わたしの相棒 〜手槌は折れても魂折れず〜

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。工芸を支える職人の愛用品をご紹介する「わたしの相棒」。普段は注目を浴びることが少ない「職人の道具」にスポットを当て、道具への想いやエピソードを伺います。今回は三条で今でも唯一、「鉈」を専門にすべての工程を手作業で作り続けている日野浦刃物工房の、日野浦司さんにお話を伺いました。

日野浦司さんの「わたしの相棒」は『手槌』。槌は槌でも、手仕事の意味合いを強く持つ鍛冶屋では『手槌』と呼び、昔から鍛冶屋の魂として受け継がれてきています。この手槌には、単なる道具ではない、鍛冶屋の歴史と未来を想い続ける職人の心が詰まっていました。

100年受け継がれる鍛冶屋の魂

「鍛冶屋はまず、自分の手槌を自分でつくることからはじまるんだ」

日野浦さんは相棒の手槌を握りしめ、昔を思い出すように話をしてくれました。鉄を打つその道具づくりから職人として自分で責任を持ち、決して妥協しない。一番使いやすい柄の長さや木の素材、頭部の大きさや重さ、そして全体の重心のバランスを見極めながら、世界で一つの自分だけの手槌をつくるということです。鍛冶という手仕事のために、まずはその道具を鋼材屋と木工屋で材料を仕入れてつくるのが、昔ながらの鍛冶屋の自然な在り方。日野浦さんも先代の手槌を見ながら試行錯誤して自分の手槌をつくった若き日を、今でも昨日のことのように思い出せるそうです。
その当代専用の手槌の横に、炎の熱で頭部や柄が黒ずんでいる、ずいぶんと年紀の入った手槌が並んで置かれていました。

2つ並んだ、当代専用の手前にある手槌と、先代から受け継がれた奥の手槌。
2つ並んだ、当代専用の手前にある手槌と、先代から受け継がれた奥の手槌。

「これは100年以上に渡って三代受け継がれてきた手槌。力尽きて柄の部分が折れてしまって。柄だけ新しく付け替えたけど、折れた柄には先代の指の形がくっきり残ってたんだ」

先代の指の跡が刻まれるほどに強く握られ、鉄を打ち続けてきた年代物の手槌。確かに、時間の経過を感じさせる黒ずんだ頭部に対して、折れて付け替えたという柄の部分はまだ新しい印象を受けました。持たせていただくと見た目以上にずしりと重く、その道具としての重さ以上に、そこに込められた歴史や鍛冶屋の想いの重さを感じさせられます。木材は粘り気と強度がある桜の木を重用しているということですが、それでも三代使い続けるうちに折れてしまったことからも、鉄を打つ瞬間にこの手槌にどれほどの負荷がかかっているのかが想像できます。

鉄に力が伝わりやすい角度に、ほんの少しだけ先端が下向きに曲がっています。
鉄に力が伝わりやすい角度に、ほんの少しだけ先端が下向きに曲がっています。

かつて鍛冶屋では鉄を打つための金床の片側に親方、その反対側に弟子が2・3人並び、交互に手槌を打ち付けていたとのこと。だから、昔の手槌を見てみると、親方のものと弟子のものとで、頭部の先端が曲がっている方向が逆を向いているそうです。弟子の手槌は上向きに少しだけ反っていたので、親方の手槌が打った同じ場所を弟子が叩く時に、同じ角度で鉄に力を加えることができます。協力して1つの鉄を打つための工夫が、道具自体に施されていたのです。

「その名残のわずかな角度の変化が今でも残って、大きく降り下ろさなくても鉄に力を伝えやすくしてくれているんです」

数人がかりで打っていた行程は、今ではスプリング・ハンマーという機械化されたハンマーが代わりに担ってくれていますが、それでもやはり最後は人間の手で手槌を振り下ろし、鉄の感触を直に確かめながら成形し、刃の質を丁寧に丁寧に高めていきます。大きく振りかぶるのではなく細かく狙いを定めて打ち下ろし、正確に力を伝え形を整えていくために手槌の曲がりが役立っているのです。

工房には手槌意外にも、鉄を掴むハシなど、手づくりの道具が所狭しと並びます。
工房には手槌意外にも、鉄を掴むハシなど、手づくりの道具が所狭しと並びます。

「打つたびに鉄や鋼は良くなる。だから、こいつが無くては仕事にならないんですよ。相棒でもあり、私が鍛冶を守り続ける誇りの形でもあるんです」

先代から受け継がれてきた手槌は折れてしまったけれど、受け継がれてきた鍛冶屋の魂は日野浦さんの中に力強くたぎっています。そしてまた次の世代へと、この手槌とともに日野浦さんの決して折れない魂が受け継がれていく。日野浦さんはそう願いつつ、若い人たちに鍛冶の素晴らしさを伝え続けています。

〜「日野浦刃物工房」が登場する『「工芸」の起源は鍛冶にあり?」』の記事はコチラからご覧いただけます。合わせてご覧ください〜

文:庄司賢吾
写真:神宮巨樹

神さまに捧げるものづくり

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
初詣に縁日、修学旅行に縁結び。子供の頃から神社やお寺は身近な存在ですが、行事の意味や成り立ちの詳しいところは、知っているようで意外と知りません。そんな神聖な場所に、38年つとめられた方のお話を伺うことができました。

訪ねたのは11月に行われた工芸の祭典「奈良博覧会」でのトークイベント、題して「奈良の工芸」。語り手は世界遺産、春日大社で昨年まで権宮司(ごんぐうじ)をされていた、岡本彰夫さん。聞き手は以前から岡本さんの私塾の塾生でもあった、奈良の工芸メーカー、中川政七商店代表の中川政七。遷宮はなぜ20年に一度なのか?造替(ぞうたい)との違いは?身近なようで意外と知らない神事のお話から、土地のものづくりとの密接な関係、日々の暮らしに活かしたい心がけまで、盛りだくさんでお届けします。

以下、岡本彰夫氏発言は「岡本:」、中川政七発言は「中川:」と表記)

トークイベント当日は、20年に一度の式年造替、中でも本殿遷座祭(正遷宮。神様が御仮殿から本殿へ戻られる儀式)が春日大社で執り行われている日。そもそも、遷宮は聞いたことがありますが、造替ってあまり耳慣れません。一体何が違うのでしょうか?

遷宮と造替の違い

語り手の岡本彰夫さん。時折ホワイトボードを使いながら解説くださいます。
語り手の岡本彰夫さん。時折ホワイトボードを使いながら解説くださいます。

岡本:お伊勢さんは遷宮、春日さんでは造替と言います。遷宮というのは宮ごと遷(うつ)るんです。
お伊勢さんの場合は御敷地(みしきち)という本殿をお建てする場所が東と西に二つございまして、今回の御遷宮では東の御敷地から西の御敷地へお遷りになる。
東の御殿にいらっしゃる間に西の御殿を建てて、完成したら西の御殿にお遷りいただく。お遷りになられたら東の御殿を完全に撤去します。宮ごと遷るから遷宮と言います。春日さんは、御敷地が一つなんです。御殿の位置を変えずに建て替えるので、造替と言います。

中川:20年に1度というのは、何か意味があるのですか?

岡本:それはしっかり言うとかな、いかん話でね。20年で神様の力が衰えるから作り変えるという説がありますが、それは間違いです。人間だって80歳でかくしゃくとした方がおられるのに、20年で力が衰えたら、神様とは言えませんわね。20年というのは、人間の寿命に合わしてございます。

建て替えに、20歳の息子が初めて携わる。これは初めてで何もわからない。2回目の親父が40歳。過去1回の経験を踏まえて本番を迎える。それで、3回目の経験になるおじいさんが監督しはる。

これで1200年、無事に技術が伝承している。ようは人づくり、人を残すための、20年なんです。企業も人を作らないかん。おうちも人を残しとかんと跡形もなくなりますよ。

そして御殿を新しくすると、お仕えしている我々が、神様は本当においでになるな、と肌で実感させていただけるんです。本当に神様のお力というのは偉大やな、と胸に刻みます。それを、自分の子や孫に伝承していくんです。建物を遺すのみではなく、神の尊さ素晴らしさを伝承する、ということです。

中川:工芸の世界でも、お父さんと息子さんとか、家族でやられているような小規模なところが多いですね。たまにおじいちゃんが元気だと3人でやってはりますけど。今のお話を聞いて、最低3人という単位が、技術を継承していくには大切なんやなと思いました。

聞き手の中川政七。日頃から岡本さんを師と仰ぐ。
聞き手の中川政七。日頃から岡本さんを師と仰ぐ。

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技術と精神の継承に最低3代必要、と言う神事とものづくりの共通項が見つかったところで、岡本さんからもう一つ、神事において「人の顔を立てる」ことの大切さ、が語られます。神様のための儀式なのに、人の顔を立てるって、どういうことなのでしょう。二つの儀式を例にお話が進みます。

世界遺産・春日大社が1200年続いた理由

岡本:昨年、退任前に仮殿遷座祭(本殿修復のため、神様に西隣の『移殿』へ一時お遷りいただく儀式)だけはご奉仕したんですが、その時に確信を得たことがあります。「人の顔を立てる」ということが、この儀式に散りばめられているんです。

例えば、神宝検知之儀(じんぽうけんちのぎ)というのがあるんです。
御神宝(ごじんぽう)というの神様のお使いになるお調度と宝物(ほうもつ)を、200点くらい新調するんです。それを出来上がりますとね、一同に並べて検分する儀式なんです。検分した後に、職人さん全員に装束をつけて並んでもろうて、挨拶をします。

新調するものは、例えば塗り物ですと、塗師(ぬし)の名前で発注して、塗師の名前で納入されます。ところが塗師一人でできるわけではない。

中川:漆は分業ですからね。

岡本:まず木地師が要ります。その上で塗師がいる。金具を付ける場合は金具師がいる、
蒔絵をする場合は蒔絵師がある。ところが、納めるときの名前は塗師しか出ません。
出したらいかんということになっている。なんぼ一所懸命やっても、名前すら遺らない人がたくさんいるわけです。

感心したのは、神宝検知の時に、木地師も塗師も金具師も蒔絵師も、全員装束つけて並ぶんです。そのあと宴会を開いて、そこで褒美の品も渡します。ちゃんと顔を立てるんです。そうするとね、職人さんがやっててよかったと思ってくれはるんです。自分の作ったものが神様の宝物になったんやという誇りになる。

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中川:ものを作る人が誇りを持てる状況をつくる、というのはすごくよく分かります。
例えば後継者問題というのは当然工芸の世界にもあるんですけど、食えるようになったら後継者が出てくるかというとそうでもない。プラスそこに誇りがないと、できないことかと思います。

岡本:おっしゃる通りですわ。他にも例がありまして、御殿奉磨之儀(ごてんほうまのぎ)という儀式があります。神様が御殿に入られる時に床が汚れていたらいけないので、直前に大工さんがカンナをかけるんです。御清鉋(おきよかんな)という。それがささくれていたらいけないので、さらにトクサで床を磨くという儀式です。

昔は身分制度が厳しくてね、神主というのは二段階になってて、まず社家(しゃけ)というのが16軒あります。この人達だけが、御殿の階段を上がることができます。その下に、80〜100人の、下級神職がおるんです。神の人と書いて神人(こうど)といいます。この人たちは生涯、御殿の階段を上がれません。

ところが、御殿奉磨の時は神様が仮殿にお遷りになっていて、御殿におられないでしょう。その時だけ、神人は御殿の中に入れるんです。20年に1回だけ、この人達は、御殿の中に入って床を磨くんです。これね、全部人の顔を立てるっちゅうことです。

春日大社が1200年、なぜ続いたか。もちろん神様が第1番だけれど、2番3番には人を大事にすることです。会社でも同じです。全員桧舞台に上げてあげるということです。

中川:全員を桧舞台にあげる、というお話ですけれど、うちでもある神社さんの遷宮に、60年前の遷宮まで関わらせていただいていました。馬の形をした彫馬(えりうま)という神宝の鞍の裏に張る生地が、うちの麻生地だったんですね。鞍の裏じゃないですか。でも、うちも名前を残してもらってたんです。

遷宮を手伝っていたことは知っていたのですが、ある時お参りにいらっしゃいませんかとお声がけいただいた際に、神宝(じんぽう)に関わりのある身分として、普通の人が入れるところよりちょっと奥まで入らせてもらって、お参りさせてもらったことがあるです。やっぱりそういう体験をすると、いい仕事せなあかんなと思いますね。

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携わる人を大切にすること。「ものづくりは人づくり」「会社は人である」といった格言を耳にしますが、すでに1200年前の昔から続く神事の中に、その答えが込められていました。つまり、それだけ神事の周りには多くの道具と、それを作る人が存在していたということ。話は続いて、具体的な神事に使われていた工芸品の話題に移ります。

三十の手習い「茶道編」一、今日から変わる、きれいなお辞儀の仕方

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

着物の着方も、お茶の作法も、知っておきたいと思いつつ、過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、すっかり忘却の彼方。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第1弾は茶道編。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。今回は初日のお稽古レポート、その後編です。

前編はこちら

◇今日から変わる、きれいなお辞儀の仕方

今日は好きなように飲んでみてください、とお茶を一服いただき、一同少しくつろいだところで、「礼」の稽古が始まりました。

「礼の始まりは、きれいに座ること、きれいに立つことです。

立礼でも座礼でもルールは全部一緒です。背筋を伸ばしてきちんとお辞儀をする。その、頭がボトムラインに達した時に、一拍止めるときれいなお辞儀になります。

この時、互いの頭を上げ下げするタイミングが揃っている方が気持ちいい。揃えたかったら、お辞儀をする前に相手の顔を一瞬パッとみることです。そうすれば、必ず揃います」

では、やってみましょう、とまず座礼の基本姿勢から習います。

「男性は正座したら、膝と膝の間に拳二つ分くらい空ける。女性は一つ分。丹田に力を入れて、顎を引いて、1度大きく息を吸って、静かに長く吐いてください。

気息(きそく)を整えて、ことにあたる、ということが大事なんですね。

大きな木を抱えるように体の前で手で丸を作って、そのまますっとおろしてきます。
手の甲を上に向けて、太ももの上に乗せる。
何をするにもこの動作からやっていきます」

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「この状態で、礼。
たとえ深々としていなくても、背筋が伸びていて、ほどよい角度で一旦止めることが大切です」

次は、席を立つ時の所作。

「立ち上がる時はつま先立ちをして、かかとの上にお尻を載せる。その時背筋がまっすぐに伸びていること。

これができない時は、足がいうことを聞いていない時なので、絶対に立ってはダメです。逆にどんなにビリビリきていても、この姿勢になれるなら、足がいうことを聞いているので大丈夫。この状態で膝をすっと浮かせて、立ち上がります」

本当に、このやり方だと着物でも無理なく立ち上がれます。

「背筋は自分が思っているほどまっすぐに伸びていません。背中が弓なりになっているくらいのつもりで立ってみて、肩をグッと後ろに落として下げる。これでやっとまっすぐです」

一通り実践してみた後で宗慎さんの語られた言葉が、とても力強く、心に刻まれました。

「手に入れた知識、教養こそ財産です。これは他人が絶対に奪うことのできないものです。

1回聞いて知った話は、なかったことにはできない。後天的に訓練してきれいになるとわかったら、相手のお辞儀をチェックする人生が始まるんです。

だから、勉強しておかないと駄目なんです。口に出さないだけで、自分は知らないけれど相手が知っていることがたくさんあると思ったら、恐ろしいですよ」

これからはお辞儀はきれいでないといけない、というファクターの加わった人生になるんです、とニッコリ語られる宗慎さんの言葉に、座にはさぁどうしよう、という笑いが起こりました。

◇ものを選ぶこと、選ばれるものを作ること

「お茶って一つには、物を選ぶということだと思うんです」

話題は礼から、道具のお話へ。

「たいそうなものを選ぶのではなく、身の回りにある小さなものを、おざなりにせずに選んでいく、その作業が大事です。作り手にすれば、選んでもらえるものを作ろう、ということですね」

そうして、大切にされている扇子と黒文字楊枝を見せていただきました。

広げた姿に、すでに緊張感があるでしょう、と開いてくださった扇子は、艶やかな漆塗りの親骨に純銀の要。数年寝かせてから貼られたという和紙の扇面は、閉じるとパチンと小気味良い音がします。

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一般的なものより長さのある黒文字楊枝は、なんと象牙製。ずっしりと重みがあります。

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「これからものの美しさを習うというのに、初心者だからとお店の人が安いものを勧めるのは間違いです。自分のお小遣いで買える最高のものを買おうという気構えが、買う側も売る側も大事なんです」

◇気がある人になる

2服目をいただいて、そろそろお稽古も終盤。稽古中に繰り返し宗慎さんが語られたのが、「気がある」という言葉でした。

「世の中で一番大事なのは、気があることです。
気を持って『こういうものをわかるようになりたいな』と我勝ちに、自分の方から間合いを縮めようとさえ思えば、あっという間に縮まりますよ。

練習とは言わないということも大事なところです。練習でなく、稽古です。

古事記の冒頭に、なんでこういう歴史書を作るのか、が語られます。そこに出てくる言葉が、「稽古照今」。稽古の稽という字は、考えるとか、思い致すという意味です。つまり、古を考えて今を照らすということ。

人間のやることに大差はないのだ、だから、かつての人々のやってきた事に思いを致し、今の我々がやっていこうとしていることを照らす、ということです。

ですから、練習という言葉よりも稽古という言葉の方が僕は好きです」

言葉のひとつひとつにも、気を持って。

「大層だと思っていたことは実際そうでもなくて、逆に、そうでもないと思っていたことが、大したことだったと気づくことの方が多いんです。扇の1本、茶巾の1枚を選ぶことが、いかに難しいか。それに気づくことが大切です。

自分が正しいと思っていたら永遠に変わらないですよ。気がある人になっていきましょうということです。

―では、今宵はこれくらいにいたしましょう」

習いたての礼で第1回目のお稽古が終了。ゆっくりと上げた頭に、きれいに立つ、座るということを、やっておいてください、と宗慎さんの言葉が染み込んでいきました。

◇本日のおさらい

一、何事にも気息を整えてことにあたる

一、礼は頭を上げる前に一拍止める。相手と呼吸を合わせて

一、身の回りの道具一つひとつ、おざなりにせず自分で選んで大事にする

前編はこちら


文:尾島可奈子
写真:庄司賢吾
衣装・着付協力:大塚呉服店

愛しの純喫茶 〜鎌倉編〜 イワタ珈琲店

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
旅の途中でちょっと一息つきたい時、みなさんはどこに行きますか?私が選ぶのは、どんな地方にも必ずある老舗の喫茶店。お店の中だけ時間が止まったようなレトロな店内に、煙草がもくもく。懐かしのメニューと味のある店主が迎えてくれる純喫茶は密かな旅の楽しみです。旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。第1回目はたくさんのカフェがある駅前でもひときわ目立つ老舗、鎌倉のイワタ珈琲店です。

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鎌倉駅東口を出てすぐのにぎやかな小町通り、可愛らしい食品サンプルにレトロなタイポグラフィで「イワタ珈琲店」のサイン。これは名店の予感しかしないと迷わず店内へ入ると、そこは分厚いホットケーキが評判の有名店でした。満席の店内の中、入ってすぐに人数とホットケーキの注文があるかどうか聞かれます。聞けば焼くのに20分ほどかかるとのこと。何の前知識もなく、ランチを食べたばかりでおなかはいっぱいだったけれど、好奇心には勝てずホットケーキとコーヒーをオーダーしました。

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開店前の様子。10時のオープン後は常連さんと観光客の方々で賑わいます。

創業71年の風格はありながら、きれいに手入れされた店内は清潔で、品が良い。その秘密を、3代目店主の岩田亜里紗さんにうかがいました。お店は、形あるものは、どうしても朽ちてしまう。でもお店は変わらないでほしいという昔からのお客さんからの声を受けて、ソファをデザインそのままに復刻したり、テラスを建て替える時になるべく以前の雰囲気を残したりと隠れた努力をしているそうです。昭和23年から働いているスタッフと家族同然に働き、常連さんを大切にする店主の気持ちがお店のひとつひとつを形づくっていました。

そうこうしているうちに、念願のホットケーキが運ばれてきます。60年ほど前から看板メニューのホットケーキは、銅板の上、当時から変わらぬレシピでじっくり焼くこと20分。熱々のホットケーキに大きなバターとたっぷりのシロップをかけて、いただきます。

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ホットケーキばかりに目がいってしまいがちですが、コーヒーは横浜のキャラバンコーヒーによるイワタ珈琲オリジナルブレンド。期待通りの苦味とコクです。

ショーケースに並ぶケーキも懐かしい味でおいしい。
ショーケースに並ぶケーキも懐かしい味でおいしい。

ついさっきランチを食べたことも忘れ、分厚い2枚のホットケーキをペロリ。変わらないために変わっていく老舗の味は、おなかのキャパシティなんてものともしないのでした。


イワタ珈琲店
鎌倉市小町1-5-7
0467-22-2689

文・写真:井上麻那巳

「工芸と歴史」松岡正剛と中川政七が語る工芸の変遷

2016年に創業三百周年を迎えた株式会社中川政七商店。その十三代当主である中川政七と、各界を代表するゲストが互いの専門分野をクロスさせて語らう対談企画。

第1回のテーマは「工芸と歴史」。”知の巨人”として名高い日本文化研究の第一人者、松岡正剛氏をゲストに迎えます。事前に寄せて頂いたコメント冒頭の一文は、「今、工芸の半分が、死んでいる」。いきなり核心に迫る幕開けです。

(以下、松岡正剛氏発言は「松岡:」、中川政七発言は「中川:」と表記)

バックミラーで歴史を映す

中川:今年、中川政七商店は三百周年を迎えたのですが、様々な角度から工芸を捉え直してみたいと考えました。そこで、各界で活躍されている方と対談をして知見を深めていこうというのが、今回の企画の主旨です。

第1回は、未来を考えるにはまず過去を知らなければいうことで、工芸×歴史をテーマに選びました。工芸も含めた日本の文化の変遷を紐解くなら、この方以外にはまず考えられないだろうと思います、記念すべきお一人目のゲストは“知の巨人”、松岡正剛さんです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

松岡:今日はよろしくお願いします。三百周年、おめでとうございます。

中川:ありがとうございます。実は正剛さんとお会いするのはこれが初めてではないんですね。そもそも三百周年を機に、社史をちゃんと整えようと思ったのですが、自社の資料がたいして残ってないので、どうせならもうちょっと広げて工芸の歴史全体を読み解きたいなと思ったのです。

ちょうどその時に松岡さんの『情報の歴史』(NTT出版)がイメージに浮かんで、松岡さんをたずねました。最初にお会いした時に松岡さんが言われた「歴史というものは未来を作るためにある」という言葉が、いまでも印象に残ってます。

情報の歴史 対談
対談のきっかけとなった『情報の歴史』(NTT出版)

松岡:最初に中川さんと交わした時の歴史と未来というのは、「バックミラーで歴史を映しながら前へ進む」ということです。そのバックミラーは一個である必要はない。いくつものフィルターやミラーで歴史をセレクトするのがいい。歴史を選定して前へ持って行くということです。その装置さえあればどんな未来へも進めます。その場に応じたものに歴史を持ってくることができるのは、未来が先行しているからです。

中川さん独特のセレクト感覚のもとで、立体的で不思議なバックミラーが作れれば面白いなというのが、僕が最初にあなたと会った時の「歴史は未来」と言った意味なんです。

中川:なるほど、今伺うと、よりはっきりとわかります。

松岡:そもそも中川さんが自分の会社の「のれん」に歴史を感じたのはいつ頃からなんですか。ビジネスコンサルティングという手法とシナリオと戦略を持って工芸の業界に入って、それが元々の家業とも重なっているわけだから、とてもユニークなケースだと思います。変なニュータイプ。「のれん」にこだわりがあるような、ないような。必然性があるような、ないような、ね。どの辺からそういうことをした方がいいと思い始めたんですか。

中川:変なニュータイプですか(笑)。工芸メーカーへのコンサルに関して言うと、何か戦略性が先にあったわけではなく、もう必要に迫られてなんですね。この仕事に入った頃、世の中ではファストファッションがどーんときている時で、要はたくさん作ることで安く作れる。それもあるかなと思ったのですが、こと工芸に関していうと、1000個作るから安くしてって言いに行ったらそもそも断られる。「いや、うち1000個も作られへん」って。

対談 中川政七商店

松岡:なるほど、工芸の特殊性に気づいたわけだね。小さなロットの注文生産だからね。

中川:1000個作るために100個作れるところを10軒探すのはすごく大変です。そして毎年のように廃業の挨拶に2、3軒来られる。このままいくとまずいなと思いました。それで、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げました。元気にするには彼らが自活していく道を考えなきゃいけない。そうすると経営に直接手を入れるしかないって思ってやり始めたんです。戦略的にというよりは、生きるためにスタートしたんです。

松岡:工芸や民芸を支える文化や基盤が今の日本にしっかりあるかっていうと、無いと思います。例えば、言葉の歴史を見てみるとよく分かります。言葉は当初、非常に意味が多様なんです。「自由」という言葉でいうと、日本では「自由狼藉」のように「勝手気まま」という意味があった。

しかし、明治維新後に「リバティ」という言葉が入ってくると、西洋の価値観も流入してくるわけです。単なる「勝手気まま」ではなく、民主主義や自由主義を含めた「自由」という言葉に変わっていく。次第に、リバティ的「自由」の意味が主流になっていくんですね。そうすると、「自由」の意味の多様性が少しずつ失われていく。本来言語は正反対の意味を内包するほどに多様です。日本でいうと江戸の粋(イキ)に対して京都の粋(スイ)、公家の「あはれ」に対して武家の「あっぱれ」。

中川:確かに、「あはれ」と「あっぱれ」では全く意味が変わってきますね。

松岡:そこが言語の面白さなんですが、リバティだけになってしまうと価値観が単一になっていくんですね。これは「工芸」に関しても言えることです。一時期は多くの人が「工芸」はこれでいいのか、「民芸」と言う方がいいのか、という風に向き合った時期があった。けれど、主流に対する反対・アンチが出にくくなっているのではないかと思います。

かつて、工芸の中には信仰も祈りも縁起物も、たくさんの意味と価値観が含まれていたけれど、もうそれは細かく散ってしまっている。お土産品とか民芸品とかは一体何に使うんだろうとみんな思い始めています。そこにきて、中川さんが話したように、メーカーが非常に少ないロットの中で戦っているということは、中川政七商店だけが抱える問題というよりも日本全体がそろそろ考えなければいけないことでしょうね。もしこれから新しい工芸を作り直すのだとしたら、今言ったようなことを一挙に起こしていった方が面白いと思います。

中川:そのためにもきっと「バックミラーで歴史を映しながら前へ進む」ことが大事なんですね。

弁慶の七つ道具と工芸の意外な関係

中川:改めて工芸の歴史を振り返ってみると、工芸とは、そもそも自分たちが使うものを自分たちの手で作るところから始まっていると思います。そこから始まって、権力者がお抱えで作らせていた時代がある。利休の黒楽茶碗みたいに、自分で作るのではなくプロデューサー的な人が出てくる。

さらに時代が進んで一般庶民も工芸品を買うようになって、量が必要だから効率的に作るようになる。それが商売になると思ってだんだん産地が形成されて流通も発達してくる。時代背景が変わるとそれに応じて工芸を取り巻く環境も変わる。だからその度に工芸のあり方も変わってきたのです。

松岡:工芸はいつでもその時代の長所と短所を技術面と意匠面の両方で抱えながら生まれ育ってきています。ただ生活技術やファインな表現技術にくらべると、少し遅れてセットされていく。

中川:それが遅れると衰退になるし、遅れなければ常に産業として成立していく。ここ30年のことを言うと日本の産地の出荷額は1/4以下になってるわけで、間違いなく工芸の世界は衰退しているんですよね。衰退の理由ははっきり分かっています。それは物を作ってる人と使う人の間が、時代と共にすごく遠くなってしまったことです。その時期に商売として栄えたからこそ人が集まってくるんでしょうけど、結果的には距離ができてしまって衰退の時代を迎えて今に至っています。それが未来への一つの示唆でもあると思うんです。

松岡:そこを中川政七商店はどうしようとしているの?

中川:当たり前のようですけど、距離が近くなればいいんじゃないかって思いました。とはいえ、自分で作って自分で使うわけにいかないので、今の時代における近くなるって何なのかを考えました。

その一つの解答は、「産業観光」なんじゃないかと思っています。産業観光というと世界遺産に認定された富岡製糸場のような産業〈遺跡〉を見学に行くものを思い浮かべがちなのですが、僕の言う産業観光は、生の産業を見に行く観光です。

対談 中川政七

現在進行形で動いている工芸の現場を見るのは刺激的だと思います。その兆しは既に出ていて、新潟の燕三条地区が年に1回だけ「工場の祭典」というオープンファクトリーを開催しています。ふだん稼働している生の職人の現場を開放しているのですが、扱うものが金属なので火もあって派手なんです。見たら誰でも「おー」ってなるし、そこで作られた物が横で売られているとやっぱり欲しくなる。全国から3万5千人を超える人が来ています。そういう作る人と使う人の近さが、もしかしたら一つの未来像なんじゃないかなと思うんです。

昔は流通が発達して物を動かしたけれど、今は人を動かしてそっちへ寄せていく。そうするとその現場だけじゃなくその周辺の土地性も含めて楽しめる。産地に来て見てもらうことが工芸の未来だと思うんです。

松岡:そういう意味では、歴史の中にも産業観光的なことはあったと思います。例えば奥州平泉で秀衡椀という器が作られる。そこには金が関わりますね。産業があるレベルに達すると、「奥州でなぜかおもしろいものが出来上がって都にまできた」と伝播します。するとどんなものだろうとみんなが見に行くんですね。奥州街道をずっと越えて、未知のものを見に行く。 義経の奥州下りに出てくる金売吉次(かねうりきちじ)は金の商人だし、弁慶が持っていた七つ道具は鉱山開発の道具です。そのうち義経と弁慶の物語がそうだったように、工芸だったものがお芝居になり、技術だったことが謡曲にもなる。これも観光であり、文化なんです。

対談 松岡正剛

中川:弁慶の七つ道具も、実は土地の工芸と関係していたんですね。

松岡:奥州に不思議なものがあるというのが噂になって、メディアが伝える。物がいいということだけではなく、たくさんの物語がくっついて、進化するんです。これらがいずれ浮世絵にもなり、最後には童謡のようなものにもなる。メディアを次々と乗り換えながら工芸がアートや物語になっていきます。「工芸の復活」ということが我々の一つの目標だとして、そこに何が足りないかというと、もちろん投資や職人さんの力などもありますが、こういった「変換」が必要なんだと思うんです。

中川:変換というのはどういうことですか?

Historyから新しいStoryを生み出す

松岡:お茶を例にすると、お茶摘み自体の観光力も多少はありますが、それが茶の湯に変換されたことが大きかった。「ちゃっきり節」という民謡になったり、それが鉄道唱歌になったりした。そのうち駅弁とお茶がワンセットになっていった。そういう変換が起きていくことが重要なんです。 ありとあらゆるものがかつては工芸品にくっついていたんですね。これらの変換によって次々と観光の資源が生まれていたんです。

最近の浴衣にしても、夜店や花火に着ていく人は増えていますが、それだけでは物語の数が少なすぎる。もっと祭りやコンサートやスポーツ観戦にも結びつくべきです。 産業観光というものが起こるんだとすれば、もっといろいろなものが変換され、転用され、転写されて増えていった方がいい。

中川:なるほど。松岡さんが本で書かれていた「物語を構成する5つの要素」を思い出しました。 物語の舞台となる「ワールドモデル」がまずあって、そこで「ストーリー」が繰り広げられる。「ストーリー」を進めるのは物語を生きる「キャラクター」と象徴的な「シーン」、そして読み手と物語の世界をつなぐ「ナレーター」、でしたね。

僕は、そういう物語をちゃんと作って多くの人が興味を持ってくれれば結果的に生き残っていけるし、商売として成り立つと信じています。僕らはたまたま工芸にいるからそれが起点、「ワールドモデル」になるわけですが、それだけじゃ物語は起こらない。だから昔のことを調べるんです。あるいは職人さんに専門的なことをいっぱい教えてもらう。彼らが「キャラクター」になることもある。 昔からのいろんな面白い話があるわけじゃないですか。それがまさに文化だと思うんです。それらをていねいに勉強しながら、その中にある面白いタネ、「シーン」や「ストーリー」や「キャラクター」を見つけ出してきて、変換する。僕らが「ナレーター」になるんです。

変換してたくさんの物語にすることでそれは伝わるし、伝わるとそこに物が売れるということも付いてくる。それが膨らんできて、ある一定の膨らみになると人が来始めるんだと思います。それは、ずっと中川政七商店がやっていることです。だから工芸じゃなくても実はできると思うんです。お酒であっても農作物であっても。

対談 工芸 歴史

松岡:そうそう、そういうふうになった方がいいですね。今の日本を面白くするには、工芸もお酒も書も花も全部が一斉に立ち上がらないと駄目なんです。 今の日本の多くの企業のように、グローバルで勝ち組になるしかないっていうロジックだけではいけません。だって勝つのは少数だから。勝っても負けても成立する物語がもっと増えないといけません。 Historyという言葉にStoryという言葉が入っているように、歴史をめぐる面白さはやっぱり物語性なんですよ。

中川:歴史や背景をきちんと見ない限り新しい物語は紡がれないと思っています。創業三百周年という節目は、まさに歴史をバックミラーで見ながら未来に向けた物語を考える、ちょうど良い機会だったと思います。歴史の中から工芸や産地の新しい物語を紡いでいくことを、ひたすらずっと、やっていくのが僕らの生業なのかなと思います。

松岡:ぜひそうして下さい。これからの活躍を楽しみにしています。

対談 工芸 歴史

話者紹介

松岡 正剛(まつおか せいごう)
雑誌『遊』編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、現在編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。日本文化、芸術、生命哲学、システム工学など多方面におよぶ思索から情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱。システム開発、企業プロデュース、地域文化再生など多彩なプロジェクトを手掛ける。

中川 政七(なかがわ まさしち)
中川政七商店代表取締役社長 十三代。京都大学法学部卒、富士通株式会社を経て中川政七商店へ。「遊 中川」「中川政七商店」「日本市」などのブランドで直営店出店を加速させ、工芸をベースにしたSPA業態を確立。「日本の工芸を元気にする!」をビジョンに掲げ、業界特化型コンサルティングを各地で行う。2016年11月、十三代政七を襲名。

中川政七と松岡正剛

写真:井原悠一

柔らかな鴨と季節の野菜を贅沢にいただく加賀料理 治部煮

こんにちは。さんち編集部の西木戸です。
突然ですがみなさん、玉子焼きは何派ですか?私は、甘めの出汁巻きが好きです。二番だしを多めに入れて焼いた分厚い玉子焼を、粗めにおろした大根と一緒に食べるのが我が家の定番です。
地域によって、味付けや調理法が違うのは日本料理の面白さ。食べ親しんだ味もいいですが、旅に出て食べたいのはやはりその土地ならではの料理です。今まで食べたことのない素材や、いつもと違う食べ方に出会いは、とてもウキウキするものです。 また、料理が違うとなればそこに使う器も違ってくるはず。もしかすると料理の進化に合わせて、それを盛る器だって、料理にいちばん似合うよう形を変えたり、新しく作られてきたかもしれません。
かつて、芸術家であり料理人・美食家でもある魯山人氏は、「美味しい料理にふさわしい器が必要だ」と料理に合う器を作り始めました。「うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ」と言い残しています。工芸の産地で料理をいただくときには、それが盛られている器にも注目して、目でも楽しみたいものです。

加賀料理 治部煮

石川県金沢市をはじめとする加賀地方で発展してきた郷土料理である加賀料理。 今回ご紹介するのは、その代表格である「治部煮」です。
江戸時代から伝わり、加賀藩の武家料理が起源とされる料理なのだそう。輪島塗の美しいお椀の蓋を開けると、湯気と共にお醤油のいい匂いがします。さすが武家料理、贅沢に鴨肉が使われていました。加賀名物のすだれ麩、里芋、椎茸などのお野菜と一緒に煮込まれています。お砂糖のきいた甘いお醤油味の日本らしい味付け。もちろん合わせるのは日本酒です。地酒「常きげん」。しっかりとお米の香りがし、少し濃いめの治部煮にもよく合います。美しくとても美味しい加賀料理に、お酒も一合、二合、三合、、とついつい進んでしまったのは言うまでもありません。ご馳走さまでした。

ここでいただけます

源左ェ門
石川県金沢市木倉町5-3
076-232-7110

文:西木戸 弓佳
写真:林 直美