益子に行ったら、益子参考館へ。人間国宝・濱田庄司が集めた世界の民芸コレクションを堪能

世界の民芸品が2000点!濱田庄司記念益子参考館の魅力とは

ちょっと変。だけど可愛い。そんな民芸品にたくさん出会える場所が、栃木県の益子町にあります。

フクロウの人形(アメリカ・インディアン)
アメリカ・インディアンのフクロウの人形
お花をかたどったオランダのお皿
お花をかたどったオランダのお皿
これは、犬??(中米の石皿)
これは、犬??(中米の石皿)
ひげおじさんの徳利(ドイツ)
ドイツ、ひげおじさんの徳利
イランの染物の衣服
イランの染物の衣服

それは、「濱田庄司記念益子参考館」。

濱田庄司さんは、益子焼の陶芸家にして人間国宝。民藝運動の中心人物でもあります。
これらの可愛い民芸品と人間国宝・濱田庄司さんに、どんなつながりがあるのでしょうか。

濱田庄司
濱田庄司

濱田庄司 (1894年-1978年)

神奈川県川崎市生まれ。1955年に第一回の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
東京高等工業学校(現:東京工業大学)窯業科を卒業後、京都や沖縄、イギリスなど各地で作陶を続けた。
30歳の時に益子での作陶生活を開始。益子を代表する陶芸家として活躍し、益子焼全体に大きな影響を与えた。

各地の民芸品に美を見出した濱田庄司

濱田庄司さんと世界の民芸品との関係を知るため、益子参考館へ。

益子参考館・館長の濱田友緒(はまだ・ともお)さんは、濱田庄司さんのお孫さん。ご自身も陶芸家として活躍されています。

友緒さんに祖父・濱田庄司さんの功績や人柄について伺いました。

益子参考館の館長、濱田友緒(はまだ・ともお)さん
益子参考館の館長、濱田友緒(はまだ・ともお)さん

「若い頃から日本各地で作陶をしていた庄司は、地域の生活に興味を持ち、そこから生まれる日用品の美しさに気づきました。それが後の民藝運動(※)につながったんでしょうね」

※民藝運動

1926年に濱田庄司が柳宗悦・河井寛次郎らと共に提唱し推進した、「暮らしの中で使われる手仕事の日用品の中に『用の美』を見出し、活用していこう」という運動のこと。
上流階級が好んだ美術品「上手物(じょうてもの)」に対し、「下手物(げてもの)」と呼ばれていた地方の手仕事を「民衆的工藝」、略して「民藝」と呼び替え、守った。
濱田庄司らは日本全国を巡り、実際に自分たちの技術やセンスでものづくりを指導するなどして、それまでスポットが当たらなかった職人や産地を盛り立てた。

熊本の郷土玩具、雉子車。濱田庄司は若い頃から地域の生活に強い関心があった
熊本の郷土玩具、雉子車。濱田庄司は若い頃から地域の生活に強い関心があった

民藝運動が日本各地の民芸品を救った

「もともと日用品の収集は好きだったようですが、民藝運動をはじめると、地域の民芸品の収集に熱が入りました」

濱田庄司は地域の日用工芸品に美を見出した。江戸時代の職人による、瀬戸焼の絵付皿
濱田庄司は地域の日用工芸品に美を見出した。江戸時代の職人による、瀬戸焼の絵付皿

「庄司たちが民藝運動をすすめたのは、ちょうど手工業から大量生産への過渡期でした。地方の人たちが代々続けてきた手仕事の美しさは評価されず、そのままなくなってしまう可能性が大きかったんです。

庄司の収集品の中には、産地の人を応援する意味合いを込めて購入されたものもあります。店をたたもうと思っていたところを見出され、『もう一回やってみよう』と息を吹き返した職人さんも多かったようです」

民藝運動の結果、再び活力を取り戻し現在まで続く民芸品には、島根県の出西窯(しゅっさいがま)や大分県の小鹿田焼(おんたやき)などがあげられます。

現在の日本には、まだ多くの民芸品が残っていますが、この民藝運動がなければそれらの産地もなくなってしまっていたのかもしれません。

沖縄の伝統的な骨壷、厨子甕(ずしがめ)。民藝運動は、終戦後なくなりかけていた沖縄の琉球文化も守った
沖縄の伝統的な骨壷、厨子甕(ずしがめ)。民藝運動は、終戦後なくなりかけていた沖縄の琉球文化も守った
濱田庄司自身も、生活の品々を手掛けた
濱田庄司自身も、生活の品々を手掛けた

2000点以上にのぼる、バラエティ豊かな収集品

「庄司の身の回りには常にものが溢れていました。正直、祖母は呆れていたと思いますよ。旅先からわけの分からない、埃っぽい、カビ臭い類のものが大量に送られてくるわけですから」

屋外にも数多くの収集品が展示されている
屋外にも数多くの収集品が展示されている

友緒さんによれば、その数は益子参考館の収蔵品として登録されているものだけでも2000点以上にのぼるそう。

収集した民芸品のジャンルは焼き物だけでなく、織物、人形、さらには家具類まで多岐に渡り、時代や洋の東西を問わず、様々な国から集められています。

たしかに、益子参考館に展示されている収集品は、一人が集めたものとは思えないほど、バラエティ豊かで驚きました。

ちょこんと可愛らしい、メキシコの鳥の置物
ちょこんと可愛らしい、メキシコの鳥の置物

産地らしさの強いものに感服し、収集した

「庄司は、土地の魅力を反映したもの、地元の職人たちの生き生きとした雰囲気が残っているものに魅力を感じ、収集していました。名もない職人たちが、日常生活で使うために作ったものです。

庄司の著書には『これは敵わない、負けた』と思ったものを、その負けた印として自分の手元に置いた、とあります。負けたと感じたポイントは、技術的なことであったり、その土地の特性が最大限に出ていて産地らしさが感じられたり、ということだったようです」

鳥をモチーフにした、色鮮やかなパナマの織物
鳥をモチーフにした、色鮮やかなパナマの織物

世界各地の民芸品を求めて旅をした濱田庄司さんは、地元の人からみても危険だと言われるような地域にも、自ら足を運んだといいます。

「『田舎のほうが、産地らしさが出た純粋なものが多い』ということで、特に、原住民と言われるような方たちが作ったものを好んでいたようです。良いものを探しに旅に出ては、言葉も通じない現地の方と仲良くなって帰ってきました。新しい美を見つけ出すのが楽しかったんでしょうね」

普段の生活では目にすることのないような各国の地域色豊かな展示品に囲まれていると、まるで世界旅行をしているような気分になります。

メキシコの木彫りの動物たち。とぼけたような表情が面白い
メキシコの木彫りの動物たち。とぼけたような表情が面白い

コレクションは趣味であり、作陶の栄養

また濱田庄司さんは、収集を単なる趣味としてだけではなく、自分の作品作りの糧としていたそうです。

どんな作品に、収集品の影響が見られるのかを友緒さんに伺ってみました。

「むしろ、自分の作品に、収集品からの影響が見てとられないよう注意していました。『真似ではなく、取り入れたものを体内で消化して栄養とし、しっかりと力がつくことが大切だ』と語っています。自分の身体から、自然に個性として生まれるようになれば、と考えていたようです」

濱田庄司さんの収集は、新たな感覚を取り入れ続けるため、半ば意識的におこなわれていたものなのですね。友緒さん曰く、晩年までその作風は変化し続けたといいます。

濱田庄司の代表的な技法、「流し掛け」の大皿
濱田庄司の代表的な技法、「流し掛け」の大皿

「一般の人たちにも、参考にしてもらいたい」

「自分の収集品を是非一般の人にも参考にしてもらいたい、ということで、庄司は亡くなる半年前に、この益子参考館を開館しました。

展示されている収集品たちは、私から見ても味のある良いものばかりです。益子に来た際にはぜひ一度足を運んでみてください」

エントランスとなる長屋門に掲げられた「益子参考館」の文字は、濱田庄司によるもの
エントランスとなる長屋門に掲げられた「益子参考館」の文字は、濱田庄司によるもの
上ん台 (うえんだい)」と呼ばれた別邸。濱田庄司の一番のお気に入りの建物だった
上ん台 (うえんだい)」と呼ばれた別邸。濱田庄司の一番のお気に入りの建物だった
濱田庄司の工房。友緒さんとも、よく絵付けの競争をしてくれたそう
濱田庄司の工房。友緒さんとも、よく絵付けの競争をしてくれたそう
濱田庄司の登り窯。長らく使われていなかったが、2017年の冬に、復活プロジェクトとして火入れがおこなわれる
濱田庄司の登り窯。長らく使われていなかったが、2015年に復活プロジェクトとして、約40年ぶりに火入れがおこなわれた。2017年の冬にも、2回目の復活プロジェクトが予定されている
受付の本棚にも可愛い人形が。カナダの作家によるもの
受付の本棚にも可愛い人形が。メキシコの作家によるもの

益子参考館に展示されている濱田庄司さんの収集品は、いま見ても可愛かったり面白かったりと、味のあるものがたくさん。

「人間国宝」「各地の工芸を守った民藝運動の立役者」とだけ聞くと、少し身構えてしまう部分もありましたが、濱田庄司さんの可愛らしいコレクションからは、素朴で温かい人柄を垣間見ることができました。

<取材協力>
公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館
栃木県芳賀郡益子町益子3388
0285-72-5300
http://www.mashiko-sankokan.net/index.html

文:竹島千遥
写真:竹島千遥、公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館

*こちらは、2017年11月19日の記事を再編集して公開しました。

京都の「おふき」は京友禅のメガネ拭き。お土産になるSOO (ソマル)の一枚

わたしたちが全国各地で出会った “ちょっといいもの” をご紹介する「さんちのお土産」。

今回は京都の伝統工芸品である京友禅のブランド、SOO (ソマル) が手がけるメガネ拭き「おふき」をお届けします。

京都でしか買えない、京都らしさの詰まったお土産

薄手で柔らかく、手に馴染む触感。鮮やかな色と大胆な柄が目を引く、こちらの布。

京友禅のメガネ拭き「おふき」
京友禅のメガネ拭き「おふき」

実は京友禅で作られたメガネ拭きなんです。

作っているのは、2016年に誕生した京友禅のブランド、SOO (ソマル) 。着物の需要が低下する中、「京友禅を手軽に手にとってもらいたい」との思いから、京友禅に携わる若手経営者4人が、会社の垣根を越えて立ち上げました。

*ブランド誕生の道のりやものづくり現場を取材した「京友禅の職人が作ったメガネ拭き ヒットの裏側。かわいい顔した、ほんまもん。」もぜひ合わせてお読みください。

現在SOOでは、メガネ拭き「おふき」とスマホ拭き「おふきmini」を京都限定で販売しています。

京友禅のメガネ拭き「おふき」(税抜1500円)。「おふき」のデザインは通年販売される通常柄が36柄と、四季ごとに登場する季節限定柄が各6柄。いずれも伝統的な柄を用いながら、現代風にアレンジされています。同じ柄で染めていても、下地となる引染めの柄が異なるため、全く同じ製品は2つとないそう
京友禅のメガネ拭き「おふき」(税抜1500円)。「おふき」のデザインは通年販売される通常柄が36柄と、四季ごとに登場する季節限定柄が各6柄。いずれも伝統的な柄を用いながら、現代風にアレンジされています
スマホ拭きの「おふきmini」(税抜750円)は、京都の名所がモチーフの全15柄
スマホ拭きの「おふきmini」(税抜750円)は、京都の名所がモチーフの全15柄

本物の京友禅を気軽に、身近に

かわらしい見た目とお土産として買いやすい値段でありながら、「おふき」と「おふきmini」はいずれも京友禅の着物と全く同じ工程で染められています。

図案の制作から仕上げまで20以上もの工程を経て完成する京友禅は、本来とても高価なもの。SOOの商品は着物用の生地と一緒に「おふき」用の下地を染め、その生地を使うことで、「本物の京友禅」でありながらもコストダウンをはかっているのだそう。

着物用の生地と一緒に下染めされた生地を使って、「おふき」を作ります
着物用の生地と一緒に下染めされた生地を使って、「おふき」を作ります
同じ柄で染めていても、下染めの着物の柄が異なるため、全く同じものは2つとありません
同じ柄で染めていても、下染めの着物の柄が異なるため、全く同じものは2つとありません

着物生地ならではの使い勝手のよさ

もちろん生地も着物と同じ正絹。目が細かく静電気が起きにくいため、メガネ拭きとしての性能もお墨付きです。繰り返し使ううちに汚れが落ちにくくなってきても、手洗いすればまた拭きやすくなるとのこと。

絹の特性を生かし、メガネ拭きとしての性能もバッチリ
絹の特性を生かし、メガネ拭きとしての性能もバッチリ
着物を保管しておく際に使う「たとう紙」を使用した、こだわりのパッケージ
着物を保管しておく際に使う「たとう紙」を使用した、こだわりのパッケージ

今回編集部が持ち帰ったのは、千鳥柄。ドットの空を千鳥が飛ぶ様子が愛らしい、人気の柄です。

薄桃色の着物の柄が下染めされた上に、濃い紫色で千鳥柄が染められています
薄桃色の着物の柄が下染めされた上に、濃い紫色で千鳥柄が染められています

本物の京友禅を気軽に、身近に。高級な素材と職人の技が込められたメガネ拭きは、使うたびにちょっと贅沢な気分に浸れそうです。

ここで買いました。

SOO(ソマル) オフィス
京都市上京区元誓願寺通東堀川東入西町454 (株)日根野勝治郎商店内
075-417-0131
https://soo-kyoto-soo.amebaownd.com/

「おふき」取扱店
https://soo-kyoto-soo.amebaownd.com/pages/1334237/page_201710100047

文・写真:竹島千遥

*こちらは、2018年9月21日公開の記事を再編集して掲載しました。高価なイメージの京友禅を、気軽に手に入れることができるのは驚きです。贈りものとしても、年代問わず喜ばれそうですね。

益子焼を救った人気駅弁「峠の釜めし」誕生秘話

電車を使った旅行は、車窓を眺めながらのんびり過ごす時間も楽しいもの。その魅力のひとつが、各地の味を詰め込んだ駅弁です。

JR信越本線・横川駅(群馬県)の駅弁「峠の釜めし」は、人気駅弁の代表格。峠の釜めしの一番の特徴といえば、何と言っても土釜(どがま)の容器。紙やプラスチックの容器とは異なる、ずっしりとした重みと温かみが人気です。

そんな、峠の釜めしの土釜、実は関東を代表する焼き物として有名な、栃木県の益子焼なんだそうです。その誕生秘話を伺うべく、土釜の製造元である、株式会社つかもとを訪ねました。

益子焼の土釜を使った釜めし
益子焼の土釜を使った釜めし

「峠の釜めし」の土釜を作るのは、益子最大の老舗窯元だった

真岡鐵道真岡線・益子駅から車を走らせること10分ほど。株式会社つかもとの本社に到着しました。

つかもと本社。緑に囲まれた静かな場所にあります
つかもと本社。緑に囲まれた静かな場所にあります

1864年の創業以来、時代に合わせて絶えることなく益子焼を作り続けてきたという益子最大の窯元です。広大な敷地内には釜工場の他に益子焼の売店・美術館・ギャラリー・陶芸体験のできるスペースなどがあります。

同社で広報を担当されている野沢さんに、峠の釜めし誕生のいきさつを教えてもらいました。

東京の台所用品づくりで発展した益子焼

もともと益子焼は、1853年に大塚啓三郎が陶器製造を開始したところから始まりました。つかもとを創業した塚本利平(つかもと・りへい)が窯をおこしたのは、その11年後の1864年のこと。

益子焼の主な製品は土瓶やすり鉢など、生活雑器と呼ばれた台所用品。比較的新しい焼き物産地ではありますが、東京に近い地の利を生かして、益子はどんどんと成長していきました。

益子焼の土瓶。重厚な色合い、ぼってりとした肌触りが特徴
益子焼の土瓶。重厚な色合い、ぼってりとした肌触りが特徴

特に東京大震災や太平洋戦争後は生活用品の不足からくる特需で好況を博したそうです。しかし、終戦後の復興が進んだ1950年頃には人々の生活様式の変化も相まって、台所用品の需要が低下。

益子焼の窯元は、濱田庄司が先導した民藝用品の製造へと転換をはかりましたが、どこも苦しい経営を余儀なくされていたんだとか。

「つかもとも、時代に合わせた新しい商品を作らねば、ということで4代目社長夫人・塚本シゲの主導で、様々な製品づくりに取り組みました」

実は不採用だった、おなじみのお弁当容器「釜っこ」

そんなある時、東京の百貨店から「益子焼の弁当容器を作ってほしい」と、つかもとに依頼がありました。

「きっと、家庭向けのものだったんでしょうね。土釜の弁当容器を考案し、提案したようです。結局は不採用になってしまったんですが、シゲさんはその『釜っこ』(土釜の愛称)に随分と愛着を持っていたようです」

現在の土釜。軽量化などはされたものの、シゲさんが作った当時からほとんど変わらない。アメ色の釉薬は益子焼伝統の色だ
現在の土釜。軽量化などはされたものの、シゲさんが作った当時からほとんど変わらない。アメ色の釉薬は益子焼伝統の色だ

偶然訪れた「おぎのや」との出会い

「これは是非世に出したい、きっと日の目を見て売れるに違いない、と信じ、関東近辺の弁当屋へ土釜の営業をかけ続けたんです」

ところが、土釜を持参して色々な弁当屋を回ったものの、重さが原因で断られ続ける日々が続きます。「こんなに重いものを使うわけがないだろう」と、にべもなく追い返されてしまったといいます。

群馬県・高崎駅の駅弁屋さんへ営業をかけ、いつものように断られた帰り道。電車が停まった横川駅で、転機は訪れました。

「当時、横川駅では列車の付け替えのため、一時間ほどの停車時間がありました。せっかく時間があるのだから、横川駅の駅弁屋にもダメ元で声をかけてみよう、ということになったようです。それが今の峠の釜めしの販売元である、『おぎのや』さんでした」

横川駅では長い停車時間があったにも関わらず、弁当の売れ行きが伸び悩んでいたそうです。温かい弁当を提供できれば人気が出るのではないかと考えていたところに、保温性と耐久性のある益子焼の土釜がぴったりとはまり、その日のうちに納品が決まりました。

峠の釜めし人気が、益子焼全体を支えた

1958年に発売された峠の釜めしは、当時としては大変画期的な「温かい駅弁」として徐々に人気を博していきます。

デメリットと言われ続けた土釜の重みは、逆に「落ち着いた感じ」「温かみを感じる」と言われるようになり、峠の釜めしになくてはならない存在になりました。

発売当初は1日あたり数十個という単位から始まった土釜づくりも、その人気は年々高まっていき、ついにはつかもとだけでは製造が追いつかない状況に。

そこで20軒に及ぶ益子の他の窯元に釜づくりを発注し、大量に製造できる体制を作りました。他の窯元にも型を提供し、どこの窯元で作ってもスピーディに同じ土釜が出来るように工夫したといいます。

土釜は型を利用して作られるため、全て同じ形に出来上がる
土釜は型を利用して作られるため、全て同じ形に出来上がる

経営難に陥っていた他の窯元も潤い、結果として益子焼の産業全体が持ち直すことができたのです。

「峠の釜めしは、発売から60年経った今でも、年間300万個も売れ続ける大ヒット商品です。これだけ数量が出る商品というのは、通常ではありえませんからね。峠の釜めしが、当時の益子焼の作陶全体を支える形になりました」

1日1万個の土釜を製造する、日本一の釜工場

野沢さんのご案内で、土釜を作る工場を見せてもらうことができました。現在では、峠の釜めしの土釜は全て、この自社工場で作っているそうです。各工程に機械を導入し、1日1万個もの土釜が次々と作られていきます。

1個あたりおよそ5秒というスピードで、成形や釉薬掛けなどの各工程を進んでいく
1個あたりおよそ5秒というスピードで、成形や釉薬掛けなどの各工程を進んでいく
焼成前の土釜がずらり。ベルトコンベアで窯詰め(窯に入れるため、器物を台車に詰める)の工程へ運ばれていく
焼成前の土釜がずらり。ベルトコンベアで窯詰め(窯に入れるため、器物を台車に詰める)の工程へ運ばれていく
左が焼成前、右が焼成後。8時間かけて焼き上げると、釉薬が益子焼伝統のアメ色に変化する
左が焼成前、右が焼成後。8時間かけて焼き上げると、釉薬が益子焼伝統のアメ色に変化する
機械化されているとはいえ、バリ取り(出っ張りを取り除くこと)の一部や窯詰めなどは人の手でおこなう
機械化されているとはいえ、バリ取り(出っ張りを取り除くこと)の一部や窯詰めなどは人の手でおこなう

時代に合わせた商品づくりで、伝統を未来へ

土釜を製造するラインの横で、釜めしの土釜とは違った製品を見かけました。

「峠の釜めしの生産ラインを利用して製造できる、新しい商品を開発しているところです。シゲさんが作った土釜の愛称『釜っこ』からとって、『kamacco(かまっこ)』と名付けました」

峠の釜めしの土釜(右)と、新製品の「kamacco(かまっこ)」(左)。同じ工場のラインを使って製造している。
峠の釜めしの土釜(右)と、新製品の「kamacco(かまっこ)」(左)。同じ工場のラインを使って製造している。

「伝統を守って未来につなげていくためには、やはり産業として成り立っていることも大切です。そのためには、先代たちがそうであったように、時代にあったものを作り続け、売り続けなければなりません。

特に現代は物があふれ、ただ作っただけでは売れなくなっています。きちんと機能性を持った、価値のある商品が求められていると感じています。先程の『kamacco(かまっこ)』は、自分ならではの時間を過ごしたい、という人のそばに置いてもらえれば、との思いで開発しました」

新商品「kamacco(かまっこ)」は平成29年度とちぎデザイン大賞(最優秀賞)を受賞。一合炊きの土釜で、たった20分で美味しいご飯を炊くことができる
新商品「kamacco(かまっこ)」は平成29年度とちぎデザイン大賞(最優秀賞)を受賞。一合炊きの土釜で、たった20分で美味しいご飯を炊くことができる

「現代に合った商品を手にすることで益子焼の存在を知ってもらう。そしてさらに益子へ足を運んでもらい、地元とも協力して益子を盛り上げていきたいですね」

峠の釜めし誕生の裏側には、偶然の出会いと、時代の流れに負けない窯元の熱意とが存在していました。そしてその情熱は峠の釜めしを大ヒット商品に育て、旅人のお腹を満たすだけでなく、益子という産地自体を元気にしたんですね。

あぁ、久しぶりに釜めしが食べたくなってきました。

今度峠の釜めしを見かけたら、益子焼の土釜とともにじっくりと味わいたいと思います。

<取材協力>
株式会社つかもと
栃木県芳賀郡益子町益子4264
0285-72-3223
http://www.tsukamoto.net/
※工場見学は要予約

文:竹島千遥
写真:竹島千遥、株式会社つかもと

※こちらは、2017年11月16日の記事を再編集して公開しました。

日本三大美祭「高山祭」を支える、屋台修復のプロ集団とは

「日本三大美祭」をご存知だろうか。

京都の祇園祭、埼玉の秩父夜祭、そして岐阜の高山祭は、日本各地に数多ある祭の中でも特に美しいとされる。

そのうちのひとつ、春の高山祭が4月14・15日に開催される。

春の高山祭

高山祭

岐阜県高山市で江戸時代から約300年続く。
4月の「山王祭」と10月の「八幡祭」、旧高山城下町の二つの氏神様の例祭を合わせて、「高山祭」と呼ぶ。
「日本三大美祭」および「日本三大曳山祭」のひとつに数えられている。

その見どころは「動く陽明門」と称される豪華絢爛な祭屋台。古くから宮殿や寺院で腕をふるってきた飛騨の匠たちが作り上げた十数台の祭屋台が一同に曳き揃えられる様子は圧巻だ。

JR高山駅のコンコースに展示されている祭屋台。祭屋台が完成するまでの製作過程が分かる
JR高山駅のコンコースに展示されている祭屋台。祭屋台が完成するまでの製作過程が分かる
木彫・漆塗・彫金など、祭屋台には飛騨の匠たちの技術が結集されている
木彫・漆塗・彫金など、祭屋台には飛騨の匠たちの技術が結集されている

これらの祭屋台を守り続ける、美祭の影の立て役者がいる。その名は「高山・祭屋台保存技術協同組合」。高山に限らず、日本全国の祭屋台や山車の修復を請け負う、祭屋台修復専門のプロ集団だ。

春の高山祭の屋台のひとつ「大国台」が修復に入ったと聞き、組合を訪ねた。 

全国各地どこへでも。日本唯一!屋台修復のプロ集団

組合の取りまとめをしている八野泰明(はちの・やすあき)さんが出迎えてくれた。

八野さんは、お祖父様の代から続く有限会社八野大工の3代目でもある
八野さんは、お祖父様の代から続く有限会社八野大工の3代目でもある

高山・祭屋台保存技術協同組合は、高山祭の屋台に関わる、様々な技術を持った職人たちによって昭和56年に立ち上げられた。他業種の職人が揃って所属する技術者集団は全国的にも珍しく、今では全国各地の祭屋台の修復に携わっている。

現在は埼玉県秩父市、富山県射水市など、全国7か所の祭屋台の修復にあたっているそう。つい先日も日帰りで、350km以上離れた千葉県の佐原へ祭屋台の修復部分を車で取りに行ったというから驚きだ。

組合の事務所には、全国各地の祭屋台の写真が
組合の事務所には、全国各地の祭屋台の写真が
背丈よりも大きな2メートルもの車輪!富山県高岡市のもので、とても豪華だ
背丈よりも大きな2メートルもの車輪!富山県高岡市のもので、とても豪華だ

「仕事させてもらったら、今度はその隣の地域から『うちでも是非』っていうことで。評価されて次の仕事につながってきています」

美祭「高山祭」と飛騨の匠の技

基本的には祭屋台の修復を請け負う組合だが、依頼されて一から祭屋台を作ったこともあるそうだ。他の地域では失われてしまった祭屋台を作る技術・修復する技術が、なぜ高山では今も受け継がれているのだろうか。

そもそも高山祭の屋台の起源は18世紀初頭に遡る。

19世紀には祭屋台を中心とした「屋台組」で社会生活を営み、大地主や財力のある「旦那」が自らの財をつぎ込んで地元高山の職人たちにその技を競わせるようになった。

このような歴史が高山祭を美祭として育み、飛騨の匠の技を伝承し続けることにつながったのだ。

「屋外で動く」文化財の修復

祭屋台の修復は、一口に文化財といっても建築の修復とは少し様子が異なる。

「祭屋台みたいに動くものは、ただ繕って見栄えを良くするだけでは具合が悪い。安全性のために、新材で作り替えることも必要になる」

安全性の面から言えば、車輪と車軸の修理が一番多いそうだ。

「大国台は、高山祭の祭屋台の中では修理の回数が多いほうだろうな。祭屋台を曳き揃える場所まで一番遠くて、走る距離が長いから」

車は各地の祭によって様々な形をしているが、大きく分けて三種類。こちらは御所車
車は各地の祭によって様々な形をしているが、大きく分けて三種類。こちらは御所車
板車
板車
大八車
大八車

美観からの修理が多いのは、漆塗りの部分だ。八野さんによれば、漆は紫外線に晒されると50日ほどで退色してしまうそう。

高山祭は2日間にわたって開催されるので、50÷2=25年後には塗り直しが必要になる計算だ。

現存する高山祭の屋台は春が12台、秋が11台の、合わせて23台。

組合では年に1、2台というペースで高山祭の屋台修復をおこなっているそうだ。

ものに合わせて、道具を作る

続いて、八野大工さんの作業場へ案内してもらった。八野大工さんで働く職人さんは7人。それぞれが得意分野を受け持ち、工程を分担している。

八野大工さんの作業場。広いスペースに材料や器具が並んでいる
八野大工さんの作業場。広いスペースに材料や器具が並んでいる
八野大工さんでは、祭屋台の修復とあわせて社寺建築も請け負っている。こちらはお寺の欄間を製作中
八野大工さんでは、祭屋台の修復とあわせて社寺建築も請け負っている。こちらはお寺の欄間を製作中

「ありがたいことに、社寺建築と祭屋台だけやっているので、大工と言えども住宅はやったことがないです。高山だけじゃなくて全国の祭屋台の仕事をやらせてもらっているおかげですね」

作業場でまず目についたのは、大小様々のカンナだ。

形も大きさも様々。中央の通常サイズのカンナと比べ、こんなに小さなものまで
形も大きさも様々。中央の通常サイズのカンナと比べ、こんなに小さなものまで
このように、削る場所に合わせて使い分ける。全て既製品をカスタマイズした自前のものだ
このように、削る場所に合わせて使い分ける。全て既製品をカスタマイズした自前のものだ

「仕事をしながら、図面というかデザインに合わせて削って作っていく。そういうことをしていくうちに、増えていっちゃうんですよね」

こんなにたくさんの種類のカンナが!
こんなにたくさんの種類のカンナが!

祭屋台の修復に、設計図は存在しない

実際に、祭屋台の修復の様子を見せてもらった。

埼玉県川越市の祭屋台の部品で、古くなったものをまるごと新しいものに作り替えるのだそうだ。

埼玉県川越市の祭屋台。華やかな祭屋台の上部、円柱の部分を作り替える
埼玉県川越市の祭屋台。華やかな祭屋台の上部、円柱の部分を作り替える
古い部品のひとつがこちら。使い込まれ、歪みが見られる
古い部品のひとつがこちら。使い込まれ、歪みが見られる
こちらが、新しく製作中のもの。祭屋台の写真を手元に置き、作業を進める
こちらが、新しく製作中のもの。祭屋台の写真を手元に置き、作業を進める
円の内側に沿って、カーブした板が取り付けられている
円の内側に沿って、カーブした板が取り付けられている
カーブした板は、湯煎した板を曲げた状態で固定し、乾燥させて作る。どれくらいの角度で曲げるか、などは現物を見て判断していく
カーブした板は、湯煎した板を曲げた状態で固定し、乾燥させて作る。どれくらいの角度で曲げるか、などは現物を見て判断していく
部分的に新材を継いだ部品も
部分的に新材を継いだ部品も

ぴったりと組み立てられていく祭屋台の部品。全体の設計図はあるのだろうか。

「設計図?これですね。原寸の」と八野さんが指さしたのは、修復前の古い部品だ。

「真っ直ぐなものであれば図面で良いんですけど、こういう曲線とかはやっぱり実際の大きさでないと分からないので。これが僕らの図面になっていきます」

古い部品こそが、八野さんたちの設計図だ
古い部品こそが、八野さんたちの設計図だ

祭屋台の修復においては、元の姿、現物が何よりも重要だと八野さんは言う。

「修理で学ぶことも多いので。昔の人の仕事を実際に自分たちが見て学ぶというか。頭の中に完成した姿を描いておいて、それを形にしていく、それは大工も、他の職人さんたちも同じですね」

どう直せばよいのかは、彫刻自身が教えてくれる

八野大工さんを後にし、木彫師の元田木山(げんだ・ぼくざん)さんのお宅へ向かった。

木彫作家でもある元田さん。お父様は、組合ができる前から木彫の修理をおこなっていたそう
木彫作家でもある元田さん。お父様は、組合ができる前から木彫の修理をおこなっていたそう
担当するのは、このような木彫部分。こちらの龍も元田さんの作
担当するのは、このような木彫部分。こちらの龍も元田さんの作

現在修復しているのは、大国台の下段にほどこされた獅子の彫刻だ。

傷や欠けがあるような部分の修復はもちろんのこと、以前の修復の手直しもおこなう。

大国台の下段には、このような獅子の彫刻が八体ほどこされている
大国台の下段には、このような獅子の彫刻が八体ほどこされている
獅子の左前足、一部が欠けてしまっている
獅子の左前足、一部が欠けてしまっている
左後ろ足は、もともと釘で留めて修理してあったそう。分解し、ホゾを作ってニカワで留める
左後ろ足は、もともと釘で留めて修理してあったそう。分解し、ホゾを作ってニカワで留める

欠けて無くなってしまった部分は、どのように形を決めて修復するのだろうか。

「例えば、毛の一本一本を見ていると、そこに合った波が見えてくるんです。周りの部分が教えてくれるんですね。ほら、このたてがみの後ろの部分は、だれかが修理して付けたんだと思いますが、ちょっと不自然ですよね」

元田さんは前回の修理の粗さまで見つけてしまう。獅子のたてがみ後ろ部分、毛先を継いであるが、継ぎ目にヒビが入っており毛流れも不自然だ
元田さんは前回の修理の粗さまで見つけてしまう。獅子のたてがみ後ろ部分、毛先を継いであるが、継ぎ目にヒビが入っており毛流れも不自然だ

すべては、元の姿に合わせて

獅子の修復の様子を見せてもらった。

はじめに、修復する部分の木目に合わせて端材を選定する
はじめに、修復する部分の木目に合わせて端材を選定する
ケヤキの端材。木目に合わせて使用するするため、様々な模様の端材を保管している
ケヤキの端材。木目に合わせて使用するするため、様々な模様の端材を保管している
獅子の尾の毛先。新材が継がれているのが分かるだろうか。選定した端材を四角い材木の状態で継いでから、形を出していく
獅子の尾の毛先。新材が継がれているのが分かるだろうか。選定した端材を四角い材木の状態で継いでから、形を出していく
大小様々な彫刻刀やノミを使い、元の彫刻に合わせて彫っていく。もともとの彫りが、どんな道具で彫られたものなのかも分かってしまうそうだ
大小様々な彫刻刀やノミを使い、元の彫刻に合わせて彫っていく。もともとの彫りが、どんな道具で彫られたものなのかも分かってしまうそうだ

元田さんの作業場には、たくさんの道具が並んでいる。元の彫刻に合わせ、様々な道具を使い分けるのだ。

作業台脇の引き出しにはノミがぎっしり。全部で100本はありそう。削るものに合わせて使い分ける
作業台脇の引き出しにはノミがぎっしり。全部で100本はありそう。削るものに合わせて使い分ける
新材を継ぎ、元の木と色が違う部分は染料で色合わせをする(=古色を付ける)。何度か重ねて塗ることで元の木のように濃い色となり、修復箇所がなじむ
新材を継ぎ、元の木と色が違う部分は染料で色合わせをする(=古色を付ける)。何度か重ねて塗ることで元の木のように濃い色となり、修復箇所がなじむ
染料は、江戸時代から根付けやオハグロなどに使われてきた「ヤシャブシ」を煎じて作る。煮詰め方によって色の濃淡が変わるが、もっと黒い色を出したいときには、クルミの皮も利用するとのこと
染料は、江戸時代から根付けやオハグロなどに使われてきた「ヤシャブシ」を煎じて作る。煮詰め方によって色の濃淡が変わるが、もっと黒い色を出したいときには、クルミの皮も利用するとのこと

最後に、こんな変わったものも見せてくれた。

獅子の目玉も修理している。木でできた目玉を、コンタクトレンズのようなガラスにはめて作る
獅子の目玉も修理している。木でできた目玉を、コンタクトレンズのようなガラスにはめて作る
透明なガラスの部材は、富山の職人さんにまとめて作ってもらう
透明なガラスの部材は、富山の職人さんにまとめて作ってもらう
目を入れると彫刻に生き生きとした表情が宿る
目を入れると彫刻に生き生きとした表情が宿る

どのように修復していけば良いのかは、向かい合った彫刻自体が教えてくれる。

彫刻を通して、もとの作者や修復者と対話するのは、とても不思議なことのように感じた。

「漆は50日」の修復現場へ

最後に訪ねたのは、塗師の野川俊昭(のがわ・としあき)さん。

何工程にも及ぶ漆塗りの工程全てを、一人でおこなっている。

並んでいる車は、埼玉県川越市の祭屋台のもの
並んでいる車は、埼玉県川越市の祭屋台のもの
 漆を塗ったものを乾燥させる部屋、「風呂」。祭屋台の部品が入る、大きな風呂が必要となる
漆を塗ったものを乾燥させる部屋、「風呂」。祭屋台の部品が入る、大きな風呂が必要となる

これほど大きな部品を一人で仕上げる労力はもちろんのこと、修復ならではの塗りの難しさもあるそうだ。

「古い部分と漆の色を合わせて塗らなきゃいけないから、手がかかるんだよね。漆を塗ることより、色合わせのほうが難しいよ」

傷が入ってしまった部分も。錆を混ぜてペースト状にした漆で傷を埋め、上から目立たないように色を塗っていく
傷が入ってしまった部分も。錆を混ぜてペースト状にした漆で傷を埋め、上から目立たないように色を塗っていく

先ほど八野さんから「漆は50日」との話を聞いたが、いかほどのものなのだろうか。

大国台の部品。こちらは日に当たらない裏側の部分で、つややかな色が残っている
大国台の部品。こちらは日に当たらない裏側の部分で、つややかな色が残っている
日に当たる表側。褪色が進み、黒ずんで艶も無くなってしまっている
日に当たる表側。褪色が進み、黒ずんで艶も無くなってしまっている
漆で仕上げられた車も、屋外で使ううちにこれほど色褪せ、剥げてきてしまう
漆で仕上げられた車も、屋外で使ううちにこれほど色褪せ、剥げてきてしまう

鏡のように輝く漆が、祭屋台をきらびやかに彩る

野川さんが、漆の仕上げ工程「呂色仕上げ」の様子を見せてくれた。

呂色仕上げ

漆の仕上げのひとつ。
上塗りをしてそのまま完成させるのではなく、その上から水研ぎをし、再び漆を重ね、また研ぎ・・・と何度も重ねることで、漆に鏡のような艶が出る。
呂色仕上げの際の水研ぎを「呂色とり」と呼ぶ。

「塗ってそのままにしておくと、祭屋台のように大きいものはゴミがついて目立つんだよね。そのゴミをなくすために、呂色をとって塗るんだ」

小さな部品は膝の上で丁寧に呂色をとる
小さな部品は膝の上で丁寧に呂色をとる
呂色とりに使う、水研ぎの砥石。目の粗いものから細かいものへと、徐々に磨き上げていく
呂色とりに使う、水研ぎの砥石。目の粗いものから細かいものへと、徐々に磨き上げていく
上塗りした漆を砥石で磨いていくと・・・
上塗りした漆を砥石で磨いていくと・・・
研いだ部分が白色に!艷やかな黒色の部分が無くなるまで研ぎこんでいく。その後、再び漆を塗って凹凸を無くし、また磨く。最後には鏡のような輝きを放つそうだ
研いだ部分が白色に!艷やかな黒色の部分が無くなるまで研ぎこんでいく。その後、再び漆を塗って凹凸を無くし、また磨く。最後には鏡のような輝きを放つそうだ
先程の部品は、このように他の部品と組み合わせられる
先程の部品は、このように他の部品と組み合わせられる
最終的には金具も飾り付けられ、大国台をきらびやかに彩る
最終的には金具も飾り付けられ、大国台をきらびやかに彩る

野川さんも、八野さんや元田さん同様、祭屋台の写真を手元に置いて作業している。

「やっぱり一番目立つところに、一番手をかけてやらなきゃいけないから。位置が分からずにやっていると、人の目に触れないところを一生懸命綺麗にしたりとか(笑)」

人目につく部分にこそ力を入れて作業をする。祭屋台ならではのこだわり方が感じられた。

大国台の部品が並んでいる。更に研いで、上塗りをして、乾燥させ、呂色仕上げをしてようやく完成となる
大国台の部品が並んでいる。更に研いで、上塗りをして、乾燥させ、呂色仕上げをしてようやく完成となる

日本全国の祭り屋台は、お祭り文化が連綿と続く高山の職人たちが支えていた。

今回は三人の職人さんの修復作業を見学させてもらったが、口を揃えて「修復は現物がすべて」とおっしゃっていたのが、とても印象に残った。

もうすぐ、春の高山祭。

修復を終えた大国台をはじめ、飛騨の匠が何百年も守り続けるきらびやかな祭屋台たちが、高山の町を巡る。

春の高山祭

<取材協力>
高山・祭屋台保存技術協同組合
0577-34-3205
http://www.chuokai-gifu.or.jp/yatai/index.html

文:竹島千遥
撮影:尾島可奈子
写真提供 (春の高山祭) :高山市

※こちらは、2018年4月13日の記事を再編集して公開いたしました。今年ももうすぐ「春の高山祭」がはじまります。

酉の市の「熊手」に込められた願いとは?

11月は、酉の市 (とりのいち) の季節。

浅草・鷲神社の酉の市。深夜から大勢の人が詰めかけます
浅草・鷲神社の酉の市。深夜から大勢の人が詰めかけます

一昨年、さんち編集部でも浅草・鷲神社の酉の市に出向き、縁起物の熊手を購入してきました。

昨年の記事:「真夜中に始まる江戸の風物詩、酉の市に行ってきました!」

昨年の酉の市で購入した熊手。「さんち」と名前を入れてもらいました
昨年の酉の市で購入した熊手。「さんち」と名前を入れてもらいました

今回はこの熊手そのものに注目し、作り手さんを訪ねて、その由来や込められた願いを紐解いてみようと思います。

熊手はもともと、祭の一角で売られていた農具

江戸時代から続く酉の市。その起源は諸説ありますが、東京都足立区にある大鷲 (おおとり) 神社で始まった、秋の収穫祭が発祥だと言われています。

次第に、来年の商売繁盛や開運招福を願うお祭りへと変化していくなかで、もともと市の一角で農具として売られていた熊手が、いつの間にか縁起物として担がれるようになりました。

熊手を飾る縁起物「指物」とは?

熊手には、その形が鷲が獲物を掴んでいる様子に似ているため「福を掴んで離さない」という意味や、落ち葉などを集めることから「福をかき集める」という意味があるそうです。

また、時代とともに様々な縁起物も飾り付けられるようになりました。この飾りは指物 (さしもの) と呼ばれ、それぞれに洒落た願いが込められています。

それぞれの指物にどんな意味があるのか、熊手はどのように作られているのか。東京都足立区で120年以上熊手を作り続ける「熊手工房 はしもと」さんを訪ねて、教えていただきました。

「熊手工房 はしもと」代表の橋本誠三さん。橋本さんで3代目
「熊手工房 はしもと」代表の橋本誠三さん。橋本さんで3代目

おかめ、鯛、千両箱、亀などさまざまな縁起物が飾り付けられる

まず、熊手のメインとして取り付けられることが多いのは、「おかめ」のお面。おかめは「お多福 (おたふく) 」とも呼ばれ、その名の通り、福を多く招く女性のことです。江戸時代から熊手の中心に飾り付けられていました。

おかめの面は、伝統的な指物のひとつ。はしもとさんの工房の看板にも描かれています
おかめの面は、伝統的な指物のひとつ。はしもとさんの工房の看板にも描かれています

他にも鯛や、千両箱、亀など、さまざまな縁起物が飾り付けられています。

縁起物の定番、鯛の指物
縁起物の定番、鯛の指物
蕪 (かぶ) には「根が増える」「株分け」などの意味があります
“蕪 (かぶ) には「根が増える」「株分け」などの意味があります
枡は、「『ますます』繁盛」を意味する縁起物。商売繁盛を願う酉の市らしい指物といえます。こちらの枡の中には恵比寿様と大黒様が
枡は、「『ますます』繁盛」を意味する縁起物。商売繁盛を願う酉の市らしい指物といえます。こちらの枡の中には恵比寿様と大黒様が
「巾着」はお財布のこと。お金がたくさん入るように、との願いが込められています
「巾着」はお財布のこと。お金がたくさん入るように、との願いが込められています
七福神も指物の定番。こちらの熊手には小判や米俵など、様々な縁起物が飾り付けられています
七福神も指物の定番。こちらの熊手には小判や米俵など、様々な縁起物が飾り付けられています
神輿や風神雷神など、最近は指物もバラエティ豊かだそう
神輿や風神雷神など、最近は指物もバラエティ豊かだそう

家族総出。「熊手工房 はしもと」の熊手づくり

熊手づくりは、もともとは副業の家内制手工業として始まったものだそう。

はしもとさんでは現在も、橋本さんご夫婦、橋本さんのお姉さん、妹さん、義弟さんと、一家で熊手づくりをしています。

熊手が作られているのは、橋本さんのご自宅と、隣接する4階建ての倉庫兼工房。完成した熊手やその材料が、ところ狭しと並べられていました。

 工房の階段に並べられた熊手。ビニールを被り、酉の市で店頭に並ぶのを待っています
工房の階段に並べられた熊手。ビニールを被り、酉の市で店頭に並ぶのを待っています
2m近い巨大な熊手も!
2m近い巨大な熊手も!

工房にうかがうと、橋本さんのお姉さんと妹さんが、指物を熊手に飾り付けている最中でした。

全体のバランスを見ながら、躊躇なく指物を飾り付けていきます。数十年のベテランの技です
全体のバランスを見ながら、躊躇なく指物を飾り付けていきます。数十年のベテランの技です
滝登りする、鯉の指物もスタンバイ
滝登りする、鯉の指物もスタンバイ
義弟さんは大物の熊手を仕上げていました
義弟さんは大物の熊手を仕上げていました
「木 (ぼく) 」と呼ばれる木の飾りを仕上げる奥さん。松葉や梅の花を取り付けていきます
「木 (ぼく) 」と呼ばれる木の飾りを仕上げる奥さん。松葉や梅の花を取り付けていきます
梅の花が咲いた木 (ぼく)
梅の花が咲いた木 (ぼく)

はしもとさんでは年間5000~7000個もの熊手を作っています。前年の売上を参考に、お客さんのニーズに合わせた熊手を何十種類と用意するのだそうです。

平面から立体へ。進化する熊手づくり

こうした熊手づくりを120年続けてきた「はしもと」さん。時代によって、熊手のデザインや作り方に違いはあるのでしょうか?

「昔の熊手は、紙に絵を描いた指物を取り付けた、平面的なものばかりでした。現在でも『平 (ひら) 』と呼んで製作を続けています。

そこに、60年ほど前から『青 (あお) 』と呼ばれる立体的なものが登場しました。熊手の上部に飾られた松の色から青と呼ばれ、今ではこちらが主流です。指物に木彫りの人形を使うなど、年々熊手は豪華かつ高価なものになってきています。

一方で、最近は小さい熊手や、柄のついていない置物タイプの熊手も人気です。石膏ボードの壁で、熊手を取り付られない建物が増えているからですね」

昔ながらの「平 (ひら) 」の熊手。紙に描かれた絵の指物がメインなので、『青』と比べると厚みは控えめ
昔ながらの「平 (ひら) 」の熊手。紙に描かれた絵の指物がメインなので、『青』と比べると厚みは控えめ
立体の指物が飾り付けられた「青」の熊手はとてもボリューム感があります
立体の指物が飾り付けられた「青」の熊手はとてもボリューム感があります

あまり大きさにこだわらず、気に入ったものを買えばいい

さらに、熊手づくりを取り巻く環境も変わってきたのだと、橋本さんは語ります。

「指物も熊手本体も、昔は全てうちで作っていましたが、別の業者さんから取り寄せるものが増えてきています。

祖父が熊手づくりをはじめた頃は、農閑期に張り子を作る農家が近所に数多くあり、その張り子を使って指物を作っていました。しかし今は、宅地化で農家もなくなり、近所で張り子を手に入れることも難しくなりましたからね。

時代とともに、熊手づくりも変化しているんですよ」

「一方で、新しい材料や技術も登場しています。昔より指物の発色が良くなったりと、熊手のバリエーションは以前よりも広がってきています」

「熊手は年々大きいものに買い替えていくのが良いという話もありますが、どの大きさの熊手も同じように心を込めて作っています。また、同じデザインの熊手でも、すべて手作りなので一点一点どこかが違っています。ですので、あまり大きさにはこだわらず、気に入ったものを買うのが良いと思いますよ」

橋本さんのご自宅にも、熊手が。玄関に向けて、高い位置に飾るのが良いそう
橋本さんのご自宅にも、熊手が。玄関に向けて、高い位置に飾るのが良いそう

賑やかな酉の市を彩る熊手。縁起物の指物に込められた願いや、家族みなさんで作っている様子を知り、余計にありがたみが増すように感じました。

11月の酉の市は、あと2回。まだ行かれていない方は、お気に入りの熊手を探しに足を運んでみてはいかがでしょうか。

こちらの記事は2017年11月28日の記事を再編集して掲載しております。今年も盛り上がりを見せる酉の市。ぜひ皆さんも足を運んでください。

 

<取材協力>
熊手工房 はしもと
東京都足立区本木2-7-17
090-3202-0416

 

文・写真:竹島千遥

京友禅の職人が作ったメガネ拭き ヒットの裏側。かわいい顔した、ほんまもん。

今、新たな京土産として注目を集めている、メガネ拭きをご存知ですか。

京友禅に携わる若き経営者4人が、会社を越えて立ち上げたブランド、SOO(ソマル)が手がけるメガネ拭きは、京都でしか手に入りません。その名も、「おふき」。

注目の京土産、京友禅のメガネ拭き「おふき」
注目の京土産、京友禅のメガネ拭き「おふき」

手のひらサイズのかわいらしい布には、京友禅を更に発展させていこうとする熱い想いが込められていました。

「おふき」誕生の経緯やこれからの取組みを、SOOの皆さんに伺います。

SOOの(左から)関谷さん、日根野さん、田辺さん、安藤さん。京都友禅協同組合・青年部のメンバーで立ち上げました
SOOの(左から)関谷さん、日根野さん、田辺さん、安藤さん。京都友禅青年会議所のメンバー4人で立ち上げました

京都を代表する工芸品、京友禅の今

京友禅は、国が指定する「経済産業大臣指定伝統的工芸品」の一つ。

真っ白な正絹の生地の上に、手描きや型を使って鮮やかな模様を染め上げていく京友禅は、図案の制作から仕上げまで20以上もの工程を必要とし、各工程はそれぞれ専門の職人が分業で進めていきます。

型を使って着物の柄を染める「型染め」の様子。型の上から染料をこすりつけるようにして染めていきます
型を使って着物の柄を染める「型染め」の様子。型の上から染料をこすりつけるようにして染めていきます
型を外すと、黄色の花柄があらわれました。これを一旦乾かした後、違う型を使って違う色の染料を重ねていきます
型を外すと、黄色の花柄があらわれました。これを一旦乾かした後、違う型を使って違う色の染料を重ねていきます
色ごとに何枚もの型を重ねて染めることで、色鮮やかな柄を作り上げる型友禅。型染めの後もいくつもの工程が続き、それぞれ専門の工房が分業で仕上げていきます
色ごとに何枚もの型を重ねて染めることで、色鮮やかな柄を作り上げる型友禅。型染めの後もいくつもの工程が続き、それぞれ専門の工房が分業で仕上げていきます

鮮やかな美しさで全国的にも名高い京友禅ですが、着物の流通量の減少にともなって需要は低下しています。

販売開始からわずか一年で、引く手あまたの人気商品に

京友禅の事業者による「京都友禅協同組合」の青年部、「京都友禅青年会議所」は、この状況を打破すべく、京友禅の技法を活かした商品の開発に長年取り組み続けてきました。

帽子や靴、皿など、様々な製品を試作したものの、いずれも商品化までは至らなかったそう。

そこで日根野さんら4人が立ち上げたのが、京友禅の新ブランド、SOO(ソマル)です。「染める」・「染屋」から連想した「そまる」を、染屋の屋号としてよく使われていた「一文字を丸(○)で囲んだロゴマーク」に置き換え、現代風にアレンジを加えて「SO(ソ)O(マル)」と名付けられました。

染屋の屋号をイメージした、「そ」を丸(○)で囲んだロゴマーク
染屋の屋号をイメージした、「そ」を丸(○)で囲んだロゴマーク

「京友禅を手軽に持って帰ってもらいたい」との思いから、SOO第一弾の商品として、京友禅のメガネ拭き「おふき」は誕生したのです。

「おふき」の柄はSOOの4人がそれぞれデザインしています
「おふき」の柄はSOOの4人がそれぞれデザインしています

「おふき」は2017年夏に百貨店のポップアップショップにて販売を開始。「京都のもの」というブランディングの一環で、ネット店舗を含め、京都市内以外では一切販売をおこなっていません。

本物の京友禅を1500円(税抜)という手軽な価格で購入でき、しかも京都市内でしか購入できない珍しさから、人気は徐々に高まっていきました。現在では京都市内30店舗で取扱われるまでに。

期間限定のポップアップショップから始まったSOO。今では京都以外の店からも問い合わせがくるほどの人気
期間限定のポップアップショップから始まったSOO。今では京都以外の店から問い合わせがくるほどの人気

京友禅というと高級なイメージがありますが、一体どうやって手頃な価格を実現しているのでしょうか。

「『おふき』だけを別に染めると、コストが掛かってしまいます。普段の仕事の延長線上での商品作りをコンセプトに、着物を染める工程からいかに外れずに作るかを考えました」

SOOメンバーの一人、安藤さんが経営する安藤染工へお邪魔し、「おふき」作りの様子を見学させていただきました。

ほんまもんの京友禅「おふき」が染められる工場へ

「『おふき』は、着物を染める各工程の職人さんに、普段と同じことをしてもらいながら作っています。

着物用の生地と一緒に『おふき』用の下地を染め、その生地を使っているのです。こうすることで価格も抑えられます。

小さくても、手頃な価格でも、着物と全く同じ材料・工程で作った『本物』を手にとってもらいたい、という思いでやっています」

たくさんの染料が並んでいます。理想の色に染め上がるよう、丁寧に色合わせをおこないます
たくさんの染料が並んでいます。理想の色に染め上がるよう、丁寧に色合わせをおこないます
色合わせをした染料は、米糠が主原料の「友禅糊」と混ぜ合わせて使います。蒸すと生地に染料が染み込み、定着します。染め上がると更に鮮やかに発色するのだそう
色合わせをした染料は、米糠が主原料の「友禅糊」と混ぜ合わせて使います。蒸すと生地に染料が染み込み、定着します。染め上がると更に鮮やかに発色するのだそう
「おふき」用の型。透明に見える部分には細かな穴があいており、その穴を通って生地に染料が付着します
「おふき」用の型。透明に見える部分には細かな穴があいており、その穴を通って生地に染料が付着します
「おふき」も着物と同じように型染めされます。こちらの職人さんは40年のベテランです
「おふき」も着物と同じように型染めされます。こちらの職人さんは40年のベテランです
同じ柄で染めていても、下地となる着物の柄が異なるため、全く同じ製品は2つとありません
同じ柄で染めていても、下地となる着物の柄が異なるため、全く同じ製品は2つとありません
型染めは「友禅板」と呼ばれる全長7mの板に正絹をぴったりと貼り付けておこなわれます。一色染めるごとに友禅板を工房の天井で乾かすのですが、重さ約7kgもの板を上げ下げするのは大変な重労働です
型染めは「友禅板」と呼ばれる全長7mの板に正絹をぴったりと貼り付けておこなわれます。一色染めるごとに友禅板を工房の天井で乾かすのですが、重さ約7kgもの板を上げ下げするのは大変な重労働です
蒸して染料を生地に定着させる「蒸し」や、余分な染料を洗い落とす「水元」など、更に複数の工程を経て染め上がった「おふきmini」の生地。これを着物用のはさみでカットして製品に仕上げます
蒸して染料を生地に定着させる「蒸し」や、余分な染料を洗い落とす「水元」など、更に複数の工程を経て染め上がった「おふきmini」の生地。これを着物用のはさみでカットして製品に仕上げます
ピンキングはさみを使い、一枚一枚手作業でカットしていく

「染め」の工程だけでも、これほど手がかかっているとは。「おふき」には長年培われた技術が詰め込まれているのだと実感しました。

逆境から生まれた、究極の京土産

「『おふき』は京友禅の生地をカットしただけの『布』です。ある意味、京友禅が主役となる究極の形といえます。

絹は目が細かいため、メガネを拭くのに適していますし、天然繊維で静電気が起きにくく、ホコリがつきにくい。生地の特長も最大限生かした商品ができました」

今年の4月からは新作として、スマホ拭きの「おふきmini」も登場。こちらはコンビニの店頭でも販売されるなど、売れ行きは更に好調さを増しています。

「おふきmini」は全15柄。京都の観光名所が染められ、お土産にぴったり
「おふきmini」は全15柄。京都の観光名所が染められ、お土産にぴったり
「手描き友禅」による一点物のオーダー「おふき」も。きらびやかで繊細な柄は、思わずため息が出るほどの美しさです
「手描き友禅」による一点物のオーダー「おふき」も。きらびやかで繊細な柄は、思わずため息が出るほどの美しさです

世界一の技術を知ってもらいたい。SOOの思い

しかし、SOOの目標は「おふき」の販売売上を上げることではない、と代表の日根野さんは語ります。

お客さんとの接点を生み出し、「おふき」を通じて京友禅そのものに興味を持ってもらえるよう、積極的に働きかけているのです。

「まずは『こうやって手をかけて染めているのか』と、京友禅の価値を知っていただく。その上で、着物などにも興味を持ってもらえたら嬉しいです」

SOOでは、オリジナルの「おふき」を染められるワークショップを開催。京友禅の染めの工程などを伝えています
SOOでは、オリジナルの「おふき」を染められるワークショップを開催。京友禅の染めの工程などを伝えています

また、SOOは日本国内だけでなく、世界展開も見据えています。今年の秋には台湾の展示会への出展も予定しているとのこと。

「正絹生地を染めることにおいては、京友禅が世界一だと思います。これだけの技術があるのだから、着物以外にも利用価値は必ずあるはずです」

需要減という逆境から生まれた「おふき」そしてSOOは、逆境に立ち向かうだけでなく、世界にまで京友禅の可能性を広げようとしていました。

熟練の職人さんたちの技術や手間が込められた「おふき」。皆さんも京都を訪れた際には、ぜひ手にとってみてください。

きっと、その色合いや手触りに、ほんまもんへの作り手の思いが感じられるはずです。

<取材協力>
SOO(ソマル)
京都市上京区元誓願寺通東堀川東入西町454 (株)日根野勝治郎商店内
075-417-0131
https://soo-kyoto-soo.amebaownd.com/

安藤染工
京都市右京区西院西寿町21-3
075-311-0210

「おふき」取扱店
https://soo-kyoto-soo.amebaownd.com/pages/1334237/page_201710100047

文・写真:竹島千遥
写真提供:SOO