奈良をよく知る人が勧める「奈良旅行」の観光地めぐり

旅をするとき、訪れたいのは必ずしも観光地には限らないと思うのです。

その土地に詳しい人から聞く話は興味深く、安心感も手伝って、それなら行ってみたいと感じる場所も多いもの。

そんなふうに考えて、今回は「奈良を旅する」というテーマで、その土地を知る人におすすめポイントを聞いてみました。

協力してくれたのは、ご当地限定ものを中心に扱うお店「日本市 奈良三条店」スタッフのみなさん。他にも、奈良に詳しいさんち編集部員から「ここもぜひ!」とコメントをもらいました。

さくらの季節はここに泊まりたい、奈良ホテル

奈良ホテル

創業当時から「関西の迎賓館」と謳われ、今も日本を代表するクラシックホテルとして名高い奈良ホテル。

天井まで届く窓から四季折々の風景を楽しめるティーラウンジや、世界の銘柄が並ぶほの明るいカウンターでゆったりとお酒をいただける「ザ・バー」は、宿泊客でなくても利用できます。

二階から見下ろすロビー
二階から見下ろすロビー

「さくらの季節が特におすすめです。ホテル下の坂道に桜並木があるのですが、お花見しながら通り抜けるとレトロな奈良ホテルが見えてくるんです。

ティーラウンジから見える景色がとても素敵で、タイムスリップしたかのような優雅な空間でゆったりと過ごせます。うん年前にここで結婚式を挙げました!」

陽光の差し込むティーラウンジ
陽光の差し込むティーラウンジ

「奈良公園の方から池を渡って向かうアプローチも素敵です。建築やロビーの展示を見るだけでも楽しいですよ」

ゆったりとお酒を楽しめるザ・バー
ゆったりとお酒を楽しめるザ・バー

奈良ホテル

住所:奈良県奈良市高畑町1096
■営業時間
宿泊:チェックイン 15:00 / チェックアウト 11:00
ティーラウンジ:8:30~18:00
ザ・バー:18:00~23:00
定休日:なし
オフィシャルサイト:http://www.narahotel.co.jp/

お茶との新しい楽しみ方に出会う、茶論

新ブランド「茶論」が奈良・元林院に1号店をオープン

中川政七商店グループの道艸舎(みちくさや)がオープンした新ブランド『茶論(さろん)』。

「日本の茶道文化の入り口」を広げるべく、ブランドディレクターに茶人で芳心会主宰の木村宗慎氏を迎えています。

店舗は、お茶を通して“おもてなし”の力量を上げる「稽古」、お茶を通して心に閑を持つ「喫茶」、オリジナル茶道具を販売する「見世」で構成されています。

新ブランド「茶論」が奈良・元林院に1号店をオープン 喫茶 和カフェ
喫茶 一例

「奈良町の伝統的な建物を贅沢に使った空間。素敵なお家にお邪魔したような気持ちになります。お庭は必見!」

新ブランド「茶論」が奈良・元林院に1号店をオープン 喫茶 和カフェ
喫茶 一例

「夏はかき氷、冬はぜんざいも美味しいです。器も“いいもの”を揃えているので、要チェック。写真も映えます」

茶論 奈良町店

住所:奈良県奈良市元林院町 31-1 (遊 中川 奈良町本店奥)
営業時間:10:00〜18:30
定休日:毎月第2火曜(祝日の場合は翌日)
オフィシャルサイト:https://salon-tea.jp/

美しい菓子作りに見惚れる、萬御菓子誂處 樫舎

萬御菓子誂處 樫舎

世界遺産の元興寺にもほど近く、奈良町らしい風情を感じながら、絶品の和菓子を味わえる「萬御菓子誂處 樫舎(かしや)」。

入り口のガラス窓には季節・気候により一番食べ頃の素材を使った上生菓子が美しく並び、お店に入る前から一期一会の出会いが楽しめます。

「私たちは食感を作るだけ」という和菓子は、格式のあるお茶席や公の席からの注文が絶えません。

季節の上生菓子と入り口の窓越しに対面
季節の上生菓子と入り口の窓越しに対面

「いわゆる季節の生菓子だけでなく、デザート(夏はかき氷、冬はぜんざいとか)も名物!ここを目掛けて奈良にくる人も多い、わざわざ行きたい和菓子屋さんです」

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「おすすめは、1階のカウンターでいただくコース。ご主人の喜多さんが目の前で和菓子を作ってくれます。その過程が本当に美しくて、ずっと見ていたい‥‥。

お菓子づくりに使う道具が、これまたすごい。材料や茶器についての説明も勉強になります。2階に上がっての喫茶も、隠れ家のようで落ち着きます」

ご主人の喜多さん。要予約のカウンター席では喜多さんが目の前で作る和菓子を堪能できる
ご主人の喜多さん。要予約のカウンター席では喜多さんが目の前で作る和菓子を堪能できる

萬御菓子誂處 樫舎

住所:奈良県奈良市中院町22-3
営業時間:9:00-18:00
定休日:なし
オフィシャルサイト:http://www.kasiya.jp/

ご進物にもご自宅にも愛される、森奈良漬店

創業1869年(明治2年)、東大寺南大門前に位置する森奈良漬店。

酒粕に瓜を漬け込んだ「奈良漬」が商品として売られるようになったのは江戸末期。森奈良漬店は、それから程なく開業した老舗です。

素材には直接もしくは契約栽培の野菜や果物のみを使用し、酒粕と天然塩だけで味付けした奈良漬は、お酒の味がしっかりと効き、地元ファンも多し。

中身の壺はこんな感じ。どっしりとした丹波立杭焼だ
中身の壺はこんな感じ。どっしりとした丹波立杭焼

「東大寺の門前にひときわ目を引く大きな屋号。おせんべいを求めて観光客と戯れる鹿が右往左往するところにどーんとあります。

いつもたくさんのお客様でにぎわっていて活気がありますね。でも、奈良らしいまったりとした感じもあって、心地よいお店です」

酒粕を洗いおとさずにそのまま食べられる「きざみ奈良漬」(瓜・胡瓜入 り)。左が230g入り540円(税込)、右が135g入り380円(税込)。気軽な手土産にちょうど良い
酒粕を洗いおとさずにそのまま食べられる「きざみ奈良漬」(瓜・胡瓜入
り)。左が230g入り540円(税込)、右が135g入り380円(税込)。気軽な手土産にちょうど良い

「奈良漬がお好きな方には、ぜったいおすすめ。深い味わいの中にも、後味はすっきりとキレがあります。

進物だけでなく、自宅用に購入するならきざみ奈良漬がいいですね。酒粕と一緒にいただくのも、マイルドな味わいでとても美味。瓜、きゅうりのほか、ショウガなどもあります。個人的にはスイカ推し。やさしいコリコリ食感は、なかなか他の素材にはないと思います。おかいさん(粥)にぴったりですよ」

壺入り「きざみ奈良漬」。パッケージに描かれた壺の姿が愛らしい
壺入り「きざみ奈良漬」。パッケージに描かれた壺の姿が愛らしい

森奈良漬店

住所:奈良県奈良市春日野町23
営業時間:9:00-18:00
定休日:なし
オフィシャルサイト:https://www.naraduke.co.jp/

クラシカルなホテルから、新オープンのスポット、さらには県外にもファンが多い鉄板の和菓子店、そして地元民も愛する漬物屋。

奈良へ旅するなら、お目当ての場所に加えて、ぜひ今回紹介した場所も散策コースに加えてみてはいかがでしょう。それでは、よい旅を!

<取材協力>
日本市 奈良三条店
奈良県奈良市角振新屋町1-1
ファインフラッツ奈良町三条 1F
https://www.yu-nakagawa.co.jp/p/213

写真:木村正史(奈良ホテル、萬御菓子誂處 樫舎、森奈良漬店)

薩摩焼を代表する窯元「沈壽官窯」で手に入れたい白薩摩

作家・司馬遼太郎が通った、小さな村の窯元

工房を訪ねて、気に入った器を作り手さんから直接買い求める「窯元めぐり」。

今回訪れる窯元は、鹿児島県日置市にあります。鹿児島市内から西へ西へとバスに揺られて美山 (みやま) というバス停に降り立ちます。

すぐそばにあるのが、「沈壽官窯 (ちんじゅかんがま) 」。国の伝統的工芸品指定を受けている「薩摩焼」を代表する窯元のひとつです。

ゆるやかな坂道を登っていくと‥‥
ゆるやかな坂道を登っていくと‥‥
「工房」の看板とともに白い建物が
「工房」の看板とともに白い建物が

木々に囲まれた丘の上の工房は、窯元というよりさながら小さな美術館のよう。

窓の向こうに人の姿が
窓の向こうに人の姿が
熱心になにか作業をされています
熱心になにか作業をされています

大きく開かれた窓越しに、職人さんらしき人の姿が伺えます。

「朝の仕事は、社員全員でこの庭を掃除することから始まるんですよ」

出迎えてくれたのは沈壽官窯、営業担当の瀬川さん。

ぐるりと見渡すと、きれいに掃き清められた庭には小さな石碑が建っています。

工房を囲む庭の片隅に、石碑と案内板が立っています
工房を囲む庭の片隅に、石碑と案内板が立っています

「故郷忘じがたく候 文学碑」。

作家、司馬遼太郎が、現当主の先代にあたる14代沈壽官氏を主人公に綴った作品の、出版記念碑です。

タイトルにある「故郷」とは、はるか海の彼方にある朝鮮の地のこと。

ここ沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉による2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元です。

「初代をはじめ薩摩にたどり着いた陶工たちは、この美山の地が祖国に似ているとの理由で、この地に住みついたと言われています」

以来、沈壽官窯は島津家おかかえの御用窯として発展してきました。

沈壽官窯の代名詞、美しい白薩摩

「あれが白薩摩、あちらが黒薩摩です」

瀬川さんが窓の奥を示しながら説明してくれたのは、地元では白もん、黒もんとして親しまれる薩摩焼の種類。

白薩摩を作陶中
白薩摩を作陶中
こちらは黒薩摩。土の色がはっきりと異なります
こちらは黒薩摩。土の色がはっきりと異なります

中でも美しい白い器が、沈壽官窯の代名詞です。

先ほど見かけた職人さん。こんな大きな白薩摩に、細かな絵付け作業中でした!
先ほど見かけた職人さん。こんな大きな白薩摩に、細かな絵付け作業中でした!

「黒薩摩と白薩摩の違いは、土に鉄分を含んでいるかいないかの違いです。

鉄分を含んだ桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では、黒っぽい土ばかり採れていました」

鹿児島のシンボル、桜島の噴火の様子
鹿児島のシンボル、桜島の噴火の様子

「そこで島津家から白い焼き物を作れと命を受け、初代沈当吉たちは7年の歳月をかけて白い土を探したそうです。

ようやく見つけた白土で器を焼き、島津家に差し出すと、喜んだお殿様がその功績をたたえ、薩摩焼と名付けた。これが薩摩焼の始まりだと文献に残っています」

当時の日本は、朝鮮の美しい白磁器に強い憧れを抱いていました。しかし、鹿児島では磁器に適した土は見つからず、陶工たちは陶器で白い器を作ったのです。

喜んだ島津家はこれを独占し、民間には黒い器の使用だけを許しました。

黒薩摩の器
黒薩摩の器

こうして薩摩の地に、藩御用達の白薩摩と、庶民が使う黒薩摩が生まれます。

実は鹿児島には他にも白黒の対になっているものが多いのですが、薩摩焼はまさにその筆頭と言えます。その一部は「白黒はっきり鹿児島巡り。旅の秘訣は色にあり?」の記事でもご紹介しました。

御用窯の生きる道

工房はよく見ると、工程ごとに部屋が分かれています。これも実は島津家の「戦略」の名残だと聞いて驚きました。

「万が一陶工が他の藩に取られてしまった時に、分業制にしておけば器を完成させることができません。それで島津家は完全な分業制を窯に命じました。

今でもろくろを回す人はろくろを、絵付けの人は絵付けだけを生涯専門で行うのが、沈壽官窯の伝統です」

こちらの職人さんは絵付け中
こちらの職人さんは絵付け中

職人さんは、陶芸の学校を出て入門する人が大半とのこと。現当主である15代が、本人の希望とその仕事ぶりを見て任せる工程を決めるそうです。

若い人も多い印象です
若い人も多い印象です

成形で基本の形を作ったら、白薩摩は「透し彫り」や「絵付け」の工程に進みます。

「透し彫りは幕末から明治を生きた12代沈壽官が生み出した技術です。何種類もの道具を使い分けて、土がやわらかい内に表面に穴をあけていきます」

職人さんの手の向こうに、息を呑むような作品の設計書が置かれていました。これが透し彫りの作品です
職人さんの手の向こうに、息を呑むような作品の設計書が置かれていました。これが透し彫りの作品です

「形が整ったら、次は絵付けです。白薩摩の絵付けは、幕末の名君として知られる島津斉彬 (しまず・なりあきら) の命で始まりました。これを成功させたのも12代の時代です」

一番のベテランという絵付けの職人さんが、ちょうど透し彫りの器に模様を入れている最中でした
一番のベテランという絵付けの職人さんが、ちょうど透し彫りの器に模様を入れている最中でした

この繊細な透し彫りと絵付けの技術は、明治以降の窯の命運を助けました。

最大のお得意様であった薩摩藩がなくなったのち、沈壽官窯は海外の万博で美術工芸品として高い評価を受け、その名を世界に知られるようになったのです。

今回はその工程を、特別に中からも見学させてもらいました。

世界が称賛した透し彫り

透し彫りは土の乾燥を防ぐために、器全体は濡れたタオルやビニールを巻いて、必要な部分だけ露出させて行われます。

こちらの職人さんは、上手にタオルを破って活用していました
こちらの職人さんは、上手にタオルを破って活用していました
写真;まず大まかに穴をあけて、そこから道具を持ち替えて丸を四角く整えていきます
まず大まかに穴をあけて、そこから道具を持ち替えて丸を四角く整えていきます
穴あけのための道具がずらり
穴あけのための道具がずらり
この網目状の生地も、すべて手作業で穴をあけているとのこと‥‥くらっとします
この網目状の生地も、すべて手作業で穴をあけているとのこと‥‥くらっとします

失敗の許されない絵付け

部屋の入り口には色見本のついた甕が置かれていました。

色見本のついた甕

絵付けは、素焼きした器に色別に模様を描いたのち、窯で焼いて色を焼き付けます。

色によってきれいに発色する温度が違うため、色ごとに描いては窯の温度を変えて焼き付ける、を繰り返すそうです。なんて途方もない工程!

音楽を聞きながら作業に集中
音楽を聞きながら作業に集中
こちらも目がチカチカするような細かい作業です
こちらも目がチカチカするような細かい作業です

生き物は生きているように作る、飾り

先ほど透し彫りの部屋で飾りがついた器を見かけました。伺った日に職人さんが取りかかっていたのは、タツノオトシゴ。

小さくてこの距離だと見えませんが‥‥
小さくてこの距離だと見えませんが‥‥
手の中に小さなタツノオトシゴが!
手の中に小さなタツノオトシゴが!

こうした飾りは設計図があるわけではないので、図鑑などを参考にしたり、時には実際に見に出かけたりもするそうです。

部屋の本棚にはずらりと参考書籍が。本を参考にしつつも、生き物は「やはり生きた姿を見ないと本物らしくならない」とのこと
部屋の本棚にはずらりと参考書籍が。本を参考にしつつも、生き物は「やはり生きた姿を見ないと本物らしくならない」とのこと
道具も職人さんが自分で作ります
道具も職人さんが自分で作ります

二つの国のあいだで

施設をぐるりと巡ったところで、瀬川さんに「訪ねてきた人にどんなところを楽しんでほしいですか?」と伺いました。

「もちろん技術も見てほしいのですが、何より、この空間そのものを楽しんでもらいたいですね。

ここは日本のような、朝鮮を思わせるような、不思議な空間だと思います」

正面玄関。奥には日韓の国旗と、朝鮮の守り神の像が立っています
正面玄関。奥には日韓の国旗と、朝鮮の守り神の像が立っています

「初代がここに窯を築いた当時、島津家は陶工たちに朝鮮で暮らしていた通りの生活を命じたんです。ですから今でも朝鮮式の呼び名のついた道具なども残っています」

ろくろの部屋にあった、古式にならった様々な道具
ろくろの部屋にあった、古式にならった様々な道具

「それは焼き物の先端を行く朝鮮の器づくりを取り入れる目的ももちろんありますが、もう一つ、彼らや彼らの子供達を、日本語も朝鮮の言葉も話せる通訳として起用する狙いがあったようです。

そのために、もともとの民俗風習を忘れさせないようにしたんですね」

この場所では、何を見ても何を聞いても、あらゆるものが歴史の中の物語につながっていきます。

焼き物の神様をお祭りした朝鮮式の祠
焼き物の神様をお祭りした朝鮮式の祠
司馬遼太郎と14代がよく語らっていたという縁側
司馬遼太郎と14代がよく語らっていたという縁側
参勤交代の道中にお殿様が宿泊したというお仮屋。あの篤姫も泊まったそう。普段は非公開ですが、そっと中を見せてくださいました
参勤交代の道中にお殿様が宿泊したというお仮屋。あの篤姫も泊まったそう。普段は非公開ですが、そっと中を見せてくださいました
完成品にならなかった陶片の山
完成品にならなかった陶片の山
ろくろ台を生かした庭石
ろくろ台を生かした庭石

美術工芸的な器を作る窯元さんも見てみたい、そんな思いで訪ねた沈壽官窯でしたが、単にものづくりに触れるだけでなく、足元に流れる歴史を肌で感じるような、そんな感覚に終始浸っていました。

歴史の中の器を、暮らしの中に持ち帰る

最後は併設の売店でお買い物を。

売店の様子

私でも買えるものもあるだろうか‥‥とドキドキしていましたが、お土産に買って帰れる手頃な価格のものも多く揃っていました。

注がれると飲み干すまで杯を置けない鹿児島伝統のお猪口、「そらきゅう」もありました
注がれると飲み干すまで杯を置けない鹿児島伝統のお猪口、「そらきゅう」もありました
焼酎の燗付器、千代香 (ちょか) 。黒が有名ですが、白千代香がありました
焼酎の燗付器、千代香 (ちょか) 。黒が有名ですが、白千代香がありました
お茶道具の蓋置き。上品なデザインです
お茶道具の蓋置き。上品なデザインです

「現在は白薩摩と黒薩摩、半々くらいでお作りしていますが、お土産としてはせっかくなので、元々の沈壽官窯を代表する白薩摩がおすすめですね」

一番人気は大きめサイズのマグカップ。金の縁取りがあって4000円台と、白薩摩のなかでは手頃な価格なのも、人気の理由だそうです。

一番人気のマグカップ
黒薩摩も充実しています
黒薩摩も充実しています

そんな陳列の向こうに‥‥

陳列の向こうに、14代の姿

腰掛けていらっしゃったのはなんと、14代その人。

売店でお土産を購入した方に、お礼としていつも、名前入りで品名を一筆書かれているそうです。

筆をとって書かれている様子
思わず見入ってしまいます
思わず見入ってしまいます
売店に置かれていた『故郷忘じがたく候』にも一筆したためていただきました
売店に置かれていた『故郷忘じがたく候』にも一筆したためていただきました

どちらからいらっしゃったんですか、と気さくに声をかけてくださり、少しお話を伺うことができました。

「時代の影っていうのが、焼き物にも差すんですよね。

明治維新によってそれまで大名のものだった薩摩焼が、外国にも輸出され、一般の方にも手にとっていただけるようになりました。

陶工生活60年、こうして居ると、自分の作ったものがあの人の部屋にいって、今頃使われているかなと、色々思うことがあります」

当主を息子さんに譲られた今でも、建築現場を通りがかると、いい土が出ていないか、とつい足を止めて見入ってしまうそうです。

「420年、ずっと異邦人です。それがあるからかえって、焼き物に打ち込めるのかもしれませんね」

3回目となる窯元めぐり。

歴史の中を生きてきた器を、暮らしの中に持ち帰るという、稀有な体験をしました。

<取材協力>
沈壽官窯
鹿児島県日置市東市来町美山1715
099-274-2358
http://www.chin-jukan.co.jp/

文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、鹿児島市、公益社団法人 鹿児島県観光連盟

※こちらは、2018年1月20日の記事を再編集して公開しました。

日本で唯一、大きな桶を作る桶屋。その技術を受け継ぐのは蔵人たちだった

冬に最盛期を迎えるのがお酒の寒仕込みです。

昔ながらの仕込みに欠かせないものといえば大きな木桶。

現在、木桶仕込みをする酒蔵も少なくなり、この大桶を作る桶屋さんも全国で1軒だけになってしまいました。

かつて桶、樽の産地だった大阪の堺市で唯一となった、大桶を作る藤井製桶所を訪ねました。

木桶で一番大事なのは木目

「今は、日本酒の仕込桶を作ってます」

そう話すのは藤井製桶所3代目の上芝雄史(うえしば・たけし)さん。

藤井製桶所

案内していただいた広い工場には、桶の材料となる板があちこちに並んでいます。

藤井製桶所

「杉材を使います。赤い部分と白い部分があるでしょ。この境目を白線帯(はくせんたい)といって、これを取り込んで材を取ります」

藤井製桶所

白線帯は幅3mmくらいで密度が高く、アルコールが抜けにくいのだそう。

「この部分だけ使って日本酒の桶を作ります。直径4、50cmの原木から4枚しか取れない。非常に贅沢な取り方です」

藤井製桶所

木の中心の赤い部分は、味噌や醤油の桶を作る材料になるそうです。

「木桶で一番大事なのは木目。木目が上から下までしゅーっと真っ直ぐに通ってること。斜めになってると漏れる原因になります」

素材の見極めが肝心なことがよくわかりました。

いよいよ、ここからは桶づくり。まずは鉋がけから。

藤井製桶所

丸い桶を作るために側面に角度をつけていきます。

藤井製桶所
鉋の上を木材を滑らせて削っていく

角度の調整に使うのはカマと呼ばれる手製の道具。

藤井製桶所

細かく角度を確認しながら鉋をかけていきます。

藤井製桶所

板を繋ぐのは竹釘。

藤井製桶所

板を4、5枚繋いで、再び鉋をかけます。

藤井製桶所

桶の形が少し見えてきました。

工場の外では竹を削る作業をしています。

藤井製桶所
藤井製桶所

「箍(たが)の材料を作っています。長さ10mの竹を割って、節を全部落として、ツルツルにして編んでいくんです」

藤井製桶所
藤井製桶所
箍を編んで桶にはめる

今回、最後の桶を組む工程は見られませんでしたが、板を組んで箍をはめると桶が完成します。

藤井製桶所
20石(3600ℓ)の大桶

「組み立てるのは30分くらいですが大仕事です。それまでは単純作業の繰り返し。最後の仕上げは手で削りますから、体力もいりますね」

もともと桶屋は高給取りだった

藤井製桶所の創業は大正11年頃。

「初代がなぜ桶屋になったかと言うと、手間賃が大工の倍ぐらいあったから。桶屋は高級取りだったんです」

当時、全国の就労人口の2%は桶屋だったという記録も残っているほど桶屋は多く、それだけ需要もありました。

藤井製桶所

「生活の全てに桶が使われてました。ご飯を入れるお櫃、風呂桶、洗面桶、井戸から水を汲み上げるのも鶴瓶桶。あらゆる生活シーンの中に桶があったんです」

昔は赤ちゃんの産湯桶、洗濯桶、行水桶を3つ重ねて入れ子にしたものが結納品の一つだったそうです。

「それが戦後、10年ぐらいのうちに劇的に変わりました。焼け野原になったところに大量に住宅を立てるため、木材が高騰。逆に軍事産業がストップして鉄が余って安くなった。業界がガラッと入れ替わったんです」

酒、味噌、醤油などに使われていた木桶も、次第にホーローやFRP(強化プラスチック)に取って代わられるようになる。

藤井製桶所
FRPタンク

「そもそも、木桶は味噌や醤油なら150年ぐらいは使えます。今でも慶応時代の桶を使っていたりするぐらいだから、仕事の発生件数もそれほどあるわけじゃないので、必然的に仕事にあぶれる状態になってしまいます」

そのため、桶屋さんが次々と廃業していくことに。

そんな中、なぜ藤井製桶所は残っていけたのでしょうか。

お得意さんは工場

初代が堺で桶屋を始めた当時、すでに50軒ほどの桶屋があり、桶屋を営みはじめたのは最後の方だったそうです。

「新参者で、酒屋の仕事をしたくても取引先がなかったので、最初から他とは違う工場関係の仕事を手がけていました」

目をつけたのは桶の仕立て直し。全国の酒屋から中古の桶を引き取り、組み直して工場に収めました。

藤井製桶所

堺は戦前から化学産業が盛んだったため、戦中、戦後も仕事にあぶれることはなかったそうです。

高度成長期、工場でもステンレスやFRPタンクが使われるようになっても、木桶ならではの需要もありました。

例えば、カセットテープやビデオテープなどの記録媒体に使う磁性酸化鉄を作るのもそのひとつ。

「桶の中でカドミウムだとかいろんなものを化学反応させて、粒子を作るんです」

藤井製桶所

なんだかお酒の発酵みたいです。

「そうですね。木桶の一番のメリットは酸に強くて保温性があること。化学反応をさせるためには保温性が必要なんです。鉄やステンレスだと一定の温度で反応させることが難しくなるので、木桶が使われていました」

高さ10mもある大きな桶を作っていたこともあるそうです。

「工場の仕事をしていた桶屋は大阪でも3軒ぐらいあったかな。だけど、それも私のところ1軒になってしまいました」

桶屋の技術を活かした仕事

時代とともに工場の仕事も少なくなると、桶以外の仕事をするように。

「桶屋は円筒形のものを綺麗に組み合すという技術があるので、それを活かした仕事を請け負っていました」

公園のベンチや遊具などもそのひとつ。

「20数年やっていました。丸太と丸太を合わす、大工さんとはまた違う技術なですね。当時は人気があってたくさん作りましたけど、それもプラスチックやステンレスになってしまいましたね」

ほかにも、中古の桶を使った茶室、家具などさまざまなものを手がけたと言います。

事務所も桶の廃材で作ったもの。

藤井製桶所
30年以上前に建てた事務所。「廃材やし、こないに保つとは思ってなかった(笑)」
藤井製桶所

もちろん、それらの仕事をしながら桶の仕事も続けていました。

「なんせ桶の職人さんやから、彼らにとったら遊具はあんまり気が進まん。桶作ってる方がいいと(笑)」

その一方で、「どんな仕事であろうと自分のところでできると思ったら手にかける。桶の仕事自体を捨てなかったのが私のところが残った理由です」と言う上芝さん。

「仕事が続く状態、チームが残るという状態が長い間維持されてきたのがよかったのでしょうね。大桶づくりはチームで残らないとダメだから」

藤井製桶所

現在、藤井製桶所で桶作りに携わるのは上芝さんの兄弟と研修生の4名に加え、90歳を過ぎたお父さんも毎日工場で作業をしているそうです。

「職人がいなくなって、親方一人が残った桶屋さんもたくさんありました。仕事が来ても一人ではできないので、うちが下請けをするという時代もありましたね」

桶をずっと作ってこれたのは職人さんがいたから。

「そうですね」

美味しい味噌や醤油の蔵元には木桶が並んでいた

時代とともに使われなくなった木桶ですが、20年ほど前から、その良さが見直されてきたと言います。きっかけはテレビ番組でした。

「戦後、醤油や味噌の蔵元さんが一斉にホーローやFRPのタンクに買い換えた時、お金がなかったところは、仕方なしに木桶を使ってたんですが、そこの醤油や味噌がグルメ番組で取り上げられるようになったんです」

味にこだわる板前さんが使っている醤油や味噌を調べると、どこの蔵元にも木桶が並んでいました。

「木は断熱性と保温性が高いので、外気温が変わっても一定の温度を保つことができるんです。だから、発酵する時に、中にいる菌にとって住み心地がよく、仲間を増やしやすいんです。菌が活発に活動することで、お蔵さんのオリジナルの味が生み出されるわけですね」

藤井製桶所

木桶仕込みは熟成の段階で味に変化が出てきます。一方、FRPやステンレスタンクでは味の変化が進まないといいます。

「木桶仕込みのものには、他の桶で仕込んだものには入っていない物質がたくさん入っている。だから、複雑な味になる。味に深みが出てくるんです」

買い換えられずに木桶を使っていたことが、知らず知らずのうちに蔵の味を守ることに繋がっていたのです。

藤井製桶所
一番大きい100石桶の箍。今は注文する人がいないそう

蔵人たちの手で受け継がれる木桶作り

意外な形で見直されてきたことから、ここ10年、木桶仕込みで昔の味を取り戻そうとか、他とは違う味のものを作ろうという蔵元が増えてきたといいます。

とはいえ、「仕事の量は知れてます」と言う上芝さん。

「基本的に桶は長く使えるものですから。そういうもんを扱う業者はなかなか生き残れない。それは現実にありますね。だから、木桶を使いたいところは自分のところで作りなさいと。

私は技術指導はできるけど作るだけの体力はもうないから、そこから先は自分のところでやりなさいと。今、3軒くらいかな、ある程度自分のところでできるようになってきましたね」

この日、酒の仕込桶を作っていたのも、新潟にある今代司酒造の蔵人さんたちでした。

藤井製桶所
藤井製桶所

自分たちの味は自分たちで守っていく時代。

「これからは私らみたいなスタイルでチーム組んで、それだけで仕事を続けていくのには限界があると思います。自分の生活は酒蔵や醤油蔵の仕事で保証されてて、必要な時に桶を作る、直すということに移っていかないと。

新しい需要があって、桶職人で生活できるということであれば、過去30年の間に新しいチームができていて当たり前なんですが、できていないということは、やっぱり仕事がないですね」

和竹屋さんと木取り商があって、はじめて桶屋は成り立っていた

かつての新参者が最後の桶屋となった藤井製桶所。今後は2020年をめどに仕事を縮小していくといいます。

「得意先にはもう大きな桶はできませんよって、10年ぐらい前から伝えています。それまで何十年間、お得意さんとして仕事くれてる方々に迷惑をかけないために。

ところが、辞めるっていうのが業界で噂になって、ここ2、3年、わしのところも、わしのところも、って言うてくるところがあるんですが、ほとんどお断りしてます。辞めるんやったら作って欲しいっていう、駆け込み寺的な感覚で言ってくるところは、受けてないですね」

藤井製桶所

「昔は、箍を作る専門の和竹屋さんや、桶専門の材木を提供する木取り商があったんです。木取り商は、桶1個分の材料を1パックに仕立てて、それを桶屋に売る。和竹屋さんと木取り商があって、はじめて桶屋は成り立っていたんです」

ところが、この二つがなくなってしまった。

「だから、今は全部自分のところでやらないといけない。工具を作る鍛冶屋さんもなくなっているから、それも自分のところで作るということになってしまう。そういう時代に入ってるんです」

藤井製桶所

今になって急に「昔はよかった」といっても、なくなってしまったものが多すぎる。私たちは便利さを優先してきたことで大切なものを失ってきたのだと痛感しました。

桶の文化はこの先どうなるのでしょうか。

「根強いものは感じています。桶を作る業者はなくなるだろうけど、桶自体がなくなることはなさそうですね」

桶は資源を無駄なく使い、機能的で長持ちするとてもよいもの。

「桶がいい」と表面的なカッコよさだけで使うのではなく、木が持つ特性や本質的な部分でのよさを知った上で長く使ってほしい。

日本で唯一となった桶屋さんの思いを重く受け止めました。

<取材協力>
藤井製桶所

文 : 坂田未希子
写真 : 太田未来子

波佐見焼の豆皿(BARBAR)食卓をもっと鮮やかに彩る「あ」「うん」の狛ねこ

猫と植物模様の陽刻の妙!モチーフは輸出用につくられた古伊万里焼き?

今回ご紹介するのは、鮮やかに食卓を彩る「あ・うん」の波佐見焼の豆皿です。

モチーフは、「狛犬」ならぬ「狛猫」。明治時代初期に輸出用につくられた古伊万里焼きです。陽刻(ようこく)*1)の技法で、猫と植物模様がクラシカルに表現されています。対になった2匹の狛猫は、魔除けの役割も担っているのだそう。

紅茶に添えるお砂糖やクッキー、ちょっとした洋菓子のふるまい用として。アクセサリーなど、大切にしている装身具を置くための、インテリアとしても活躍します。

*1)陽刻(ようこく):文字・模様・画像が浮き出るように彫刻すること

波佐見焼の豆皿 BARBAR
波佐見焼の豆皿

豊臣秀吉が率いた「焼き物戦争」とは?

波佐見町の前身である波佐見村で本格的に磁器の生産が始まったのは1500年代末のこと。きっかけは、豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役 (1592~1598年)でした。

この戦いは別名を「焼き物戦争」とも呼ばれています。各地の大名たちは、朝鮮王朝時代の焼き物と築窯(ちくよう)の高い技術を得るために、朝鮮から多くの陶工たちを引き連れました。

彼らに技術を伝承してもらいながら、波佐見村「木の畑ノ原」「古皿屋」「山似田」の3か所に巨大な階段状連房式登窯*2)を築き、1599年、本格的に磁器づくりが始まりました。

*2)連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま):焼成室(房)を斜面に複数連ねた窯の総称で、現在一般的に狭義の「登り窯」と呼ばれている窯のことを指す。波佐見で18世紀に出現した窯は、全長100メートルを超え、焼成室は30室以上、全長160メートルを超えるものも見られた。

分業の職人仕事で支えられる波佐見焼

長崎県波佐見町の風景
長崎県で唯一海と面していない波佐見町

明治期以降の長い間、隣町の有田町でつくられる「有田焼」として販売がされてきたため、名前が表に出ることは少なかったですが、日常使いのうつわの一大生産地として、日本の陶磁器市場を支えてきました。

波佐見焼は、量産をたいへん得意とします。町内に点在するいくつもの工房は、それぞれが専門の役割を担っており、「型屋」「素地屋」「窯屋」など分業体制をとることによって、それぞれの技術は高い精度で発展してきました。工波佐見町が一体となり、一枚のうつわがつくられています。

波佐見町「型屋」の岩永喜久美さんの作業風景
長崎県波佐見町「村松生地」の信輔さん作業風景
釉薬はすべて手作業で塗る

たくさん・手早くつくるために技術は磨かれ進歩する。そのことを今に教えてくれるのが、波佐見の焼き物です。

気持ちが高揚し、ワクワクする陶磁器を生みだす「BARBAR」

陶磁器の伝統が息づく長崎県波佐見町で、「自分達がかっこいいと思うもの、気持ちが高揚し、ワクワクする陶磁器」を手がけるブランドがあります。

今回ご紹介した「狛猫 たたら3寸皿」を手がける「BARBAR」です。彼らの信念は、以下の3つ。

1.ものづくりの現場で培われてきた技術
2.時代を超えても変わらない魅力
3.自由で枠にとらわれないアイデア

「楽しい!かっこいい!おもしろい!」。ダイレクトに感覚を呼び覚ます、現在進行形の波佐見焼を、このシリーズから感じてみてください。

波佐見焼マルヒロの直営店

掲載商品

BARBAR 狛猫 たたら3寸皿
1,600円(税抜)

豆皿の写真は、お料理上手のTammyさんが撮ってくださいました。他にも普段の食卓のコーディネイトの参考になるような写真がたくさんあります。Instagramも、ぜひ覗いてみてください。

文:中條美咲

産地のうつわはじめ

益子焼
九谷焼

いま「修業」以上に求められるもの 錫工房の清課堂が考える、日本文化の残し方

京都・寺町通りにある、天保九年(1838年)に創業の「清課堂」。数多ある金属のなかで、錆びない・朽ちない性質を持つことから縁起が良いとされ、繁栄を願う贈り物としても親しまれている「錫(すず)」を扱う、現存する日本最古の工房です。

その清課堂の七代目当主が、錫師・山中源兵衛さんです。

「錫そのものを広げていくことに興味はない」「修行の概念はもう通用しない」——。意外な言葉を発する山中さんが、清課堂の家業を継いで約30年に至るなかで考えたこと。それは、「錫」という素材そのものの良さではなく、「錫」を通して日本文化を継承し、紡いでいくということでした。

清課堂の外観

「継ぐ気なんて、さらさらなかった」

二十歳過ぎで家業に入り、清課堂で錫の伝統を紡いできた山中さんですが、意外にも「性格的にものづくりそのものには向いてない」と話します。

清課堂七代目当主・山中源兵衛さん

「私自身はこれまで責任感でこの世界で仕事をしていて、楽しいと思ったことはほとんどないんです。それこそ、継ぐ気なんてさらさらありませんでした。

当時は、『IT・インターネットが世界を変える』と社会全体が意気込んでいた時代でもありましたし、私自身もコンピューターを勉強していたこともあってエンジニアを目指していました」

天保九年(1838年)創業、現存する日本で最も古い錫工房の現当主は、なんとITの世界を志していたのです。

しかし、脈々と受け継がれる日本の文化の灯が消えゆくことを山中さんは看過できませんでした。

「親戚一同に外堀を埋められたのもありますよ(笑)。でも、この仕事に従事する方々が減り、一方で脈々と続けていく方々もいる。神社が日本各地にある一方で錫製の神具を作っている工房は、日本では我々ともう一軒しかいらっしゃらないんです。そうやって錫の伝統を紡がれている方々に対しての責任ですよね」

「修行」という概念は、いまでは通用しない

工房での錫製品の制作作業も見せていただきました

「外堀を埋められて継いだ」という山中さんですが、清課堂とともに工芸の世界に身を置いてからは約30年間が経ちます。

受け継がれる技術や専門性が色濃い工芸・職人の世界において、「修行」はワンセット。そういったイメージは私たちにも広く浸透しています。しかし山中さんは、いま求められるのは「修行」ではなく「教育による継承」。そう話します。

「一人前になるにはどれくらいの期間がかかるかというのも、私はあまり言わないようにしています。仕事ができなくても一人前だと思わないといけない。だからこそ、私たちは『教える』ということに多くの時間を割いています」

ひとつひとつが手作りだという、作業道具の金鎚

『一人前になるまで15年』と言われていた時代があったなかで、さらに早く成長できるように研修する。清課堂にとって、作るだけでなく教育をしていくことは工芸の現場が生き残るための術であります。

「昔は仕事が終わった時間に、各自が修行や勉強をしていましたが、いまはそれでは続いていかない。それが本当に正しいのかは誰もわかりませんが、事実、職人の仕事も『就労』という考え方がベースになり、時代とともに変わっています」

「材料の使い方から道具の使い方まで、若い人たちが理解でき、継承していく。そういった修行と研修制度(教育)の変化は大きいと思います。さらに、技術を視覚化してそれを蓄積、共有すること、かつそれをいつだれでもどこでも見ることが出来る仕組みが機能してはじめて、良い作品作りに結びつくと考えています。

私が仕事を始めた当時はバブル絶頂で、とにかく製品が売れたんです。そのあとすぐにバブルは崩壊しましたが、多くのメーカーさんが廃業する中で、競争相手が減ったという側面と、国内外での工芸ブームなど、様々な要素があって私たちは生き残っている。それは運が良かったことではありますが、今後もこの文化を残していくうえで、昔のように『修行』という概念は通用しないんです」

日本の文化を、世界に売り出したいとは考えていない

清課堂の酒器

工芸の世界が少しずつ再評価され、山中さんは「ここまで手仕事が注目されるとは思っていなかった」といいます。しかしそういった状況にあるなかでも、「錫という産業や製品自体を広く売り出したいとはあまり考えておらず、興味がない」。それが山中さんの考えでもあります。

「ある種の金属素材は地球上で有限で、錫もいつか枯渇しますし、元来、他の伝統的工芸品とは違い素材が地球上に自然に存在せず、それを採掘するための鉱山の開発が自然破壊につながると考えるからです。必要とされる分だけ製作したり、壊れたりなど使い終わったものが回収・再資源化できる手の届く範囲で販売したりすることが大切だと考えています」

「それよりも、自分たちが歩んできた歴史を振り返り、どうやったら日々の生活を良くできるかと考えること。そのためには、この文化を若い世代にしっかりと、丁寧に伝えたることのほうが大事だと思っています。

異なる文化圏の方々との交流や、京都から遠く離れたその地の職人たちとの協働製作の可能性を信じているので、海外での講演や清課堂の世界観を伝えるための個展などは、私たちが続けていることでもありますが、『錫そのものの良さ』というのを私たちの売り文句にしようとはあまり思っていないんです。

工芸の良さは素材だけでなく、用と美、つまり“かたちの機能性や美”の追求などといった工芸の本質を問い、極めるところではないかと思います。革新の真髄は素材とは別のところにある。もちろん素材の良さを引き出すことは大前提ですが、ゴールはそこでなく、革新がそこにあるわけでもない」

「錫もより人目に触れる素材になりましたが、“もの”というのはあくまで“もの”でしかない。私は、そこに積み重なって紐づいている知恵や工夫、思想、美学がどうしようもなく愛おしいんです。

本来、日本人の背景にはそういった美学と切り離せない茶の文化があります。現代の日本人は茶の湯にしろ、煎茶道にしろ、暮らしの中にお茶という時間がない。お湯を沸かす5分間があれば、日々はもっと豊かになる。私たちが目指しているのは、錫を通して、日々の中で失われてしまった文化の美しさを若い方々に伝えて行くということだと考えています」

長い歴史をかけて技術や感性、ノウハウが育まれ、先人たちの知恵が詰まった工芸の文化が、どんな幸せな未来を描けるか。生活、文化、風習の違いによっては廃れたものが多くあるなかで、それらの文化がもっと幸せな未来を描けたのではないか。いま残ってる文化やそこに携わるひとたちが、どうすれば幸せな将来を築けるのだろうか。山中さんは常にそう問い続けています。

そして、「私ひとり、清課堂の力だけではどうしようもない」とも。

カウンター10席の小さいお店を経営する亭主、料理長の思いまで細かく形にする少量生産が多い清課堂には、一度に1000個の製品を作ることはできません。

「セレクトショップなどでひとつ2000円くらいの製品を販売することは、たしかに多くの人の目に留まる。でも、その仕事は私たちにはできません。様々な人が自分に合ったものを自由にチョイスできる良い時代でもありますから、そういった多様な在り方がある中で、私たちも私たちにしかできない方法で、この文化を紡いでいきたいと思っています」

<取材協力>

清課堂

https://www.seikado.jp/

〒604-0932 京都府京都市中京区 寺町通り二条下る妙満寺前町462

075-231-3661

文:和田拓也

写真:牛久保賢二

たおやかな曲線の美。春を招く木瓜の花

特集「産地のうつわはじめ」

中川政七商店の全国各地の豆皿
11窯元の豆皿をご紹介していきます

日本五大紋がモチーフの、春を招く縁起のいい花

モダンでありながらどこか懐かしさを感じるこのかたち、ある花がモチーフとされています。

それは、平安時代に中国大陸から日本に渡ったとされる「木瓜(もっこう)」。日本では代表的な家紋のひとつとして、使用する家も藤に次いで2番目に多いのだとか。

木瓜型は、子孫繁栄の象徴でもある鳥の巣を表現したものといわれます。神社の御簾の帽額(もこう)に多く使われた文様から「もっこう」と呼ばれるようになりました。

美しいデザインと、有田焼ならではの多彩な色使いが食卓に花を添えてくれます。

与山窯の豆皿

「有田焼」のはじまり

江戸時代の初め、朝鮮人陶工・李参平らによって有田町の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、日本で初めて白磁のうつわを焼いたことから「有田焼」が始まったと伝えられています。透き通るような素地の白さと、繊細で華やかな絵付けが特徴です。

「有田焼」の特徴は大きく3つ

一般的にいわれる伝統様式は、藍一色で伸びやかに描かれた「古伊万里様式」、余白を生かした絵画的な色絵の「柿右衛門様式」、染付・色絵・青磁の技法を駆使した「鍋島藩窯様式」の大きく3つに分けられます。

磁器と陶器のちがい

磁器の原料には「陶石」と呼ばれる岩石を用います。陶石は、白くて堅く、吸収性がありません。一方の陶器は、土(粘土)を原料に用います。吸水性があり、磁器に比べると素地の焼きはやわらかいことが特徴です。

1616年に採石が始まった泉山磁石場は、400年間に渡り削り取られてきたことで、一山のほとんどが掘り尽くされ、白い磁肌を見せながら大きく扇形に広がっています。

白く光る石の発見から始まった、吉田山の陶業

佐賀県嬉野市に位置する肥前吉田(ひぜんよしだ)は、400年以上の歴史を持つ有田焼の産地です。

1577年(天正5年)、吉田村を流れる羽口川の上流、鳴谷川の川底で白く光る石が見つかりました。当時の日本にはまだ本当の磁器はなく、これが磁鉱石の最初の発見といわれています。

たおやかな曲線と、有田焼ならではの発色

有田焼といえば、透き通るような白磁に描かれる鮮やかな色釉が魅力のひとつ。釉薬の奥からほんのり浮かびあがる繁茂の姿をたおやかな曲線が包みます。

木瓜のかたちを活かすために、色釉はあえて単色使いに。有田焼ならではの発色の力強さを感じられる一皿です。

繰り返すことで柔軟に。深い伝統と良質でリベラルなものづくり

この地で窯を開いた辻与製陶所 与山窯(つじよせいとうしょ よざんがま)。創業は、1854~1860年(安政年間)に遡ります。

与山窯は、有田において御用焼を営む「辻家」の出。初代与介が吉田の地に窯を開き、現在は六代目へとバトンが継がれています。

磁器から焼締まで製品の幅は広く、「深い伝統と技術」と「時代にあった良質でリベラルなものづくり」を繰り返し積み重ねてゆくことで、柔軟でモダンな独自のスタイルが確立されています。

掲載商品

有田焼の豆皿 木瓜型
1,296円(税込)

豆皿の写真は、お料理上手のTammyさんが撮ってくださいました。他にも普段の食卓のコーディネイトの参考になるような写真がたくさんあります。Instagramも、ぜひ覗いてみてください。

文:中條美咲

産地のうつわはじめ

 

益子焼
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有田焼
有田焼