中川政七商店の元バイヤーが惚れ込んだ。和と洋、伝統と現代が融合するうつわ「布志名焼 船木窯」

こんにちは。細萱久美です。中川政七商店のバイヤーを経て、現在はフリーにてメーカーの商品開発や仕入れなどの仕事をしております。

大学生の頃から器に興味を持ち、陶芸も習っていました。なんだかんだで10年近く習っていたような。その割に上達しなかったので作品はあまり残っていませんが、いずれまた習いたいと思っています。

気に入った器もよく買いましたが、20代では海外ブランドの食器が流行っていたので、買うのはほとんど洋食器。例えば今ではすっかり身近なデュラレックスのピカルディグラスは、30年程前にF.O.B COOPオーナーである益永みつ枝さんがフランスから輸入販売し始めて人気が広まりました。グラス1個にフランス文化を感じてワクワクしたのを覚えています。

現在は、どちらかといえば日本の器を中心に、中国や韓国などアジア圏の食器が生活に馴染んでいます。正直こだわりは結構強くて、各地の窯元や作家もの、古いものなど気に入ったものを一つ一つ集めています。

もはや公私の線引きもしていませんが、日本各地に行く機会があると、陶磁器産地であれば、なるべく窯元を訪ねるようにしています。現在奈良に住んでいることもあり、比較的西日本が多いのですが、山陰・山陽も窯元巡りを目的に旅するのにも最適な地域です。私も何度か行ったことがあります。

例えば島根県だと、比較的大きくて有名な「出西窯」、黄釉が印象的な「湯町窯」、「袖師窯」は様々な釉薬を使いこなします。いずれの窯も、見やすく選ぶのが楽しいショップがあるので、旅の思い出にお気に入りの器を探すのにもってこいだと思います。

島根県松江市の老舗、布志名焼・船木窯

今回ご紹介するのは、ちょっと趣の違う窯元の「布志名焼(ふじなやき)船木窯」。松江市の宍道湖畔にあります。江戸時代から続く老舗の窯で、現在6代目の船木伸児さんが作陶を継承されています。

船木窯は、4代目道忠が個人作家の道を選ぶと、民藝運動家の濱田庄司やバーナード・リーチ、柳宗悦たちと出会い、西洋風の陶技を取り入れたり、来待石(きまちいし)を使った、独自の布志名黄釉を完成させました。

布志名焼船木窯
布志名焼船木窯

6代伸児さんがご在宅だと、バーナード・リーチが泊まった部屋や作品、4代・5代の作品やら各国から蒐集されたインテリアが拝見できるスペシャルな窯元です。

伸児さんは布志名黄釉を守りつつ、独自の造形と意匠を生み出しています。この黄釉はとても温かみのあるなんとも魅力的な色。見た瞬間に魅了されましたが、量産する作陶ではないので、正直衝動買いできる価格ではない作品も多いです。

布志名焼船木窯

どうしようかと悩んでいたら、ショップにちょっとしたB品が手の届く価格で販売されていました。黄釉の大皿もあったので、飾り皿のつもりで思い出として購入。

布志名焼船木窯の大皿にパスタを盛り付け

一見、実用には難しいかなと思ったのですが、これは嬉しい誤算で実際に盛り付けると料理が美味しそうに見えます。レモンのような楕円も使いやすく、盛り付けも野菜から肉からパスタまで何でも合うのです。特に来客時には必ず出番のある頼もしいお皿。

理性的には、ベーシックで使いやすそうな食器を選びがちですが、主役を張れる食器のパワーを思い知りました。飾っても美しく、使ってより美しい「用の美」。一見の価値以上のものが見つかる「船木窯」は、行かれる予定があれば事前に連絡をされると良いと思います。

<紹介した窯元>
船木窯
島根県松江市玉湯町布志名437
0852-62-0710

細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

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文・写真:細萱久美

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世界で唯一、奄美大島だけで体験できる「泥染め」。1300年つづく工芸を訪ねて

奄美大島 金井工芸

東京から九州・鹿児島を飛び越え1200キロ。直線距離なら、お隣の国の首都・ソウルより遠い奄美大島。

そんな奄美の地で1300年前から受け継がれる伝統技法「泥染め」を体験するため、梅雨明けしたばかりの初夏の奄美を訪ねました。

奄美大島の海岸

冬でも水温が20度を下回ることがないというあたたかな奄美の蒼い海や、明らかに植生の違う南国の植物たち。

リゾート感たっぷりの景色を眺めつつ、湿度を含んだ空気と、夏に向かってだんだん強くなる日差しを浴びながら、染色工房を目指します。

(有)金井工芸の看板

ナビを頼りに空港から車を走らせること約30分。龍郷(たつごう)と呼ばれる集落に、目的地である染め工房〈金井工芸〉を見つけることができました。

金井工芸の外観
金井工芸の内観
金井工芸の後継者、金井志人(ゆきひと)さん

今回染めの事を教えてくれる金井志人(ゆきひと)さんは、金井工芸の若き後継者。一度は島を出たものの25歳の時に島に戻り、染めの工房を守りながら様々な取り組みを精力的に行っています。

重なりあうことで生まれる色

テキスタイルサンプルを見せてもらいながら、染め上がりをイメージ

Tシャツやハンカチなど自分の好きなテキスタイルを持ち込んで、泥染め・藍染めの体験ができる金井工芸。

まず、染める生地がうまく染まるかどうかの確認。次にテキスタイルサンプルを見せてもらいながら、染め上がりをイメージしていきます。

金井工芸で染められる色は多種多様ですが、基本は5種類ほどの天然染料。それらで染めを重ねていくことで様々な色を生み出していくそう。

金井工芸のストール。カラフル

今回染めるのは白いコットンのワンピース。果たしてうまくいくでしょうか?

「中川政七商店」の白いコットンのワンピース

染めのイメージが決まったら、いよいよ染め体験のスタートです。

木を切り出すことから始まる染料作り

工房の横に積み上げられていた車輪梅という木
車輪梅がチップ状にされ、鉄籠に入れられている

工房の横に積み上げられていた車輪梅(しゃりんばい)という木は、奄美では「テーチ木」と呼ばれ、地元の山から切り出されたもの。

約600キロものチップ状の車輪梅が、大きな鉄かごに入れられ、大釜でグラグラと2日間に渡って煮出されます。その煮汁を3〜5日寝かせた後、ようやく泥染めの染料として使うことができるそうです。

工房内の様子
工房には、スティールパンのような大きなボウルがいくつも並んでいます

爽やかな風が通り抜け、強い太陽の光が差し込む南国独特の開放感のある工房。

使い込まれ染料が付着した道具や作業台などからは、今までに染められた色の歴史を伺い知ることができます。

染料となったテーチ木の煮汁
染料となった車輪梅の煮汁は少しトロみがあり、独特の不思議な香りが。

「染料は生きてるので、天候、気候温度で染まり具合も違うんです」と金井さん。

奄美大島の金井工芸

その染料を生地に幾度となく揉み込んでいくうちに、だんだん茶褐色に染まっていくワンピース。繰り返されるその作業は、何か神秘的な儀式のようにも感じられました。

天然の染め場「泥田」

工房の裏手に設えられた天然の染め場である泥田

車輪梅の煮汁で染めた褐色のワンピースを抱えて、工房の裏手に設えられた天然の染め場である泥田へ。

周りには青々とした草木が茂る、今まで見たことが無い光景。いよいよ念願の泥染めです。

攪拌させた泥にワンピースを深く潜らせ、生地をこするようにして泥をすり込みます

長靴とエプロンを装着して、太ももの深さまである泥田に入ります。泥田の底を踏み込みながら、攪拌させた泥にワンピースを深くくぐらせ、生地をこするようにして泥水で揉み込みます。

ここで、土に多く含まれる「鉄分」と、先ほどの車輪梅に含まれる「タンニン」が化学反応を起こします。そうして、生地が少しずつ大地の色に染まっていくのです。

クリーミーでとても粒子が細かい奄美の泥

クリーミーでとても粒子が細かい奄美の泥。この細かさがあるからこそ、生地や糸を傷めることなく、美しく染めあげることができるのだそうです。

そういえば、最高級といわれる奄美の織りもの「大島紬(おおしまつむぎ)」の糸は絹。車輪梅と泥の染めを100回ほど繰り返す奄美の染めに対し、粒子の荒い土壌だったら、その絹糸はあっという間にボロボロになってしまうに違いありません。

工房内の流水プールにさらしながら、余分な泥の粒子を落としていきます

泥染めが終わったあとは、余分な泥の粒子を落として完成です。

自然の恵みに染められる

「遊 中川」の白いコットンのワンピース
染めあがったワンピース

最後に水通しをして、奄美の風に揺られてすぐ乾いたワンピースは、車輪梅の赤褐色に淡い泥の色が重なり、スモーキーでシックな色に。

一度藍に染めたあと、泥田で染めたストール

一度藍で染めたあとに泥田で染めたストールは、深みのある藍色になりました。水玉とストライプ部分は顔料プリントだったので染まらず白いままに。ベースの生地によって色が大きく変わるのも、染めの醍醐味です。

 

偶然が必然に変わるほど、豊かな自然

あああああ

その始まりは偶然、自然のいたずらだったかもしれませんが、この地ではるか昔から脈々と染めの歴史が受け継がれることは必然だったのかもしれないと思いました。

素材だけでなく、環境のひとつひとつから恵みを受けること。

—— “染める”ではなく、“染めさせてもらっている”。

染めの行程をひと通り終えて、改めて金井さんの言葉が身にしみます。

 

1000年以上昔の人々も同じように、この豊かな自然に手伝ってもらいながら布を染めていたと思うと、その染めあがる色ひとつひとつがとても愛おしく、感動もひとしおの泥染め体験でした。

 

<取材協力>
金井工芸
www.kanaikougei.com
鹿児島県大島郡龍郷町戸口2205-1
0997-62-3428

※ 染め体験については直接お問い合わせください

文:馬場拓見
写真:清水隆司

益子焼を救った人気駅弁「峠の釜めし」誕生秘話

電車を使った旅行は、車窓を眺めながらのんびり過ごす時間も楽しいもの。その魅力のひとつが、各地の味を詰め込んだ駅弁です。

JR信越本線・横川駅(群馬県)の駅弁「峠の釜めし」は、人気駅弁の代表格。峠の釜めしの一番の特徴といえば、何と言っても土釜(どがま)の容器。紙やプラスチックの容器とは異なる、ずっしりとした重みと温かみが人気です。

そんな、峠の釜めしの土釜、実は関東を代表する焼き物として有名な、栃木県の益子焼なんだそうです。その誕生秘話を伺うべく、土釜の製造元である、株式会社つかもとを訪ねました。

益子焼の土釜を使った釜めし
益子焼の土釜を使った釜めし

「峠の釜めし」の土釜を作るのは、益子最大の老舗窯元だった

真岡鐵道真岡線・益子駅から車を走らせること10分ほど。株式会社つかもとの本社に到着しました。

つかもと本社。緑に囲まれた静かな場所にあります
つかもと本社。緑に囲まれた静かな場所にあります

1864年の創業以来、時代に合わせて絶えることなく益子焼を作り続けてきたという益子最大の窯元です。広大な敷地内には釜工場の他に益子焼の売店・美術館・ギャラリー・陶芸体験のできるスペースなどがあります。

同社で広報を担当されている野沢さんに、峠の釜めし誕生のいきさつを教えてもらいました。

東京の台所用品づくりで発展した益子焼

もともと益子焼は、1853年に大塚啓三郎が陶器製造を開始したところから始まりました。つかもとを創業した塚本利平(つかもと・りへい)が窯をおこしたのは、その11年後の1864年のこと。

益子焼の主な製品は土瓶やすり鉢など、生活雑器と呼ばれた台所用品。比較的新しい焼き物産地ではありますが、東京に近い地の利を生かして、益子はどんどんと成長していきました。

益子焼の土瓶。重厚な色合い、ぼってりとした肌触りが特徴
益子焼の土瓶。重厚な色合い、ぼってりとした肌触りが特徴

特に東京大震災や太平洋戦争後は生活用品の不足からくる特需で好況を博したそうです。しかし、終戦後の復興が進んだ1950年頃には人々の生活様式の変化も相まって、台所用品の需要が低下。

益子焼の窯元は、濱田庄司が先導した民藝用品の製造へと転換をはかりましたが、どこも苦しい経営を余儀なくされていたんだとか。

「つかもとも、時代に合わせた新しい商品を作らねば、ということで4代目社長夫人・塚本シゲの主導で、様々な製品づくりに取り組みました」

実は不採用だった、おなじみのお弁当容器「釜っこ」

そんなある時、東京の百貨店から「益子焼の弁当容器を作ってほしい」と、つかもとに依頼がありました。

「きっと、家庭向けのものだったんでしょうね。土釜の弁当容器を考案し、提案したようです。結局は不採用になってしまったんですが、シゲさんはその『釜っこ』(土釜の愛称)に随分と愛着を持っていたようです」

現在の土釜。軽量化などはされたものの、シゲさんが作った当時からほとんど変わらない。アメ色の釉薬は益子焼伝統の色だ
現在の土釜。軽量化などはされたものの、シゲさんが作った当時からほとんど変わらない。アメ色の釉薬は益子焼伝統の色だ

偶然訪れた「おぎのや」との出会い

「これは是非世に出したい、きっと日の目を見て売れるに違いない、と信じ、関東近辺の弁当屋へ土釜の営業をかけ続けたんです」

ところが、土釜を持参して色々な弁当屋を回ったものの、重さが原因で断られ続ける日々が続きます。「こんなに重いものを使うわけがないだろう」と、にべもなく追い返されてしまったといいます。

群馬県・高崎駅の駅弁屋さんへ営業をかけ、いつものように断られた帰り道。電車が停まった横川駅で、転機は訪れました。

「当時、横川駅では列車の付け替えのため、一時間ほどの停車時間がありました。せっかく時間があるのだから、横川駅の駅弁屋にもダメ元で声をかけてみよう、ということになったようです。それが今の峠の釜めしの販売元である、『おぎのや』さんでした」

横川駅では長い停車時間があったにも関わらず、弁当の売れ行きが伸び悩んでいたそうです。温かい弁当を提供できれば人気が出るのではないかと考えていたところに、保温性と耐久性のある益子焼の土釜がぴったりとはまり、その日のうちに納品が決まりました。

峠の釜めし人気が、益子焼全体を支えた

1958年に発売された峠の釜めしは、当時としては大変画期的な「温かい駅弁」として徐々に人気を博していきます。

デメリットと言われ続けた土釜の重みは、逆に「落ち着いた感じ」「温かみを感じる」と言われるようになり、峠の釜めしになくてはならない存在になりました。

発売当初は1日あたり数十個という単位から始まった土釜づくりも、その人気は年々高まっていき、ついにはつかもとだけでは製造が追いつかない状況に。

そこで20軒に及ぶ益子の他の窯元に釜づくりを発注し、大量に製造できる体制を作りました。他の窯元にも型を提供し、どこの窯元で作ってもスピーディに同じ土釜が出来るように工夫したといいます。

土釜は型を利用して作られるため、全て同じ形に出来上がる
土釜は型を利用して作られるため、全て同じ形に出来上がる

経営難に陥っていた他の窯元も潤い、結果として益子焼の産業全体が持ち直すことができたのです。

「峠の釜めしは、発売から60年経った今でも、年間300万個も売れ続ける大ヒット商品です。これだけ数量が出る商品というのは、通常ではありえませんからね。峠の釜めしが、当時の益子焼の作陶全体を支える形になりました」

1日1万個の土釜を製造する、日本一の釜工場

野沢さんのご案内で、土釜を作る工場を見せてもらうことができました。現在では、峠の釜めしの土釜は全て、この自社工場で作っているそうです。各工程に機械を導入し、1日1万個もの土釜が次々と作られていきます。

1個あたりおよそ5秒というスピードで、成形や釉薬掛けなどの各工程を進んでいく
1個あたりおよそ5秒というスピードで、成形や釉薬掛けなどの各工程を進んでいく
焼成前の土釜がずらり。ベルトコンベアで窯詰め(窯に入れるため、器物を台車に詰める)の工程へ運ばれていく
焼成前の土釜がずらり。ベルトコンベアで窯詰め(窯に入れるため、器物を台車に詰める)の工程へ運ばれていく
左が焼成前、右が焼成後。8時間かけて焼き上げると、釉薬が益子焼伝統のアメ色に変化する
左が焼成前、右が焼成後。8時間かけて焼き上げると、釉薬が益子焼伝統のアメ色に変化する
機械化されているとはいえ、バリ取り(出っ張りを取り除くこと)の一部や窯詰めなどは人の手でおこなう
機械化されているとはいえ、バリ取り(出っ張りを取り除くこと)の一部や窯詰めなどは人の手でおこなう

時代に合わせた商品づくりで、伝統を未来へ

土釜を製造するラインの横で、釜めしの土釜とは違った製品を見かけました。

「峠の釜めしの生産ラインを利用して製造できる、新しい商品を開発しているところです。シゲさんが作った土釜の愛称『釜っこ』からとって、『kamacco(かまっこ)』と名付けました」

峠の釜めしの土釜(右)と、新製品の「kamacco(かまっこ)」(左)。同じ工場のラインを使って製造している。
峠の釜めしの土釜(右)と、新製品の「kamacco(かまっこ)」(左)。同じ工場のラインを使って製造している。

「伝統を守って未来につなげていくためには、やはり産業として成り立っていることも大切です。そのためには、先代たちがそうであったように、時代にあったものを作り続け、売り続けなければなりません。

特に現代は物があふれ、ただ作っただけでは売れなくなっています。きちんと機能性を持った、価値のある商品が求められていると感じています。先程の『kamacco(かまっこ)』は、自分ならではの時間を過ごしたい、という人のそばに置いてもらえれば、との思いで開発しました」

新商品「kamacco(かまっこ)」は平成29年度とちぎデザイン大賞(最優秀賞)を受賞。一合炊きの土釜で、たった20分で美味しいご飯を炊くことができる
新商品「kamacco(かまっこ)」は平成29年度とちぎデザイン大賞(最優秀賞)を受賞。一合炊きの土釜で、たった20分で美味しいご飯を炊くことができる

「現代に合った商品を手にすることで益子焼の存在を知ってもらう。そしてさらに益子へ足を運んでもらい、地元とも協力して益子を盛り上げていきたいですね」

峠の釜めし誕生の裏側には、偶然の出会いと、時代の流れに負けない窯元の熱意とが存在していました。そしてその情熱は峠の釜めしを大ヒット商品に育て、旅人のお腹を満たすだけでなく、益子という産地自体を元気にしたんですね。

あぁ、久しぶりに釜めしが食べたくなってきました。

今度峠の釜めしを見かけたら、益子焼の土釜とともにじっくりと味わいたいと思います。

<取材協力>
株式会社つかもと
栃木県芳賀郡益子町益子4264
0285-72-3223
http://www.tsukamoto.net/
※工場見学は要予約

文:竹島千遥
写真:竹島千遥、株式会社つかもと

※こちらは、2017年11月16日の記事を再編集して公開しました。

【わたしの好きなもの】線香花火「大江戸牡丹」


日本のものづくりの心意気。線香花火「大江戸牡丹」

日本文化の代表のひとつである花火。
その中でも特に親しまれているのが線香花火です。

きれいですよね。

でも、実は今楽しまれている線香花火の大部分は海外製で、日本国内で作れる会社は3社しかありません。
わたしが好きなのは、三河の三州火工さんが作る「大江戸牡丹」という線香花火です。

一気に燃えあがる海外製のものに対し、ゆっくりと散っていくのが日本の線香花火の特徴。

火花が徐々に姿を変えながら散っていくさまは、牡丹、松葉、柳、散り菊と表現され、とても情緒的です。

わずかな時間に様々な表情を見せる火花には、材料を吟味し、技術を磨きあげ、たった一本の線香花火のために手間暇を尽くす、作り手の誇りを感じます。

より早く多く安く消費させ、利益を追求する市場経済からすれば、決して効率的な商品とは言えないかもしれませんが、こんな情緒や趣を生み出す余白が、日本のものづくりにこれからももっと、残っていってほしいなと思います。

今も国内で線香花火を作るメーカーさんは、
自分たちがやめればその文化が途絶えてしまう。そうさせてなるものか。
と、前を向いてがんばっていらっしゃいます。

わたしは「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げた中川政七商店で働く身として、そんな志あるものづくりを、これからも応援していきたい思いです。

日本のものづくりの心意気が詰まったこの大江戸牡丹、
ぜひその火花の中に、未来へ残そうと誰かが挑んでいる美しい日本文化を感じてください。




物流事業担当 高原



 

藍染絞りに生きた職人。片野元彦のものづくりから「仕事」のあり方を考える

日本民藝館 特別展「藍染の絞り 片野元彦の仕事」を訪ねて

新しく何かをはじめるタイミングとして、57歳という年齢が遅いのか、適齢なのか。

一つの仕事を極めるうえで、19年という月日が短いのか長いのか。

人生100年といわれる時代に「仕事」の捉え方は、人それぞれです。

57歳で絞り染め(しぼりぞめ)をはじめた、片野元彦(かたの もとひこ)。いまや彼が生みだした「片野絞り」という藍染の絞り技法は、周りの職人たちから高い山脈を望むように崇められています。

そんな絞りの極致ともいうべき品々が、日本民藝館特別展『藍染の絞り 片野元彦の仕事』で一挙に公開されました。

日本民藝館 片野元彦の仕事
木綿地藍染熨斗目小華繁紋折縫絞着物 1960年代後半 工房草土社蔵

今日は、絞り染めの歴史と片野元彦のものづくりをたどりながら、「仕事」について考えてみたいと思います。

もっとも原始的な技法「絞り染め」

絞り染め(しぼりぞめ)とは、模様を表現する染め技法の1つ。

布の一部を糸で縫い締める・折るなどして、意図的に染液が染み込まない部分をつくることで模様を表現する技法。

文様を染め出す最も原始的な技法として、世界の各地に存在しています。

日本の「絞り染め」の歴史

日本における最古の絞り染めは、奈良の正倉院や法隆寺の宝物に見ることができます。奈良時代に中国からもたらされた、いくつかの染め技法を取り入れてつくられたと言われています。

簡単な方法はそれ以前から存在しますが、絞り染めが大きく発展するのは江戸時代に入ってからのこと。

高級品として京都の絹(きぬ)の布に絞った「京鹿の子」や、木綿に藍染をした「地方絞り」など、広く取り入れられるようになりました。

とりわけ、木綿の産地として名を馳せた豊後(現在の大分県)の「豊後(ぶんご)絞り」や、豊後より尾張(現在の愛知県名古屋市緑区)へ伝えられた「有松・鳴海絞り」が有名です。

父娘で確立した技法。美しい藍染の「片野絞り」を知る

絞り染めの第一人者として知られ、「片野絞り」と呼ばれる独自の技法を確立した片野元彦。

日本民藝館 片野元彦の木綿地藍染よろけ縞紋白影絞広巾
木綿地藍染立湧梅散紋白影絞裂 1972年 日本民藝館蔵
片野元彦の絞り染め 日本民藝館
木綿地藍楊梅染松皮菱紋巻上絞広巾 1963年 昭和38年度日本民藝館展 日本民藝館賞受賞作 日本民藝館蔵

「片野絞り」は、折り畳んだ染布にさらに折り畳んだ当て布を上下に当て、その上から縫い絞り防染していく技法で、別名「重ね縫い絞り」とも呼ばれています。

重ねた当て布の上から文様にそって、さらに一針一針縫って押さえていくため布には厚みが出ます。熟練の職人でも針を通すのがたいへん難しいそうです。

片野元彦の娘、片野かほりさん
木綿糸で括る作業を行う片野元彦の娘・かほりさん。自邸にて 1976年(藤本巧撮影、写真提供:工房草土社)

重ね縫いされ、まるで生きもののような布のかたまりを藍染すると、独特のぼかしが浮かびあがり、さまざまな文様が立体的に現れます。

これらは、片野父娘が二人三脚で高めた代表的な技法のひとつです。

片野元彦の片野絞り 木綿地藍染筋立段紋折巻絞広巾
木綿地藍染筋立段紋折巻絞広巾 1970年代前半 工房草土社蔵
片野元彦・片野かほりの「片野絞り」
木綿地藍染流水紋杢目絞広巾 1960年代後半 日本民藝館蔵

思想家・柳宗悦との出会いと職人としての目覚め

染色家・片野元彦(1899-1975)を57歳で絞りの世界へ導いたのは、日本民藝館の創設者であり思想家の柳 宗悦(やなぎ むねよし)でした。

青年時代、画家を志した片野は、洋画家の岸田劉生(きしだ りゅうせい)に師事するために21歳で上京。

しかし画家だけで生活していくことは難しく、画業のかたわら染めものも行いました。

30歳のときに岸田が急逝し、以後、片野は染物に専念するように。

その後、戦争で一時は仕事ができなくなりますが、1955年、片野は民藝運動の主要メンバーでもある、河井寛次郎・濱田庄司・芹沢銈介(せりざわ けいすけ)らと知り合いました。

翌年、片野の故郷である名古屋の「有松・鳴海絞り」の視察に柳が訪れた際、片野が案内役を引き受けます。

本筋の仕事ではなくなりつつあった絞りの現状を嘆いた柳は、片野に「藍染絞りを再興するように」と勧めたうえで、「ものを作る心を河井寛次郎に、染色の道を芹沢銈介に学べ」と伝えます。

そこから、片野元彦と長女・かほりによる絞り染めの仕事がはじまりました。

片野元彦と片野かほり
編集作業をする元彦とかほり 1971年(藤本巧撮影、写真提供:工房草土社)

職人の覚悟。「悲願」ということばの重み

片野は、「絞りと私」という文章の中で柳との思い出をこのように綴っています。

——— 或時私の仕事場に先生からお手紙とお軸の小包がとどけられ、さっそく開封するとお軸の文字は「悲願」の二文字であり、お手紙には「絞りを悲願とせられるよう祈る」としたためられてあった。此のお軸の文字を拝見した瞬間、私は頭から冷水を浴びた如く全身の血が止った思いで言い表わしようの無い戦きを覚えた。

(「絞りと私②」片野元彦/雑誌『民藝』788号 特集「片野元彦・かほり– 人と仕事」より引用)

またある時、河井は片野に対して、職人としての心構えをこのように伝えたそうです。

「柳が絞りをやれと言うならば、どこまでもそれに答えねばならん」

「絞りをやるなら過去の絞りを忘れることだ、そしていままでの絞りをことごとく火で焼き捨てて終え、そしてその畑に自分の種をまいて懸命に育てるのだ、自分もその耕作を手伝うよ」と。

片野にとって柳や河井らとの出会いが、どれほど大きかったのか。

どれほどの重責を感じながら仕事へ打ち込んでいったのか、その一端をうかがい知ることができるエピソードです。

藍染絞りに捧げた人生。職人の手仕事から学ぶこと

近代以降、私たちの衣類の多くは機械生産へと変化しました。かつては日本のどこにでもあった、人が手で糸をつむぎ、布を織り、染めあげるといった手仕事の文化は、いまでは珍しい過去の営みのようにも感じられます。

片野は晩年、自身の仕事について綴った文章のなかでこのように語っています。

——— 私は、私の作る絞がいかに拙なくともこの仕事に生命をもやし続けたい。繰り返し繰り返し絞った布を藍甕で染める、そのくりかえしの間に色の滲みはだんだんに浄化され、美しい布に調えられてゆく姿を見て、私はすべてを忘れ自分さえも忘れさせてくれる此の仕事に生きる喜びを感じている。

(「絞りと私①」片野元彦/雑誌『民藝』788号 特集「片野元彦・かほり– 人と仕事」より引用)

素材づくりにはじまり、一枚の布を何十回・何百回とくりかえし絞り、仕上がりの色を思い浮かべながら幾度も藍 甕をくぐらせる日々を想像したところで、すんなりと理解することは難しいかもしれません。

ただ、頭だけではなく心と身体を使って全身で取り組む仕事。それが、手仕事ならではの力強さや生きる喜びにつながっていくのではないか。

片野元彦の染め仕事
縄もっこ絞 1968年(藤本巧撮影、写真提供:工房草土社)

片野が手がけた一連の絞り染めを前に、生きる喜びとしての「仕事」について、私は思いを馳せました。

選択肢が多様化した現代だからこそ、自分にとって「仕事」とは何なのか。

ふと立ち止まり、向き合うきっかけを与えてくれる展覧会です。ぜひ、この機会に会場を訪ねてみてください。

日本民藝館 片野元彦の木綿地藍染よろけ縞紋白影絞広巾
木綿地藍染立湧梅散紋白影絞裂 1972年 日本民藝館蔵

 

藍染の絞り 片野元彦の仕事

【会期】2019年4月2日(火)~6月16日(日)
【時間】10:00~17:00(入館は16:30まで)
【休館日】月曜日(ただし、4月29日、5月6日は開館)、5月7日(火)
【会場】日本民藝館(〒153-0041東京都目黒区駒場4-3-33)
【入館料】一般 1,100円 大高生 600円 中小生 200円
【URL】http://mingeikan.or.jp

 

文:中條美咲
写真提供:日本民藝館

TOP画像:「木綿地藍染熨斗目小華繁紋折縫絞着物 1960年代後半 工房草土社蔵」
参考文献:『民藝』2018年8月 第788号 特集「片野元彦・かほり−人と仕事」

デザイナーが話したくなる「コーヒードリッパー」


コーヒー好きの榎本さん。仕事の合間にさっと一人分の美味しいコーヒーを入れたい。そんな思いからコーヒードリッパー作りに情熱を注ぎました。コーヒーについては、まったく詳しくない私が、道具によって変化するコーヒーの楽しみ方を教えてもらいました。




私が知っているのは、陶器や樹脂のものが多いドリッパー。ワイヤーフレームなのか不思議でした。

もちろんたくさんの種類を比べて研究した榎本さん。最終的に決め手となったのは、気軽に使えるもの。そして少しの合間の時間で美味しいコーヒーを入れたいという思い。フィルターの外側に壁を極力なくすことで、比較的コーヒーが蒸されやすく、ガスが抜けやすいのだそう。




そうして決まった、ワイヤーフレーム。

「ここがいいんですよ」とおすすめポイントをいくつも教えてくれました。
1.構造的に壁がないことで豆がじっくり、ふっくらと蒸されて、ガスも逃げやすくなります。
2.抽出時にカップの中の入れた量が見えやすいのも嬉しいポイントなんです。
3.ステンレスは錆に強く、陶磁器のように割れる心配がない。
4.とにかくさっと洗える。
5.フックにも掛けておける気軽さ。

「確かに」とうなずくことばかり。あまり見かけないワイヤー方式ですが、いろいろ便利なことばかりです。

榎本さんのお気に入りは、「とにかくさっと洗える」。最初に作るきっかけとなった、仕事の合間にさっと入れたいという願望を叶えたものです。確かにさっと洗えるし、乾きも早い。気兼ねなく使える道具というのは、毎日使う道具の重要ポイントですね。



ワイヤーフレームで作られた美しい円錐形。この形にも理由があるんです。

円錐形にすることで抽出液が一点に集中し、抽出速度が台形のものと比べ速いとされています。お湯を注ぐスピードや量によってコーヒーの味わいに変化がをもたせることができるので、その日の気分に合わせて入れ方を変えれば、いろんな味を楽しんでいただけます。



このドリッパー、もちろん素人の私でも簡単に入れることができるのですが、特別に奈良のコーヒー屋さんで試していただきました!
 
まず、おいしいコーヒーを淹れるためには、挽きたての粉を適切に蒸らすことが大切。

ワイヤドリッパーでは、蒸らしの際に発生するガスが壁に阻まれることなく抜けやすく、結果上手に蒸らすことができます。30秒ほどおいて粉が十分膨らんだら抽出を始めますが、ワイヤドリッパーは湯だまりが発生しにくいため、お湯は「細く・ゆっくりめ」を意識しながら注ぐと、よりおいしいコーヒーを淹れることができますよ。
 
朝早く、開店前に伺ったTABI Coffee Roaster。店主の田引さんがいろんなコーヒー豆や入れ方を試してくださいました。試飲させてもらうと、確かに味が変わります。コーヒーにそんなに詳しくない私でも、わかりました。

旅の途中にふらっと寄りたくなる、本格的な自家焙煎珈琲のお店。奈良にお越しの際は、ぜひ立ち寄ってみてください。



通常ドリッパーはコーヒーサーバーと一緒に使うことも多いですが、榎本さんの願望「一人分の美味しいコーヒーを楽しむ」というこだわりをつらぬき、マグカップに乗せてドリップしやすい構造を追求しました。大きさの異なるマグカップに乗せれるように、カップに当たる面はフラットに、突起物がありません。そして、たっぷり飲みたい大口マグでも対応できる直径10cmです。ワイヤーなので、入れながらカップの中がしっかり見えるので、入れすぎたなんてこともありません。




デザインや機能性を支えるのは、金属加工において高度な技術と高い品質を誇る新潟県燕市の株式会社シンドー。優れたステンレス溶接技術で、繊細なワイヤーの溶接を行っていただきました。

専用の治具を作ってもらい、それを用いて職人が手仕事で1つずつ溶接していきます。溶接する際に、ステンレスが伸縮するため、微妙に調節しながら行わないと歪みが生じるそうです。美しい均整のとれた姿は、そうした職人の技から生まれています。



日常の風景に静かに紛れ込む、昔からあるような道具を目指したという榎本さん。たしかに、飾り気はないのですが、素っ気ないわけでもなく、どこか懐かしい趣きさえあるデザインです。目指すは、「コーヒーの茶漉し」だそうです。なんの気負いもなく、毎日使って洗ってを繰り返す。コーヒーの道具ってちょっと格好良く使うイメージだった私ですが、この言葉はこの商品にぴったりだと思いました。
 
もちろん毎日榎本さんが仕事の合間にコーヒーを入れている姿を見かけます。とっても嬉しそうでとっても幸せそうです。