クリスマスイブですね、街はイルミネーションやクリスマスツリーで華やいでいます。
今年はいくつクリスマスツリーを見かけましたか?この後もきっと街で見かけると思いますが、その時はぜひ、ツリーのオーナメントに注目してみてください。赤や青など色鮮やかに装飾された「ガラス玉」を見つけることができるはず。
今日はその「ガラス玉」と、そこにまつわる「倉敷ガラス」のお話をお届けします。
世界に誇るの倉敷ガラス。始まりの小さな工房を訪ねる
倉敷駅から車で揺られることおよそ15分、粒江 (つぶえ) という地域の小高い山の上に、その小さな工房は佇んでいます。
ここは、小谷真三さんと長男の栄次さんによる口吹きガラスの工房。日々の暮らしに馴染む程よい厚みと重さ、飾り気のない気取らぬデザイン、そして独特の色合い。
ここでつくられるガラスは「倉敷ガラス」と呼ばれ、日本や世界で高い評価を得てきました。
工房に迎え入れてくれたのは、この道30年のガラス職人・小谷栄次さん。その傍らでは、小さな工房に似合う小さな溶解炉が、ゴウゴウと火を燃やしています。
「これは『だるま』って呼んでて。ガラスを熔かすための高温炉、ゆっくり冷やすための徐冷炉が1つになってるんだよ」と、吹き竿の準備をしながら教えてくれます。必要な炉が1つにまとめられた「だるま」は、全てを1人で作業する倉敷ガラスにちょうど良い小ぶりなつくりです。
「まずはそこで見ていて」ということで、早速ガラスを吹いていただきました。その仕事ぶりは息をのむ美しさです。
「まぁこんな感じで」と、汗を拭く英次さん。流れるようなその仕事は真面目な人柄が表れるように、丁寧で正確で誠実。この倉敷ガラスの技術は、英次さんのお父様である真三さんが独学で磨き上げてきたものです。
「もう60年も前になるかな。元々父はグラスではなくて、クリスマスツリーのガラス玉をつくってて。10年以上、1日2,000個もガラス玉を吹いていたみたい」
今でこそプラスチック等の素材でつくられるようになりましたが、昔はその多くがガラスでつくられていました。真三さんにより息を吹き込まれたガラス玉は、海を渡り欧米のクリスマスツリーに飾られ、たくさんの家族のクリスマスを彩ってきました。
しかし、それだけ多くの数のガラス玉を吹かざるを得なかった背景には、他の素材の台頭や機械化によりガラス玉自体の単価が年々安くなっていたということがあります。将来ガラス職人として何をつくっていくべきかを考えながらも、生活を守るためにガラス玉を吹き続ける日々が続いたそうです。
倉敷ガラスを代表する「小谷ブルー」の誕生秘話
そんな時間を過ごしていた真三さんに50年ほど前、このガラス玉が大きな転機をもたらします。当時の倉敷の民藝館館長だった外村吉之介さんが、真三さんのガラス玉を見てある日、工房を訪ねてきました。
「突然メキシコのグラスを持ってきて、『こんなのつくって』って頼んできたようで」
当時の倉敷では暮らしの道具に「用の美」を見出す民藝(みんげい)運動の盛り上がりを背景に、民藝で街を盛り上げようという機運がありました。
その流れで、メキシコグラスの美しさに目をつけた外村さんが、これを倉敷でつくることができる職人はいないかと、白羽の矢を立てたのが真三さんだったのです。
歪みがなく均一な大きさでガラス玉を生み出す、腕の良いガラス職人として大役を託されます。
そんな突然の依頼を受け、グラスをつくるための試行錯誤の日々がはじまりました。今のようにネットも本もなかったので、全て自分で考えてつくらなければいけません。
渡されたたった1つのメキシコグラスからつくりかたを想像して、手探りで実験を繰り返します。低温でも吹くことができるガラスを使ったガラス玉と違い、メキシコグラスは高温で成形する必要があるため、炉から新しくつくったそうです。
特に苦労したのが、今でこそ「小谷ブルー」と呼ばれ、倉敷ガラスの象徴となった色の出し方でした。
「最初につくったブルーは青が鮮やかすぎて、外村さんにプラスチックの色だなんて言われてしまって。そんなこと言われても、こっちはもう業者に『安くする』って言われたから青色のガラスをいっぱい買っているし。余らせたらどうしようかと焦ったみたい」と、笑う英次さん。
このままでは赤字になってしまうという不安な気持ちを、決して得意では無いお酒に慰めてもらう日々。そんな時に真三さんの目に留まったのが当時の高級ウィスキー、サントリーの瓶でした。
その少しくすんだモスグリーンの瓶を、青色のガラスに砕いて混ぜてつくってみたそうです。
「そしたら、『これこれ!この色が良い!』って外村さんが凄い喜んでくれたみたいで。それで、そっからはこの色ばかりつくるようになったんだよ」
このブルーが、ブランドカラー「小谷ブルー」として定着していくことに。
こうして、小谷親子にしか出すことができないとまで言われる、倉敷ガラスならではの特別な色を持つグラスが完成しました。
倉敷ガラスは世界の舞台へ。しごくあたりまえ、だからいい
小谷さんのつくるガラスは、倉敷を代表する民藝として「倉敷ガラス」と呼ばれるようになりました。
この倉敷ガラスを広めようと、民藝運動で勢いのあったガラス関係者が一丸となって後押ししてくれたそうです。
「当時は民藝がまだまだ元気で、みんなが国内外問わずどこに行く時にも倉敷ガラスを持って行って紹介してくれてさ。それで小谷の名前は知らなくても、倉敷で1人でグラスをつくってる面白いやつがいるって有名だったみたいで」
そんなガラス関係者からの地道なサポートにより国内に広がっていった倉敷ガラスは、ついには世界からも注目を集めるようになります。
「30数年前に京都でWCC(世界工芸会議)が開催されて、それが世界のガラス関係者の集まりで。日本のガラス協会の会長が父をそこに引っ張っていって、『この男は小さい窯で1人でガラスづくりをしてるんだ』と世界中のガラス関係者に紹介したそう」
こうして人と人との繋がりが大きな輪になり、極東の国の小さな工房で生み出された倉敷ガラスは、ヨーロッパを中心に名前が知られるようになります。
吹きガラスはそもそも複数人でしかつくれないものだったので、1人でつくるスタイルは当時から世界でかなり珍しがられたそうです。
今でこそ「スタジオガラス」というスタイルで呼ばれるようになりましたが、クリスマスのガラス玉の頃から変わらない、1人で最初から最後まで作るという職人の姿勢は、世界のガラス関係者に驚きを持って迎えられました。
「外国の人がうちに泊まりに来たり工房を見に来たりして、『One man Glass Boy!』とか呼ばれてたんだよ」と、教えてくれる英次さん。真三さんの技術や人柄が、国境を越えて愛されていた様子が伝わってきます。
その後、倉敷ガラスは世界的陶芸家・バーナードリーチ氏から評価を得たり、WCCウィーン大会に参加したり、その名を世界へと広めていきます。
バーナードリーチ氏による「いやしくなく、気品があって、しごくあたりまえにできていて、たいへんよろしい」という批評には、倉敷ガラスの魅力が凝縮されているよう。その後もWCC設立の世界的ガラス美術館への出品を要望されるなど、海外との交流を続けていきます。
今や岡山県を最も代表すると言っても過言ではない工芸品「倉敷ガラス」は、そうして世界的な評価を確立していったのです。
若き職人に託す。倉敷ガラスの昔と今、そして未来
これが、クリスマスツリーのガラス玉が、世界の倉敷ガラスになるまでのお話です。
小さな工房で真三さん1人しかいなかった倉敷の吹きガラス職人は、今や7,80人にまで増えました。世界にも名が知られた倉敷ガラスをつくりたい、という若い職人が増え、大学でガラスづくりを教える機会も多いとのことです。
小さなガラス玉からはじまった倉敷ガラス。その物語は、若い職人に受け継がれ、これからもまた新しく大きな物語を紡いでいきます。
文・写真:庄司賢吾
※こちらは、2016年12月24日の記事を再編集して公開しました