの伝統的な有田焼。有田観光協会提供。
波佐見焼
日本の食卓を支えてきた波佐見焼

そんな二つの産地は、似て非なる存在。

「歴史的に見ると、波佐見焼はカジュアルで、有田焼はちょっとドレスっぽいイメージ。

今の流行はどちらかというとカジュアルな方ですよね。

波佐見でお店をした時はカジュアルをアップさせたのですけれど、有田はドレスなので、ドレスダウンさせるイメージでお店づくりをしようと思いました」

実は高塚さん、このお店に携わる以前に波佐見町でセレクトショップ「HANAわくすい」の運営を任され、県外からも人が訪れる人気店に育て上げた実績の持ち主。

高塚さん

食器の一大産地でありながら当時まだ全国的に知られていなかった波佐見焼の器を、南部鉄器や江戸箒と共に店頭に並べ、「職人もの」としての質の良さに光を当てました。

その実績を見込まれて任された、有田での新しいお店づくり。

お店の核になっているのは有田焼だと語りますが、その姿は各地から仕入れてきた暮らしの道具と一緒になって、お店の中に溶け込んでいます。

店内

そこにお店づくりの秘策が伏せられていました。

絵を描くときと同じように

「セレクトショップって、物を選ぶ仕事みたいに見えますが、別に、物にいい悪いは、ないと思っています。

何を置くかよりは『額縁の中で、四隅を変える』ということを考えています。絵と一緒なんです。

現象そのものを描くのではなく、テーブルがあって、後ろにどんな背景があってと、風景性を描き分けていく」

店内

「そう考えると、町や建物って、もうすでに関係性が出来上がっていますよね。

有田という町はひとつしかないので、どこかに憧れるよりこの町らしいことを一生懸命にやると、世界でここにしかないお店になるんじゃないかなと思っています」

では、高塚さんの考える「有田らしさ」って、いったいどんなものなのでしょう?

贅沢な鮭弁当のように

「日本で初めて磁器、つまり有田焼ができる前は、焼き物って土色一色だったと思うんです。

それが白磁に使える白い石が有田で見つかって、真っ白い有田焼ができた。

そこに色とりどりの絵付けまでされた器を見た時に、きっとみんな『うわぁ、なんて贅沢』と思ったはずなんですよね。

だから『贅沢さ』が有田らしさだと思っています。お弁当に例えると、高級なフォアグラとかキャビアがはいったお弁当ではなくて、同じ価格の鮭弁当みたいな感じ。

良い鮭がはいっていて、丹念に育てられていたお野菜や、時間をかけて作られた美味しい漬物なんかがはいっている。

高級だよね、有田焼じゃなくて、有田焼って贅沢だよねと思ってもらえたら、このお店は◯じゃないかなと。

bowlという器のどこを切りとっても、贅沢さを感じてもらえる場所にできたらと思っています」

光がたっぷりと差し込む店内
光がたっぷりと差し込む店内
アート作品を置けるような空間も
アート作品を置けるような空間も

アートと企業努力

高塚さんが有田焼の「贅沢さ」をはじめに知ったのは、窯業学校でした。

「実は、私はもともとはアートに興味があって、オブジェづくりをするつもりで間違って窯業学校にはいっちゃったんです (笑)

そこで、企業努力というのを、目の当たりにしたんですよ。型やろくろを使って、分業して、いかに効率よく質の良いものを作るか、という世界に。

ひとつの商品を早く安く作ることがどれだけ凄いことか、この時にはじめて知りました」

有田の工場で見つけた焼き物の型。左右対称なので片側だけの形です
有田の工場で見つけた焼き物の型。左右対称なので片側だけの形です
型にはめて商品を成形。これによりサイズのブレなく量産できる
型にはめて商品を成形。これによりサイズのブレなく量産できる

「その時の同級生たちの多くは今、家業を継いで窯元の社長さんになっています。彼らはただ仕事としてそういうものづくりを今日も明日もしていて、伝統工芸士といった肩書きを前に出すつもりもない。

一方の私は、ものは作れない。でも、ものを売ることならできる。

だから、彼らが今日、明日と前を向いてものを作るなら、私は後ろを向いて、この町でそうやって作られてきた有田焼の価値観をこのお店でぶつけてみたい。

柄物が以前ほどもてはやされない時代でも、日用品のお店の中に器を置いたら、たまには良いよねとか、こういうものもあるのね、と思ってもらえるんじゃないかと思うんです 」

例えば、近所の窯元さんがぷらっと立ち寄るお店に

店内には、大きな木のカウンターがあります。今後、洋酒やお酒に合う甘いものを用意するそうです。

カウンター

「例えば近所の窯元さんで働く人が、特に用はないけどちょっと飲みに来たよ、と立ち寄ってもらえるように作りました。

有田は400年続くものづくりの町で、暮らす人も目が肥えているんです。

だから、地域の方が何かお使い物や引き出物を選ぶ時、ちょっと靴下を買い換えようかなという時に来てくれるお店でありたいなと。

有田に似合うねと地元の人に言ってもらえるお店にしたいです」

焼き物の町にできた日用品店。次に訪れた時にはきっと、観光で来たお客さんや地元の人が入り混じって、「贅沢」な買い物を楽しんでいるはずです。

<取材協力>
bowl
佐賀県西松浦郡有田町本町丙1054
0955-25-9170
https://aritasu.jp/
*4月1日11時よりグランドオープン

文:尾島可奈子
写真:菅井俊之

アノニマスな建築探訪 圓通寺

こんにちは。ABOUTの佛願忠洋と申します。

ABOUTはインテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけています。隔月で『アノニマスな建築探訪』と題して、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築を紹介する第4回。

今回紹介するのは圓通寺。

所在地は京都市左京区岩倉幡枝町389

圓通寺のある岩倉は、東は八瀬、西は上賀茂、北は鞍馬に挟まれた場所にあり、平安時代以降、多くの貴族の隠棲地だった場所である。

ただ、メジャーな観光スポットがほとんどないため、平日ともなれば訪れる人も少なく、静かな京都を味わうことができる。

京都市左京区の圓通寺

現在の圓通寺は臨済宗のお寺、つまり禅寺であるが、元は江戸時代初期の1639年(寛永16年)に第108代、後水尾天皇の別荘として建てられた建物で、幡枝離宮(はたえだりきゅう)と呼ばれた。

後水尾天皇は12年の歳月をかけて雄大な比叡山の稜線を美しく眺めることができる場所を探し続け、ようやくたどり着いた場所が比叡山の真東にあたるこの地であった。

後水尾天皇は桂離宮、仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点と称される修学院離宮の造営も行った天皇である。

京都市左京区の圓通寺までの道

およそ10年振りぐらいにこの地を訪れたのだが、塀やアプローチ、駐車場が整備され、とてもキレイになっていた。

当時、地図を片手に圓通寺だけを目指してレンタサイクルで山道をひたすら登った記憶が鮮明に蘇る。今回は車にナビを入れて伺ったわけだが、よくこんなところまで電車を乗り継ぎ自転車に乗ってきていたものだとしみじみ思う。

圓通寺の門までのアプローチ

駐車場から竹の生垣に沿って進むと屋根に苔がむした門が見える。

門を抜けると左側に大きな岩。その先には『柿 落葉 踏ミてたづねぬ 円通寺』と書かれた高浜虚子が読んだ句の文字が。

足元には円の形をした踏み石。まさに踏みてたずねぬといった具合である。

圓通寺の門にある大きな岩
圓通寺の門にある円の形をした踏み石

靴を脱ぎ受付で拝観料を払い、いざ枯山水の庭園へ。

半間の廊下を進み光の方へ。

京都市左京区の圓通寺受付
京都市左京区の圓通寺廊下

建物を支える4本の柱と、屋外の樹木列、そして水平方向には手前の濡縁と庭園、生垣、その背後に現れる比叡山の山並み。
これらが巧みに『近・中・遠』の織りなす絶妙な世界を作り上げている。

この庭の秀逸なところとは、屋外の樹木列と借景の比叡山の関係に他ならない。

建物は経年変化はあるものの、大きく変化することはないが、自然そのものの庭園は春夏秋冬、時の移りゆくままに色や表情を変える。

光の差し込む時間や影のできる時間。そのことによる気温により人に与える印象も本当に無限である。

この借景の庭が生み出す無常の美は写真や言葉ではやはり伝えることができないのだと改めて思わされる。

圓通寺にある枯山水の庭園と比叡山の山並み
圓通寺にある枯山水の庭園と比叡山の山並み
圓通寺の庭園に面する縁側
圓通寺の庭園に面する縁側

後水尾天皇が12年もの歳月をかけてたどり着いたこの地。

『柿 落葉 踏ミてたづねぬ 円通寺』詠んだ高浜虚子。

十数年前にレンタサイクルで山道をひたすら登りこの地たどり着いた私。

この地にたどり着いて感じることは人それぞれではあるが、やはり何事にも時間や労力を惜しんではいけないのだと、改めて感じた日となった。

圓通寺の庭園の敷石
圓通寺の庭園の芝生
圓通寺の庭園風景
圓通寺の庭園風景
圓通寺の院内風景

佛願 忠洋 ぶつがん ただひろ 空間デザイナー/ABOUT
1982年 大阪府生まれ。
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、
副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。
私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

文・写真:佛願忠洋

<連載:アノニマスな建築探訪>

“This is a pen”だけで単身渡英した25歳が「世界の庭師」になるまで

改革者としての千利休

「千利休って、当時は『こいつクレイジーやろ!』と思われていたと思います。それぐらい、千利休がやったことは半端ない、すごいことなんですよね」

いかにも楽しそうにこう話すのは、世界を舞台に活躍する庭師・山口陽介さん。かつて千利休が起こした「庭」に関するイノベーションについて、解説してくれた。

「千利休は、お茶庭というジャンル作ったんですけどね。庭に明かりを灯すために、石灯籠を使った人なんです。灯篭はもともと神社の参道の両端に置かれていたもので、魂の道しるべなんですよ。それを庭の明かりに使うというのは、昔の人からすればかなり奇抜やったはず。

でも、それが現代まで受け継がれているということは、利休によってお茶の世界がアップデートされたということでしょ。利休は常識に捉われないから今も生きてたら、お茶庭にLEDとかプロジェクションマッピングとか、絶対使ってると思いますよ」

千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた茶人で、現代に伝わる茶道を生み出した「茶聖」として称えられている。しかし、裏を返せばその時代、ほかの茶人とは異なる茶の道を歩む先駆者であり、改革者だったともいえる。ちなみに、千利休は茶室にも変革をもたらしたことで知られる。

「庭」も、茶道と同じく歴史が深い。例えば、京都には平安時代から存在する神泉苑という庭園がある。しかし、その歴史や技法を忠実に守るだけでは、新しいものは生まれない。そう考えてきた山口さんは、千利休に倣い、常に自分と庭をアップデートすることを意識してきた。それが、現在のキャリアにつながっている。

波佐見の山・西海園芸 山口陽介
山口さんが所有する山の上から見た波佐見町

木を枯らせて気づいたこと

2016年、世界三大ガーデンフェスティバルのひとつ「シンガポール・ガーデン・フェスティバル」で金賞を受賞。

ちょうど今開催中の南半球最大の規模を誇る「メルボルン国際フラワー&ガーデンショー」に、日本人として初めて招待を受けて参加。日本全国にクライアントを抱え、昨年はシンガポールの資産家から指名を受けて現地で庭を作っている。

山口さんの拠点は生まれ故郷の長崎県波佐見町にあるが、いくつものプロジェクトを抱えて国内外を飛び回る日々。庭師の仕事は、依頼を受けて庭園を作ったり、庭木の手入れをすることが主で、世の中の庭師の大半は地元密着型。山口さんのような存在は稀だ。山口さんが手掛けた庭は、どうして国境を越えて人の心を捉えるのか。山口さんの人生を振り返りながら、そこに迫りたい。

西海園芸 庭師 山口陽介
山のなかに作った小屋も作業場に

山口さんは、波佐見町の造園会社「西海園芸」の二代目。しかし、「高校の時は美容師とかファッション系の華やかな感じが好きで、植木屋に興味はなかった」と振り返る。

しかし、父親から「一回でいいから、ちょっとやってみーな」と言われ、20歳の時、渋々ながら京都の庭師に弟子入りした。とはいえやる気はなく、いつも「早く辞めて帰りたい」と思っていた。ところがある日、その後ろ向きの気持ちが逆転した。

庭師・山口陽介さんと周る波佐見町の山

「朝早くに仕事に行って、夜遅くまで働いた後に、広い植木畑に水をやらないといけないんですよ。そんなんやってられるかと思って、煙草を吸いながら適当に水をあげてたら、木が枯れちゃって。それで、親方に思いっきり怒られたんですけど、その時に、木に対して『生きてんだ、こいつらも』と思ったんです。

当たり前のことなんですけど、それまではモノとしか見てなかったからね。木も命ある生き物と気づいてから、仕事が面白くなってすごくのめり込んだんですよね」

京都を離れ、ガーデニングの本場へ

京都時代の親方は、少し変わっていた。鶏やイノシシを飼い、育てて食べた。山口さんの仕事にはその動物たちの世話も含まれていた。

鶏やうり坊の世話は、庭仕事とは関係がないように思える。若かりし頃の山口さんも、「なんで俺が!」と思っていたそうだ。しかし、いま振り返れば庭の仕事とすべてがつながっていると語る。

「命をいただくということ、人間が生きるための食物連鎖ということを体で理解したよね。これは、水をあげなくて木を枯らしたことと一緒やなっていうことは腑に落ちていて。命ということでいえば、植物も鶏もイノシシも変わらないでしょう。多分、親方はそれを俺に伝えたかったんかなあって。

それに、鶏やイノシシを世話することで、鶏が食べない虫とか、イノシシはミカンを食べないとか、そういうことも学んだし。それが直接何かの役に立つわけじゃないけど、庭のことだけじゃなくて広い意味での知恵を学んだよね」

すぐに辞めるはずだった京都での修業は、気づけば5年が経っていた。ちょうどその頃、日本に「ガーデニング」という言葉が入ってきた。

ファッションが好きだった山口さんは、ファッション雑誌や写真集を通して「ガーデニング」に触れていた。ヨーロッパの庭で撮影された写真も多かったからだ。そして、日本の庭とは明らかに違う手法や見た目に、興味を抱くようになった。

その当時、京都では本当のガーデニングを知る人はおらず、みんなが手探り状態。そこで山口さんは、自分の好奇心に従った。

「ほんまもん、見に行こう」

親方の元を離れ、2005年、25歳の時に単身でガーデニングの本場、イギリスに渡った。英語といえば、「This is a pen」ぐらいしかわからなかった。

波佐見の西海園芸 山口陽介さん

王立植物園「キューガーデン」にアタック

イギリスにはひとりだけ、知り合いがいた。山口さんはそこに転がり込もうと考えていたが、甘かった。「1週間ぐらいしたら、ひとりで暮らせよ」と言われて大慌て。なんとかアパートの一室を借りて、何もかもが手探り状態でのひとり暮らしが始まった。

山口さんは、ガーデニングを学ぶためにいきなり最高峰の門を叩いた。現地で知り合った日本人女性の彼氏(ドイツ人)に頼んで英語で履歴書を書いてもらい、250年に及ぶ歴史を誇る世界遺産の王立植物園「キューガーデン」に「働きたい」とアプローチしたのだ。

ドイツ人の手による完璧な履歴書を提出した成果か、書類審査はパス。面接では、面接官との会話はほとんど成立しなかったが、日本最高峰の庭園が集中する京都で5年間仕事をしていたという経歴が評価されて、キューガーデンで働くことになった。若さゆえの勢いでぶち当たり、開いた扉だった。

キューガーデンには、世界中のガーデナーが集う。血気盛んな山口さんは「絶対負けん!」と気を張りながらも、自分が持っていない技術やセンスはどん欲に盗んだという。

「日本には差し色という感覚はあるでしょう。例えば、真っ白なところに赤の墨を落として、余白を楽しむ『間』を大切にする文化。一方の欧米は、鮮やかな色使いで華やかさを演出する。『間』を潰しながら、色で高低差を出したりするんですよ。そのスキルを学ぶのが、自分にとって新鮮でした」

「あと、仕事は17時に終わるんだけど、みんな16時50分にはソワソワし始める。日本はこの現場が終わらんと帰れんという文化だから、その価値観の違いは面白かったよなあ。でも、時間通りに仕事を終えてプライベートを楽しむというのはすごく豊かなことやなと思うようになって、日本に帰ってからもあまり残業しないようになったよね」

波佐見町 西海園芸の庭師 山口陽介さん

日本庭園の担当に抜擢

キューガーデンで仕事を始めてしばらくした頃、スタッフから「うちの日本庭園、どう思う?」と尋ねられた。

「素直にいって、汚い。松の木に漬物石みたいのをぶら下げているけど、今の日本ではやらないし、ダサいと思う」

率直すぎる山口さんは、思いつく限りのダメ出しをした。その話を聞いたスタッフは、一本の木を指して「切ってみろ」と言ってきた。恐らく、偉そうなことを言っている若造のお手並み拝見、というところだろう。

そこで山口さんは、枝を切る際に、なぜ切るのか一本一本、すべての理由を説明しながら、鋏を入れていった。

「この枝を切って光を入れることによってこういう芽が出るよ、とか、この枝を切って光と風を通すことによって虫がつきにくくなるよ、という話をしました」

波佐見 西海園芸の山口陽介
その瞬間の見栄えではなく、木の未来を見据えて仕事をする

すると、スタッフは「アメージング!」と絶賛。

「日本庭園のバックアップの講師をやって欲しい」と頼まれて、それから日本庭園の担当になった。キューガーデンの仕事としてはステップアップだったが、ギラギラした若者にそんなことは関係ない。

数カ月後、「勉強しにきたのに、伝える側に回ったら面白くなくなった」とキューガーデンの仕事を辞め、バックパックを背負って旅に出た。

波佐見ハラン

「良い庭」とは?

そうして2006年、帰国。波佐見町に戻った山口さんは、うなだれていた。

1年の欧州滞在で刺激を受け、「なにか面白いことをやってやろう」と前のめりになっていたが、空回り。当時は波佐見町にあるジャズバーに遅くまで入り浸っては愚痴っていたそうだ。

振り返ってみれば、山口さんにとってこの時期は、キューガーデンで世界中のガーデナーから吸収した養分が体と脳にいきわたるのに必要な時間だったのかもしれない。

京都とイギリスで培った経験がブレンドされ、芽吹き、花を咲かせたのは2013年。日本全国から30組のガーデナーが招待され、ハウステンボスで開催されたガーデニングジャパンカップフラワーショーで、最優秀作品賞を獲得したのだ。

それからは毎年、さまざまな賞を国内外で受賞。山口陽介の名が知れ渡り、仕事の幅も広がっていった。

山口さんが作った作品
西海園芸 山口陽介
山口さんが作った作品
西海園芸 山口陽介
山口さんが作った作品

山口さんにとって「良い庭」とは、「愛される庭」。100年先まで残したい、孫の時代まで伝えたいと思われる庭づくりを目指している。

そのために、庭に関するすべての設計に携わる。庭師という仕事は樹木、植物を扱う仕事というイメージがあるが、土を作り、庭に水を流す時には配水管の配置を考え、水の音まで調整し、石垣や土壁を作り、瓦を組む。

「京都時代の親方に、何でも屋になれって言われたんですよ。一本の木しか見えてなかったら空間が見えないし、建築が見えてなかったら庭も見えない。家と庭が見えてなかったら、家族も見えない。

そういういろいろな面をみて植木屋、庭師というフィルターで通せるかというのが大切やと思ってるんで」

武雄市の高野寺
佐賀県武雄市にある高野寺の日本庭園では、昔ながらの手法で土壁もイチから作った
武雄市の高野寺
高野寺の日本庭園を流れる小川。高低差などでせせらぎの音もコントロールする
武雄の高野寺
武雄市の高野寺
古い瓦を買い集め、1枚、1枚、丁寧に組んでいく。これも庭師の仕事 / 高野寺
西海園芸 山口陽介
山口さんが仕事をする上で参考にするのはリアルな山の風景

シンガポールで北海道を再現

「何でも屋」になることで、視野が広がる。植物学に加えて土木、建築などの知識もあれば、やれることの選択肢が増える。そうすれば、庭のポテンシャルが高まる。

例えばシンガポールでの仕事は、クライアントと話をしているうちに雪が好きで、毎年北海道に通っているということがわかった。そこで、コンセプトを「エブリデー北海道」にして、四季のない熱帯雨林気候のシンガポールで北海道を感じさせる庭を作った。

「日本人だから紅葉を植えるんでしょって言われるんだけど、そうじゃない。

単純に海外に紅葉や松を植える江戸時代のスタイルを持っていてもね、後世まで絶対残らんもんやなと思うし。もうひとつ深いところを伝えんと、僕はダメだと思っていて。だから今回は音や色で涼しく感じるという日本の文化、伝統を使って北海道を表現しました。

例えば、雪をイメージさせる白い葉の植物をベースに植えて、白い砂利を使ったり、壁を白く塗ったり。そこに水を流して川の音を聞かせたら、なんとなく涼しく見えるわけじゃないですか。クライアントもすごく喜んでましたよ」

自分がクライアントの立場になった時、どこかで見たような昔ながらの日本庭園と、大好きな北海道や雪をテーマにしたオリジナルの日本庭園、どちらを愛するだろうか。

答えを言うまでもないだろう。山口さんにとっても、熱帯雨林気候の土地で音や色を使って涼しく見せるというチャレンジとなった。

波佐見 西海園芸の山口陽介さん 山で

究極の庭づくり

こういった仕事ぶりによって今や引っ張りの山口さんだが、奢りはない。むしろ、どん欲だ。その理由は、好敵手の存在。

ひとりは、香港ディズニーランドやリゾートホテルの造園を手掛けるマレーシア人のリム・イン・チョングさん。もうひとりは、ブラッド・ピットなどハリウッドの超VIPの庭を手掛ける南アフリカ人のレオン・クルーゲさん。

「リムさんも、レオンも本当にすごいガーデナーであり、デザイナーでまだ勝てないなあ。ふたりのことは本当に尊敬しとるけんな。ただ、俺は俺の良さがあると思うし、ふたりはそれも言ってくれるから、良きライバルだよね。それぞれ、世界中で庭つくっとるけえ、日本の物件があると、『陽介、ちょっと手伝える?』って相談がきたりするし」

波佐見の庭師 山口陽介

山口さんは、自分をデザイナー兼職人と捉えている。そのデザインの部分で、ふたりの力に及んでいないと自覚している。だから、庭とは関係ないジャンルで経験を積んだデザイナーを雇いたいと考えている。

「僕は、発想豊かじゃないけん、実は。かけ算がうまいだけで、生み出すのは下手だなっていつも思うし。でも、対世界で見たら自分にはデザインの力がもっと必要だから、デザイナーに来てもらって、得意なかけ算で相乗効果を生み出したい」

波佐見 西海園芸 山口陽介さん
自分をアップデートすることで、庭をアップデートする

山口さんは自分の限界に挑むように、「究極の庭づくり」も始めた。

波佐見町近隣の荒れた山をいくつも購入し、自ら整備。これまでに桜と紅葉の木を2000本以上植えてきた。

焼き物の産地である波佐見町がいつか焼き物だけで食べられなくなった時に備えて、春に桜、秋に紅葉が見どころになる観光名所を作ろうという個人的なプロジェクトだ。

山口さんは木々が成長する100年先を見据えて、イメージを膨らませている。

波佐見 西海園芸 山口陽介さん
山口さんが所有する山の様子。桜と紅葉の木を植えると目印に棒を立てる

こうして自分の能力を拡張し続けたその先に、後の世に受け継がれるような日本の庭の新しいヒントがあるのかもしれない。その答えを探して、山口さんの庭を巡る旅は続く。

「仲間たちと冗談でよく、死んだ時に千利休に茶をたててもらえるくらい面白いことをしようやって言ってるんです。お前らようやったなあって」

波佐見 西海園芸の山口陽介

<取材協力>
西海園芸

文:川内イオ
写真:mitsugu uehara